猫と毒草

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  生きがい  

「最近遅いんだな」
 イオネが夕飯の片づけをしているとルイスが声を掛けてきた。
 彼は膝に猫を乗せて椅子に座っている。ここが台所であることなんてお構いなしだ。それでも家の中では一番衛生的にしなければならない場所だという意識はルイスにもあるらしく、食事の準備から食事を終えるまでは絶対に猫を入れさせない。日中はマーナが一番手間隙をかけて掃除をしてくれている。
イオネはここのところの帰宅時間を振り返る。ルイスと同じくらいか、それより遅い時もある。遅くなる時はロレンス家の馬車で送ってもらえるので帰り道の危険はない。また、予め家に連絡を入れておくのでルイスや義父を不安にさせることもないはずだ。ただ、ここ一週間くらいそれが続いている。別に珍しいことではない。ただ、これだけ連続して帰りが遅くなるのは結婚して初めてのことだと気づいた。
「今、流行り病対策の為に薬を大量生産中なんです」
 イオネが理由を口にすると、ルイスは猫を撫でながらイオネに視線を移した。
「流行り病?」
「ええ、もう少しすれば酷い咳に苦しむ風邪が流行る時期になりますから。今の内にそれに備えるんです」
「どれくらい作るんだ?」
「材料の許すだけ。もしかしたらエンイストンに住む全員が病にかかるかもしれませんから。エンイストンの薬師は私だけではありませんが、私はロレンス家の臨時顧問薬師ですから。いざという時に対応できるように」
 イオネは洗い物をしながら答える。咳の風邪だけではない。その後も、後の後も、これから幾つもの流行り病が続く季節がやってくる。その時になって困らないよう、できるだけ多くの薬を用意する。イオネにとっては毎年のことであり、この作業をしている間は仕事にとてもやりがいを感じている。実際に流行り病が広がるとそれどころではないけれど。
「そんなに大変なのか」
「大変?そう思います?今は忙しいけれどまだ楽しいですよ」
「楽しい?」
 ルイスが目を瞠る。イオネは濡れた手を拭いてくるりとルイスの方を向いた。
「私、薬の調合が大好きなんです。特に、毒草から薬を作ることが」
「毒?危なくないのか?」
 ルイスの猫を撫でる手が止まる。こういう反応は見慣れている。毒と言うと大抵の人間は驚く。イオネはにっこりと笑った。
「毒も薬になります。人を救ういい薬に。人に害を与えるものを人を救うものに変える。自分の手、この私の手で。その満足感や達成感、優越感は何にも勝ります。勿論、毒を扱うからには高いリスクを伴いますが。最悪な場合は死にます」
 毒が人間に有効成分を持っていると言ってもやはり毒は毒。失敗したら苦しい思いをするのはイオネ自身。それを忘れてはいけない。慢心ゆえに命を落とした薬師は少なくない。その薬師の中に自分の名前を連ねたくはない。薬師の仕事は危険と隣合わせ。それでも。
「それなのに好きなのか」
「はい。言ったでしょう?リスクは高いけれど、毒を操る快感は何ものにも変えがたいんですよ」
 笑顔で返すものの、ルイスはいまいち要領を得ない様子だ。
 どう言えばルイスにこの気持ちが伝わるだろう。薬師という仕事が好きで好きでたまらないということを。何に例えれば彼にもわかってもらえるだろうか。そう考えながらルイスを見つめていると、イオネはふと閃いた。
「きっとルイスが猫を好きなのと同じくらい好きですよ」
「そんなに?」
 ルイスは驚きながらも頷いている。イオネは伝わってよかったと思いながらつられて頷いた。
 正直なところ、ルイスがどれくらい猫を好きなのかイオネも理解しきれていないのだけれど。ルイスにとっての一番が猫、イオネにとっての仕事が一番ならばそれぞれの中での位置づけは同じはず。
 ルイスは「そうか……」と言いながら再び猫を撫で始めた。猫に注がれる眼差しは愛おしさに溢れている。その余韻を残した優しい瞳がイオネに向けられる。
「それなら、好きなだけ仕事を続ければいい」
「そんなこと言っていいんですか?調子に乗りますよ」
 ルイスから掛けられた嬉しい言葉に笑いながら返すと、ルイスも柔らかい表情を返した。
「だってイオネの生きがいなんだろう?」
 思いがけない言葉にイオネの瞳が大きくなる。
 生きがい。
 そんな言葉が出てくるなんて。
 ルイスはイオネの無言が明けるのを待たずに口を開く。
「僕にとっての猫と君にとっての仕事が同じなら、それは生きるのに必要なものだ。それがないと、自分らしくいられない。そういうことだろう?」
「……ええ、そうです」
 自分らしくあるために必要なもの。
 そうだ。確かに、イオネにとって薬師の仕事とはそういうものだ。
 けれど、ルイスにとっての猫がそれほどのものだとは思っていなかった。
 病的なくらいに猫を愛していて、特別に扱っていて、最優先する人。それがルイスだ。イオネは猫を邪険に扱わなければルイスとうまくやっていける。それだけわかっていれば充分だった。
 けれどルイスに猫が生きがいだと言われてイオネは彼のことを全然わかっていなかったのだと気づかされた。
 これまでだったら「生きがいなんて大げさね」と思ったのに。
 ルイスは猫を抱きかかえた。
「すごいんだよ、この子達は。疲れていても、緊張していても、怒っていても、猫がいれば僕はいつもの僕に戻れる。猫はどんな時でも僕を癒してくれる。君は知らないだろうけれどね、職場での僕はかなり気を張ってるんだ。父の息子というだけで周囲の目は厳しくなる。昔からそうだった。学校では先生も友人も僕のことをハワード家の息子という目で見ていた。常に人より上のレベルを要求される。そしてそれが出来ても当然のような反応しか返ってこない。出来なければ親の七光りのくせにと非難される。辛い時、苦しい時、悔しい時、傍にいてくれたのは猫だった。彼らがいたから今ここに僕はいる」
 ルイスがイオネにこういう話をするのは初めてだった。
 この人にも色々あったのだと思う。ハワード家はエンイストン有数の名家で、議員を何人も輩出している家だ。そういう家に生まれた人にしかない苦労があったのだろう。似たような状況に心当たりがある。イオネの兄だ。イオネの実家は代々医者になっている。女のイオネは特にこれといって気にすることもなかったが兄は違った。常に無言のプレッシャーと戦っていた。将来は医者になって当たり前。勉強ができるのも当たり前。イオネも幼い頃はそう思っていた。けれど成長とともにそれは違うのだと知った。
 きっとルイスも多くのものと戦ってきたのだろう。猫はそんなルイスを支えてきてくれた。
 イオネはルイスに歩み寄って猫の頭に手を置いた。そしてゆっくりと頭を撫でる。
「これからは私もいますよ」
 ここに至った経緯はどうであれルイスとイオネは夫婦として今ここにいる。イオネはこれからもずっとルイスの傍にいる。
 だから。
 思いをこめて向けた視線をルイスは目を細めて受け取った。
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