猫と毒草

モドル | モクジ

  二人に幸あれ  

 久しぶりに風のない日がやってきた。空は晴れていて最近の冷たさは少しなりを潜めている。
「絶好の乾燥日和ね」
 薬草をシートの上に並べ終えたイオネは満足の息をついた。この天気なら一日の日干しで済むかもしれない。時間短縮の予感にイオネは胸を躍らせる。
 そこにやってきたのはエンイストンの領主でイオネの雇い主オリヴァーだった。
「やあ、イオネ。一息つけそうかい?」
「はい。風がないから安心して離れられます。オリヴァー様は休憩中ですか?」
「まあそんなところだよ。丁度手が空いたところだからこうして君を呼びに来たんだ」
「何かお要りようですか」
「ちょっとつきあって欲しいんだ。今、君の夫君が来てるところでね」
「……は?」


 オリヴァーに続いて執務室に入る。
 ソファから立ち上がったのは間違いなくルイスだった。
 振り返ったルイスは普段より固い表情をしている。仕事中だからだろうか。仕事中?今も仕事中なのだろうか。けれどもルイスにはロレンス邸を訪れる仕事はないはず。彼は今日もいつも通りに仕事に向かった。それならばどうして今彼はここにいるのか。何の説明もなくオリヴァーについてきたイオネには今の状況がさっぱりわからなかった。
「済まない、待たせたね。調合室は遠いんだ」
「いえ、お構いなく」
 オリヴァーはルイスの向かいに座ると、ルイスに座るように合図した。そしてイオネに声を掛ける。
「イオネも座るといい。今はお互い休憩中だ」
「はい、失礼します」
 イオネはルイスの隣に行こうとする。けれどもオリヴァーが別のソファを勧めたのでそれに従って腰を下ろした。今、三人はテーブルの周囲でコの字を描くように座っている。オリヴァーとルイスの間に入る位置になったイオネはなんともいえない気分になる。執事のセバスチャンがやってきてお茶を淹れる。彼が退室するのを見計らってオリヴァーが口を開いた。
「何故ルイスがここにいるかと言うと、私が呼び出したからなんだ」
「主人に何か?」
「先日の件について謝らなければと思ってね」
 先日の件と言われてイオネに思い当たることは一つしかなかった。オリヴァーがわざわざ謝るようなことなどあれしかない。イオネが非常識にも結婚を勧められたのは半月前の話。その後、これと言ってその件が話題に上ることもなくイオネも忘れつつあるところだったというのに。
「しかしイオネ、君は何も言ってなかったそうじゃないか」
 驚いたよ、とオリヴァーが肩を竦める。オリヴァーがルイスにあの話をしたのだと知ったイオネは背筋に冷たいものが伝うのを感じた。
「いえ、あの、あれはオリヴァー様が一方的に持ち込まれた話で。私は最初から応じないと決めていたので、そういうことで心配をかけたくはないと」
 半分本当で半分嘘だ。ルイスに話すだけの勇気は持てなかった。
 ちらりとルイスを窺うと、いかにも不機嫌ですという顔を表に出している。これは相当怒っている。
「それでも、僕は話して欲しかった。様子が変だってことは気づいてたんだ。それなのに」
「あの、だから」
「僕はそんなに頼りないのか」
「そうじゃなくて、」
 頼りないとかそういう問題ではない。かと言ってルイスに心配をかけずに自分で解決したかったと説明したところで納得してくれそうにもない。イオネが困惑しているとオリヴァーが助け舟を出した。
「まあまあ、ここで仲違いするのはやめてくれ。その件については私が全面的に悪いと認める。ルイスもイオネを責めないでやってくれ」
「でしたらオリヴァー様、どういう心算でそのような話を考えたのです。イオネは僕の妻だ。他の誰かとの縁談なんて認められる筈がない」
 ルイスの主張は正当だ。頷きながらイオネは自分もまだオリヴァーの真意を確かめていなかったことに気づいた。今日はそれを聞かせてもらえるのだろうか。オリヴァーに目で訴えると、彼はわかったと言うように顎を引いた。
「それはまあ、色々とね。一つは将来有望な薬草研究家をエンイストンに欲しいと思ったからだ。彼はとても魅力的な研究者だ。彼の研究はエンイストンの利益になる。だから是非招きたかった。彼はイオネに興味を持つと思ったし、気に入ったらそのままここに居を移してくえないかと期待したんだ。もう一つはイオネには彼の方が合っていると思った。研究者兼薬師だからイオネのことは誰よりも理解できるし、公私共に高めあえる相手だろう。正直、彼に会った時はイオネに君との結婚を勧めたことを早まったと思ったくらいだ。この二つが大きな理由かな」
 ぷつん、と何かが切れる音が聞こえたような気がしてイオネは思わずルイスを振り返った。そして見たことを後悔した。ルイスは凄い形相だった。視線だけで人を殺せそうだ。悪いのはオリヴァーだとはいえ、領主にそこまでの敵意をむき出しにするのはいくらなんでもまずい。ルイスが怒るのも無理はない。イオネだって怒っている――が、ルイスよりはオリヴァーとのつき合いが長いイオネは雇い主の相変わらずな身勝手さに呆れる気持ちの方が大きかった。なにしろイオネにとっては既に済んでしまったことである。けれども今日初めて一連の事情を知ったルイスはそうはいかないようだ。
「そんなことが通るとお思いですか」
 聞いたことのない地を這うような低音にイオネは身を震わせた。しかしルイスの怒りを真正面から受けているオリヴァーは全く表情を変えない。
「いや。だから正式に謝罪する。私の勝手で君達を振り回した。申し訳ない」
 真剣な顔で謝罪を口にしたオリヴァーにイオネは目を丸くした。オリヴァーがこんなふうに非を認めるのも珍しい。流石に今回は度が過ぎたと思っているのか。それならば今後は色々と控えて欲しいものだとイオネは心中で呟く。
「今後一切そのようなことはないと約束していただけますか」
「ああ。君達には無用だと知ったからね」
 オリヴァーはルイスの要望をすんなりと受け入れた。そして、普段の穏やかな笑みを浮かべる。
「そこでだ。お詫びというには忍びないが、君達に一週間の有給休暇をあげよう。来週の月曜から、再来週の火曜までだ。土日を入れると九日間もある。役所の方には既に伝えてある。気兼ねなく休むといい。好きなように時間を使ってくれたまえ」
 突然の提案にイオネは「はい?」と抜けた声を出した。ルイスも驚いている。
 一週間の有給休暇?夏でも年末年始でもないのに。
 有給と聞くと嬉しいが喜んでばかりもいられない。流行り病の多い冬にロレンス家に仕えるイオネが長期間不在にすることは不可能だ。
「でも、その間誰が――」
「安心してくれ、代理の薬師は見つけてある。イオネが帰ってきた時に職が無くなっているということはないから。あくまで代理だ。ロレンス家の顧問薬師は君だよ」
「臨時が抜けています」
 流石オリヴァーと言うべきか、抜け目がない。雇い主がそのような嘘をつく人間でないことはイオネもよく知っている。安堵しながらも自分の肩書きの不正確さにつっこむとオリヴァーは人差し指を左右に振った。
「いいんだよ、そんなもの。君の年齢と実績でいきなり顧問薬師にしても周囲が納得しないから名前の上では臨時になっているだけだ。おや、ルイスはそれも知らなかったかな?」
 オリヴァーの話を聞いてルイスが驚きながらイオネを見る。イオネはそう言えば話していなかったなと思いばつが悪そうにルイスを見た。その様子を見てオリヴァーはその辺りの経緯をルイスが知らないことを察し、面白そうににんまりと笑った。
「君の奥方は君が思っている以上にすごい薬師だよ。イオネは間違いなくエンイストンで一、二を争う名薬師だ。イオネがいないと私も困る。大切にしてくれ」
「言われなくとも」
 半ば意地になっているような声がイオネの気分を重くする。頼むからオリヴァーはこれ以上余分なことをしないで欲しい。切実だ。
「しかし、最初に思った通りだな」
「何がですか」
 まだ何か言うつもりかとイオネは警戒する。ルイスも怪訝な視線をオリヴァーに送った。しかしオリヴァーの口から出たのは二人が全く予想しなかったもので。
「君達は実にいい、とてもお似合いの夫婦だよ」
 心から祝福しているとわかるオリヴァーの笑顔を向けられて。
 イオネとルイスは目を合わせ、顔を綻ばせた。


