猫と毒草

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  耳を疑う話  

 木々の葉はすっかり落ち、鉛色の空がどこまでも続いている。
 冬になったことを実感する景色から目を外すと、ベッドで上半身を起こして書類に目を通している男の姿。青い顔をしながらも仕事をこなしているエンイストンの領主オリヴァー・ロレンスだ。
「その状態で中身が頭に入ります?」
「……話しかけないでくれ。どこまで読んだかわからなくなった」
「まだ無理をされない方が」
「無理を押し通さなければならないこともある」
 返された言葉に、イオネはため息をつく代わりに瞼を閉じる。彼の主張は尤もだ。責任のある身分であれば例え死にかけていたとしても果たさなければならないことがある。薬師の立場からすれば咎めなければならない行動でも見逃すことしかできない。
 それでも昨日一昨日に比べればオリヴァーの様子が大分良くなっている。数日前から酷い風邪をひいて寝込んでおり、今日やっと仕事に手をつけられる状態になった。
 人の出入りが多く、また様々な人と顔を合わせる機会の多いオリヴァーは毎年冬に一回は大きな風邪にかかる。この冬は思いのほかそれが早くきた。ロレンス家顧問医師のブルックの見解では年明け以降にもう一度似たような風邪をひくかもしれないとのことで、イオネもその可能性を肯定的に見ている。しかし当面の問題は一日も早くオリヴァーを快復させること。毎日三回オリヴァーの様子を見て薬の処方を変えている。イオネにとってはただでさえ冬は忙しいが、オリヴァーにかける時間が増えたせいで最近は更に忙しい。もっと大変な時期が来月辺りには控えているのだが、それでも医師に比べればまだましだ。
「それが終わったら、横になって下さい。そこにある分以外のお仕事は認められません。セバスチャンにもそう伝えますから」
 イオネは必要なことだけ口にするとオリヴァーの寝室を後にした。


 夕方、改めてオリヴァーを訪れると彼は丁度食後のティータイムを過ごしていた。傍にはセバスチャンも控えている。イオネはセバスチャンから夕方までのオリヴァーの様子を聞き、半分以上手をつけられた皿を確認した。食事もしっかりとれるようになってきている。ブルックの指示通りの薬で構わないだろう。
「顔色が良くなってきましたね。安心しました。後は薬を飲んでゆっくり休んで下さい。くれぐれも無理はなさいませんよう」
「わかってる。来週には大事な会合があるんだ。それだけは絶対に外せない。だから何が何でも治してみせるよ」
「そうして下さい。お子様達にうつっては大変ですから」
「ああ。しかしもう何日息子達に会ってないかな」
 普段は仕事が終わるまで父親らしさは見せないオリヴァーだが弱っていると違うらしい。五歳と二歳の息子達はとても元気がよく毎日外で遊び回っている。上の子はよく怪我をするがいかにも男の子らしくてイオネは微笑ましく見守っている。元気な彼らの前では風邪も飛んでいきそうだけれど、子どもは子ども。うつってしまったら大風邪になりかねないのでオリヴァーのところにはあまり近づけないようにしている。とはいえ、心優しい彼の息子達は毎日母親と一緒に見舞いに訪れているのでオリヴァーの言うことは正しくない。
「毎日お見舞いで顔を合わせているでしょう?」
「少ししか話せないじゃないか」 
 息子達は長居したがるのだがデーナがそうはさせない。幼い子どもたちが風邪にかかっては大変と頃合いを見て撤収させるらしい。イオネは直に見たわけではないのだが、その場に居合わせた使用人が教えてくれた。父と話したがる子どもを今日はここまでと引き離し部屋から連れ去るデーナの手際はそれは見事だと。イオネも一度は見てみたいが、苦手なデーナが来る時にわざわざ部屋に残る気になれず未だに実現しないでいる。
「大人しくされていれば、明々後日には薬が要らなくなるかもしれません」
「本当に?」
「嘘は申しません」
「ならもう少し我慢するとしよう」
「では私はお暇します」
 これで今日の仕事は終わったとばかりにイオネがオリヴァーに背を向けるが、「待て」と制止される。
「少し話をしていかないか」
 引き止められたイオネには何か引っかかるものがあったがオリヴァーがセバスチャンにイオネの分のお茶を用意させていたのでそのまま帰るのも失礼だろうと思う。オリヴァーではなく、執事に対する義理からイオネは少しの間つきあうことにした。
 セバスチャンが示した椅子に座ったイオネは「それでは一杯だけ」と断りを入れる。長居をしたくはないし、オリヴァーも病人だ。少しくらいの会話なら構わないが、長話をするのはまだ好ましくない。
「どうだい、ルイスとは」
「オリヴァー様達よりはうまくやっているかと」
「ほう、言うじゃないか、イオネ」
 相手は病人だから穏やかに接しようと思ったのに。新婚夫婦をからかって楽しむような発言を聞くとついついぞんざいに扱いたくなってしまう。皮肉を返したもののこれは少しきつかったかと不安になったイオネだったが、オリヴァーは全く気にした様子を見せなかった。それどころか楽しそうにすら見える。ホッとしたイオネは「雇い主に鍛えられたので」と冗談めかす。オリヴァーは満足げににやりと笑った。
 そして他愛のない話を少ししたところで、聞き慣れた一言がきた。
「ところでイオネ、良い縁談があるのだが」
 またか。
 そう思いながらイオネはこれも義理だといつもの問いを返す。
「誰にですか」
「君にだよ」
「え?」
 即座に戻ってきた言葉にイオネは言葉を失った。
 どうやらとんでもない聞き間違いをしてしまったらしい。オリヴァーは一体なんと言ったのか。
 オリヴァーは何も言えないイオネに確かめるようにもう一度繰り返した。
「だから、君にもってこいのいい縁談があるんだ。少し前から考えていたのだけどね。ここ数日寝込んでいたせいですっかり話すのが遅くなってしまった」
 聞き間違いではなかったらしい。しかしイオネは自分の耳が正常だと喜ぶことはできなかった。オリヴァーの言っていることはとてつもなく非常識で不可解だ。有り得ない。どう考えたってそんな話をイオネが持ちかけられるわけがないのに。
 イオネはやっとのことで口を開く。
「私は既婚者ですが」
「ルイスと別れればいい」
 何の冗談ですか、と続く筈の言葉は出なかった。オリヴァーがあまりにもあっさりとおかしなことを言うものだからイオネの頭は混乱を止めることができなかった。
 ルイスと別れる?別れて違う人と?
 どうにかしている、そんなこと。
 イオネはくらくらする頭を押さえる。今立ったらその場で座り込んでしまいそうだ。
 オリヴァーはイオネの動揺している様子を目に収めながら手を組む。
「君と気が合いそうな男がいるんだ。君と同じ薬師――正確には本業は薬草研究家なんだが、なかなか誠実な人間だよ。ルイスより少し年上だが、釣り合わないわけではないし、君のことを理解してくれるという点では誰よりも期待できると思う」
 風邪で頭でもやられたのか。そう思える方がまだどれだけ幸せか。しかし残念ながらオリヴァーは正気だ。目を合わせれば笑ってみせる程の余裕は今のイオネには恐ろしく映った。自分を落ち着かせる為にごくりと息を飲む。その背を冷たいものが静かに伝っていった。
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