猫と毒草

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  迫るもの  

 何がしたいのか。
 オリヴァーの意図がわからない。
 あまりに酷い状況に頭が働かず、「お断りします」と一言口にするのが精一杯だった。逃げるように帰ってきたとはまさにあのことだと数時間前の自分を思い出す。
 今もまだ混乱している。どうしてこんなことになっているのだろう。深いため息をつくと、「イオネ」と名を呼ばれる。顔を上げると向かいのソファに座るルイスと目が合った。そして今は食後に彼と一緒に猫達と戯れている時間だったことを思い出す。ルイスの膝の上にはメアリー、手の中にはアンジェラがいた。イオネの膝の上にもトムがいる。イオネはトムの背を撫でながら考え事をしていたのだった。
「どうしたんだ。帰ってきてからやけに元気がないじゃないか」
 今日もルイスより早く帰ってきたイオネだったが、ルイスが帰宅してからほとんど言葉を交わしていないことに気づいた。それどころではなかった。食事もなかなか進まなくて半分近く残してしまった。ルイスはすぐにイオネの様子がおかしいことを察したのだろう。
「……ちょっと」
 流石に元気だと主張する余裕はない。しかしイオネは後に続ける言葉を見つけられず口ごもってしまった。
 だって言える筈がない。オリヴァーがイオネにルイス以外の男との結婚を勧めただなんて。彼に知られたくない。傷つけたくない。
「仕事で疲れてしまって。最近オリヴァー様の風邪に神経を使っていたものですから」
「本当に?」
「ええ。毎年のことですが、オリヴァー様は一年に一回は酷い風邪にかかるんですよ。仕事が増えて大変です」
 困ったものですね、と笑う。うまく笑えていないが、それも仕事疲れからくる苦笑に見えるだろう。
 ごめんなさい。イオネは胸の中でそっと謝る。そしてトムを膝から降ろし、立ち上がった。
「上に行きます。明日のことについて少し考え事をしたいので」
「ああ。そうだ、今日は早く風呂に入ったらどうだ。ゆっくり休んだ方がいい」
「ありがとう。そうさせてもらいます」
 イオネはリビングを出て行く。後ろからトムがついてきたのを見てこの子も自分の沈んだ気持ちを感じ取っているのだと思い、なんだか情けなくなる。イオネはトムを抱き上げた。
「いい子ね」
 褒めると「にゃあ」と一声返ってくる。その声に励まされながらイオネは雇い主の顔を思い浮かべた。
 オリヴァーに振り回されてはいけない。前回とは事情が違う。確かに、オリヴァーの言うがままにした結婚だけれど。薬師が続けられるのならば不都合はないとそんな気持ちで始まった生活だけれど。結婚して約半年、二人で積み上げたものは決して軽いものではない。イオネの人生の中でもとても大きな意味を持つ半年だった。
 ルイスと一生を過ごすのだと信じていた。死が二人を別つまで、ずっと一緒に。イオネはそれを望んでいたし、それ以外の未来など考えたこともなかった。
 ルイスでなければ嫌だ。他の夫なんて要らない。


 仕事中、オリヴァーに呼び出されたイオネは緊張しながら執務室の扉を叩いた。次の様子見は夕食時のはずだった。それを待たずして呼ばれるということは薬の話ではない。考えられるのは例の話だった。
 もしかしたら昨日の話は冗談だったと笑い飛ばしてくれるかもしれない。できればそうあって欲しい。願いをこめながら扉を開けたイオネは見慣れぬ人物の後姿に戸惑った。一体誰なのか。
「来たか。イオネもこっちに」
 オリヴァーに手招きされたイオネは部屋にいる男に意識を向けながら机の前まで歩いた。途中で男が振り返る。眼鏡をかけた、少々硬質な顔。知性を感じさせるその男の隣に並んだ時、イオネは慣れ親しんだにおいがここにあることに気づいた。イオネの身体が強張っていく。まさか、そんなことは。嫌な汗が出てくるのを感じながらイオネは用件を口にした。
「お呼びと伺いましたが、オリヴァー様」
「ああ。君に彼を紹介したくてね」
 悪い予感が的中し、イオネは思わず息を飲んだ。その様子に構わず、オリヴァーは人当たりのいい笑顔を浮かべる。
「彼はゲイリー・マクラウド。薬草研究家で薬師をしている優秀な人物だ」
 昨日聞いた肩書きと同じ。つまり、この人がオリヴァーの言う縁談の相手なのだ。
「イオネ、今日は仕事はもういい。緊急に作らなければならない薬は特にないだろう?二人でゆっくり話すといい」
 イオネは恐る恐る隣に立つ長身の男を見上げた。軽く会釈をした男が纏うのは薬草のにおい。
「はじめまして、ゲイリー・マクラウドです」
「イオネ・クラーツ・ハワードです」
 既婚の女の証である二つの名字の入った名前をはっきりと声に乗せ、差し出された握手に応じた。ルイスの手より大きい、けれども薄い、そして温度の低い手にイオネは違和感を拭えなかった。
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