 夜、猫達と遊びんでいるとルイスが深いため息をついた。
「びっくりした。あんなとんでもないことがあっただなんて」
「ごめんなさい」
 イオネは膝に乗せたトムを撫でる手を止めて俯いた。それ以外に言葉が出てこない。やはり自分から言うべきだったのだろうか。余計な心配をかけたくないとイオネは思ったけれど、ルイスにしてみれば自分の知らないところで自分の人生が変わろうとしていたのだからいい気分でないのは当然だ。落ち込むイオネに気づいて、ルイスは首を振った。
「いいよ、もう。悪いのはオリヴァー様だ。あの人を普通の物差しで測ってはいけない。よくわかったよ」
「私も今回は怒りましたよ。面と向かって言いました」
「なかなかやるね。じゃあそれで良しとしよう。ところでイオネ、せっかく長い休みをもらったんだ。せっかくだから旅行でもどうかな」
 ルイスから出た「旅行」の一言にイオネは顔を輝かせる。
「旅行?楽しそうですね。でもルイス、貴方そんなに長い間この子達と離れていられるんですか?新婚旅行の時は随分この子達のことが気がかりで仕方ないようでしたけど」
 行きの列車から既に猫達の名前を呟いてそわそわしていたルイスにイオネは驚いたものだ。ルイスもその時のことを思い出したのか苦笑する。
「うーん、それは確かに寂しいな。絶対に大丈夫とは言えないけれど、イオネと一緒なら」
 この子達には留守番を頼むしかないね。ルイスはそう言ってイオネとの距離を縮めた。
「滅多にない機会だし、二人きりで」
 どうかと聞いてくるルイスにイオネは照れが込み上げてくるものの、嬉しさのあまり笑みが零れる。
「では早速予定を立てましょう?」
 旅行となると決めることは沢山ある。行き先、日程、宿、食事。けれどももう時間は無い。行き当たりばったりの旅になることは既に予想できる。
 でも、ルイスと一緒ならどこでもどんな出来事があっても構わない。きっと何があってもいい思い出になる。



 これからルイスと共に重ねていく時間が沢山ある。楽しいことばかりではないだろう。辛いことも苦しいこともある。喧嘩もするだろう。
 それでも。
 二人には確かな明日がある。それをどう紡いでいくかは二人次第。
 だからイオネは願う。 
 温かく、何よりも固い絆を。
 何年先も、何十年先でも。ルイスの隣にいることを願って――。 


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