猫と毒草

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  薬師の選択  

 ゲイリー・マクラウドは魅力的な研究者だ。薬師イオネとしては彼との繋がりを持つことに躊躇いはない。しかし、一人の女として彼と特別な関係を結びたいという気持ちは起こらなかった。ただ、いい友人にはなれると思う。それだけだ。だから甘い言葉を囁かれても心は動かない。
「貴方を幸せにする努力をします」
 プロポーズされるのはこれが初めてだ。以前はそれらしい言葉の一つも無く結婚した。人生初めてのプロポーズが結婚後で、それも夫がいる身で聞くことになるとは誰が思っただろう。
 なんて厄介な状況だ。こんなことは自慢にも何にもなりはしないし、二人の間にあるオリヴァーの影を考えると頭が痛くなる。
 オリヴァーが薬草研究家兼薬師としてゲイリーを欲しいのならばそれでもいい。それでイオネが今の役職を追われようとも仕方がない。薬師ならばロレンス邸の庇護下になくても続けられるし、現在の地位に拘ったことはない。力不足だと思われるのは悔しいが、何があっても守らなければならないものはプライドではない。
 ルイスがいなければイオネはイオネではいられない。自分が自分らしく生きる為に必要なのは薬師であること、それからルイスと共に在ること。それさえわかっていれば大丈夫。決して間違えたりしない。イオネは重ねた手に力を入れた。
「貴方では私を幸せにすることはできません」
 誰が何と言おうともそれが真実。
「仕事に関して充実した日々が得られることは否定はしません。貴方といれば私も薬師としての自分を高めることができるでしょう。貴方が素晴らしい薬師であり人間としても尊敬できる方であることはこの時間でわかりました。ですが今の私はそれだけでは幸せになれないのです。ルイス――夫でなければ。誰も代わりにはなり得ません」
 この世に代わりなど存在しないことはゲイリーにもわかっているはずだ。人を救う薬学に携わり、一人一人の命の重さを知っているだろう彼ならば。強い視線で訴えるとゲイリーは小さく息を吐いた。
「なるほど、なかなか芯のある女性のようだ。貴方をその気にさせるには並大抵の努力では足りなさそうですね」
「これでも毒草を扱う女です。自分の存続に危機をもたらす相手には容赦なく毒を向けますよ」
「残念ながら私には女性の求婚に多大な労力をかける価値観は持ち合わせていないのでね。でも、薬師の貴方にはとても興味がありますよ。ただ、エンイストンは少しの間いるにはいいが、私の研究はフレウルカでなければ続けられません。オリヴァー様には丁重にお断りしなければなりません」
 オリヴァーを前にした時のことを想像したのか、ゲイリーは僅かに苦い顔をした。しかし、イオネのことを惜しいと思う素振りは一切ない。恐らく彼は最初から薬師のイオネにしか興味は無かったのだ。イオネが気の合う薬師だから自分の手間がかからなければ結婚してもいいと思ったのであって、薬師でなければ目も向けなかったのだろう。ある種の残酷さを感じながらも、イオネはゲイリーの淡白さに感謝した。
「次は薬草を扱う者同士としてお会いしましょう。貴方のように博識な方とお話しできるのはとても光栄です。その時までに私も薬師としての腕を磨いてお待ちしております」
 穏やかに微笑むと、ゲイリーも目を細めて右手をスッと差し出した。
「次はもっとたくさんの議論をしましょう。互いの得意分野から苦手分野まで」
「では今まで以上に勉強しなければ」
 苦手分野でやりこめられてはたまらないと苦笑しながらイオネはゲイリーと握手を交わす。
「楽しみですね」
「ええ」
 同意しながらイオネは一つの予感を抱く。恐らく、ゲイリーとは長いつき合いになるのだろう。薬師として生涯に渡り顔を合わせていくことになるかもしれない。
 とても厄介な出会いをしたが、結果的には心強い同志を得た。それは素直に喜ぶべきだとイオネは瞳を閉じた。


