猫と毒草

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  変わる日  

 翌日、イオネは朝一番でブルックの診療所に行った。そこでブルックのお墨付きをもらって週明けから仕事に出ることになった。家に帰ってそれを伝えると、ルイスは瞳に安堵の色を浮かべた。
 話をしよう、と連れてこられたのはイオネの部屋。ルイスはしばらく口を開かなかった。重い空気を感じたイオネはルイスが話すまで何も喋るまいと決めた。何を考えているのだろうと視線を追うと、彼の目は本棚に向けられていた。そこには薬学や医学の本がびっしりと詰まっている。これまでのイオネを作ってきたもの、これからのイオネを作るものだ。
「僕は薬師の仕事を甘く見ていた」
 ルイスがこちらを向いた。イオネも真っ直ぐルイスと向かい合う。
「大変な仕事だとは思っていた。でも僕が思っていた以上に大変な仕事だった。君は以前、最悪の場合は死ぬと言った。でも僕はそんなことそうそうあるものじゃないと思ってたんだ。だから仕事中に君が毒に当てられて倒れたと聞いた時は耳を疑った。意味を理解した時は心臓が止まるかと思った。命に別状はないと言われても、安心なんてできるはずもなくて。君が危険な目にあった。それが怖かった。そして、薬師という仕事がどういうものかやっとわかった」
 普段より低い声がルイスの感じた恐怖を伝えている。ここ数日イオネにつきっきりだったルイスはずっとそれを言いたくて、けれどもイオネの体調を考えて言えずにいたのだろう。ルイスがどんな思いでいたのかを知ったイオネは胸が締め付けられるような感覚に眉根を寄せた。
「私は、結婚する時に条件を出しました。一生、薬師の仕事を辞めるつもりはないと」
「ああ」
「その条件を受け入れたこと、後悔してますか」
 薬師の仕事を甘く見ていたとルイスは言った。ならば、あの時は肯定したことを今はもう否定するのだろうか。仕事を辞めろと言われるのだろうか。だとしてもイオネはそれに頷くことはできない。それをルイスが良しとしないのならもうこのままではいられない。その先を想像してイオネの瞳が熱くなった。
 嫌だ。
 でもルイスが望まないのならばイオネの願いは意味を成さない。二人の気持ちが噛み合わなければ先などない。イオネの気持ちは変わらない。全ての決定権はルイスに委ねられている。彼の選択次第でイオネは人生が大きく変わってしまうことを感じていた。
 お願い。イオネは切実な想いでルイスを見つめる。
「してないと言ったら嘘になる」
 イオネは息を飲んだ。顔が強張っている。それを取り繕うことすら考えられなかった。そんなイオネの表情を目にしたルイスは困ったような顔になった。二人の距離を縮めて、イオネを抱き寄せた。ルイスの腕の中に包まれたイオネは怖くて顔を上げることができない。それ以上に、ルイスの温度に触れて離れたくないと思った。
「これからも心臓が止まるような思いをするのかと思うと、あの時深く考えもせずに条件を飲んだ自分を恨みたくなるよ」
「――――え」
 思わぬ言葉にイオネは目を大きくした。見上げると、ルイスが諦めたように苦笑している。
「イオネは一生薬師でいるんだろう?」
「ええ、でも」
「君にとって薬師の仕事は僕にとっての猫と同じ。前にそう話したのを覚えてるか?」
 イオネは頷いた。覚えている。忘れる筈がない。ルイスという人物に深く触れたあの時を。
「僕は猫がいないと僕らしくいられない。それと同じで、君は薬師でないと君ではいられない。それを知っていながら薬師を辞めて欲しいなんて言えるわけがない。猫がいなくなったら、そう考えるだけでも僕は辛い」
 だから、とルイスは囁く。
「これからは、二度とああいうことが起こらないようにしてくれ。何度もあんなことがあったら、僕の寿命はその度に削られてあっという間にあの世に行ってしまいそうだ。それでは僕も困る」
 真剣に、最後の方は少し冗談めかしながらも告げられた言葉にイオネはようやくルイスが何を言っているのか理解した。
「私、これからも仕事を続けますよ」
「ああ」
「これからも毒を扱います」
「ああ」
「今回のようなことがまたあるかもしれません。――そうならないように気をつけますけど、でも絶対に無いとは言い切れません。それでもいいと?」
 確かめずにはいられない。ルイスは迷わず頷いた。
「僕もこの数日間色々考えたんだ。君が危険な目にあうのは承知できない。でも君は薬師だし、薬師には危険がつきものだ。でも、常に危険なことばかりではないし、今回のようなことは避けることもできるんだろう?」
「ええ」
「じゃあそうしてくれ。僕が言えるのはそれだけだ。君はこれからも薬師を続ければいい」
 こんなことがあるなんて。
 イオネは感激のあまり両腕をルイスの背に回した。その胸に額をつけ、瞼と閉じる。
 薬師の仕事を辞めろと言われても仕方が無かった。それでなくても、イオネが薬師でいることにいい顔をされないのは当然だった。それだけ今回はルイスに心配をかけた。
「あなたみたいに理解のある人はなかなかいませんね」
「そうそういられても困る」
 ルイスがイオネの頭にキスを落とす。
「そうだ、一つ言っておく」
「何ですか」
 イオネは顔を上げる。ルイスはイオネの頬に触れ、顔を近づけた
「僕が僕でいる為に、イオネも必要なんだ。それを忘れないでくれ」
 イオネは目を瞠る。
 短い、けれどもとてつもなく大きな告白。
 ルイスの中でイオネの存在がどれだけ大きくなっていたのか、それを伝えられて嬉しくならない筈がない。
 イオネにとってもルイスはとうになくてはならない存在になっている。離れることなんて考えたくない。いつまでも一緒にいたい。そう思えるのはルイスだけだ。
「私もです」
 愛しさをこめて微笑むと、ルイスも微笑んだ。けれどもその表情を見たのは一瞬で、後は重ねられた唇に意識を奪われてしまう。
 昼にこんなふうにキスをしたのは初めてだ。二人の関係が変化したことを感じながら、イオネはルイスの背に回した腕に力をこめた。
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