「私、怒ってるんです。オリヴァー様」
 宿に戻るゲイリーを見送った足でオリヴァーの執務室を訪れたイオネは開口一番で怒りをぶつけた。オリヴァーは睨みつけていた書類から顔を上げて器用に片方の眉を動かした。これまでイオネがオリヴァーに対して邪険な態度を取ることは時々あったが、薬に関わること以外でイオネが真っ向からオリヴァーに意見したことは一度もなかった。それこそルイスとの縁談が出た時でさえ。だからだろう、オリヴァーは興味深い眼差しをイオネに向けている。そんな様子も今のイオネにとってはそれすら怒りを助長する要素にしかならない。
「私の気持ちを無視してこんなことをするなんて。結婚してる女になんてことしてくれるんですか。これでも新婚なんですよ」
「それは知っているよ」
 知っているなら余計なことをするな。もうすぐ結婚して半年を迎える女にする仕打ちではない。そもそもこの人には常識というものがないのか。
「マクラウドさんをエンイストンに置きたかったんですか」
「それは否定しない」
「私では物足りないと?」
「まさか。そんなことは一度たりとも考えたことはないよ」
 真顔で返されたイオネは少し思案したが、あまり話を長引かせたくないと本題に入る。今日はさっさと帰りたい。それにすっかり忘れていたがオリヴァーは一応病みあがりだ。込み入った話は正気の時にするべきだろう。
「お話はお断りしてきました」
「そうか。彼は何て?」
「今度は薬師として会うのを楽しみにしていると」
「そうか。それはそれで悪くないな」
 何が悪くないのか。イオネには全くわからない。そもそもオリヴァーの考えていることを理解しようという方が無謀だ。この領主の頭の中は一生かかっても理解できない。そんなことに時間を割く気もなかった。だからイオネは言いたいことだけ言おうとオリヴァーの名前を呼ぶ。
「オリヴァー様。私はイオネ・ハワード、ロレンス家にお仕えする臨時顧問薬師です。それと同時にルイス・ハワードの妻です。これからもずっと。私がロレンス家の薬師でなくなっても、薬師の仕事を辞める時がきても、ずっとあの人の妻です」
 それはイオネが選んだ未来。オリヴァーに決められたからでもなく、ルイスに対する義務感からでもなく、イオネ自身がそう在りたいと願うこと。それだけは伝えなければならないと思った。
 ふとオリヴァーの口元が緩む。
「そうか」
 一人頷きながらイオネを見る瞳はどこか父親を彷彿とさせるもので。実際には年の離れた兄妹程の差しかないイオネは妙な居心地の悪さを感じ、「それでは失礼します」と身を翻す。しかし、扉の取っ手に触れた瞬間、あることを思い出して足を止める。
「そうだ、とても大切なことを忘れていました」
 振り返ると、オリヴァーが無言で続きを促す。
「オリヴァー様に感謝していることがあるんです。――ルイスと出会わせていただいて、ありがとうございました」
 やたらと人の縁談の世話を焼きたがる迷惑な領主。それでもそんなお節介焼きがいなければイオネはルイスと出会うことはなかった。少し前にそれに気づいて、いつかお礼を言おうと思っていたのになかなか機会がなかった。まさかこんなタイミングで伝えることになるとは思わなかったけれど。
 小さく目を瞠るオリヴァーを見届けて、イオネは今度こそ執務室を後にした。


 家の前で馬車から降りたイオネは夜空を見上げた。
 空には綺麗な月。冬は星の光もよく届く。空気はとても冷たいけれど、空に広がる光の粒を見上げていると昨日からの疲れが少し軽くなるような気がした。
 疲れた。本当に疲れた。
 もしかしたらロレンス邸で働き始めて精神的に一番疲れた日だったかもしれない。
 でも危機は凌ぐことができた。それだけで満足しなければならないと思う。オリヴァーのことを思い出すとまだ苛つくが、もう家なのだ。雇い主のことはさっさと忘れてルイスに早く会いたい。ルイスはもう帰っているだろうか。義父は今日も外食だと言っていた。猫達はきっと食後のまったりとした時間を楽しんでいるのだろう。その様子を思い浮かべ、イオネは表情を和らげる。
 家の中に入ろうと視線を空から落としたところで、道の向こうからこちらにやってくる影を見つける。それがイオネのよく見知った相手であることを知るとイオネは無意識に駆け出していた。
「ルイス!」
 走ってくるイオネの姿を認めたルイスは足を止める。イオネはそのままルイスの胸に飛び込んだ。役所から歩いてきたルイスの衣服は冷たかったが、腕を回してルイスの存在を確かめると大きな安堵感に包まれた。幸福のあまりイオネは感嘆のため息を漏らす。
「どうした?イオネ」
「やっと帰ってこれたと思って」
 ルイスはイオネの背に腕を回しながら尋ねてくる。朝聞いたきりの声と再会したイオネは普段にはない感動を覚えながら正直に答えた。だがルイスは要領を得ず、首を傾げる。
「いつもと時間は変わらないだろう?今日はそんなに疲れたのか?」
「色々あったんです。本当に、色々」
「大変だったんだな。お疲れ様。それなら早く家に入って今日はゆっくり休もう。ほら」
 ルイスがイオネの肩に触れて進むのを促す。イオネはルイスの隣で足を進めながら思う。
 やっぱり、この人でなければ。
「ねえ、ルイス」
「うん?」
「愛してますから。誰よりも、貴方を」
 満面の笑みで告げると、ルイスの足が止まった。そして伸ばされた手によってイオネはあっという間にルイスの腕の中に戻る。見上げたルイスの表情は生き生きと輝いていた。
「僕だって負けないよ。君を愛してる」
 イオネの唇にルイスのそれが重なる。最初は冷たかった温度が次第に熱を帯びていく。唇が離れた時には、イオネの顔は上気していた。
 ルイスと目が合い、二人で微笑んだ。
「さあ、中に入ろう。あの子達も待ってる」
 ルイスはイオネの手を引いて玄関を開ける。視界に入ってくるのは玄関先でくつろいでいた猫達。
 イオネはその姿を見て目を細める。
「ただいま」
 明るい声で帰宅を告げると、あちこちから「にゃあ」という声が上がった。
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