猫と毒草

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  怪我猫にはやさしく  

「うわあああっ!!」
 のんびりとした休日の午後、突然悲鳴が屋敷の中をこだました。
 自室で読書に勤しんでいたイオネは反射的に顔を上げる。
 今のはルイスの声だ。何があったのだろうと気になり部屋を出ると、「アンジェラ!」と猫の名前を叫ぶ声。
 また猫か。そう思いながらもイオネは声の方に向かっていく。ルイスは猫の部屋で座り込んでいた。暇さえあれば彼は大概この部屋にいる。もしくは、猫と一緒にいる。それはそれは幸せそうな顔で過ごしているのだが、今の彼からは悲壮感が漂っている。
「どうしました?」
「アンジェラが怪我を……なんてことだ……!」
 見れば、ルイスの前には足に怪我をして少しぐったりしている黒猫の姿があった。何をしたのだろう、結構出血している。ルイスが驚くのも無理はない。
「どうしよう、このままアンジェラにもしものことがあったら……」
 ルイスは切羽詰まった顔で落ち込んでいく。猫のことでそんなにならなくてもと思うが、イオネは彼が猫をどれだけ溺愛しているかを1ヵ月以上も近くで見てきた。このまま放っておくのも気が引ける。
「ちょっと見せて」
「イオネ」
 動物を診ることは時々ある。自分で診なくても薬を頼まれることもある。アンジェラのことも少しは何かできるかもしれない。イオネは膝をついてアンジェラの様子を見た。
 何かで切ったような傷口。そんなに深くない割に出血量が多いのは多分動脈を切ったのだろう。アンジェラは元気がないがまだ起きている。時間が経てば、また普通に動き回るに違いない。
「出血が多いけれど大丈夫。ちょうど使える薬があります。取ってくるので少し待っていて下さい」
 傷薬や風邪薬といった一般的な薬は自室にも置いてある。アンジェラにつけるのは傷薬の一種だ。犬や猫にも効果があることがわかっているから安全だ。
 イオネは薬を取って戻ってくるとアンジェラに手当てを施す。ルイスは隣で心配そうに見ていた。
「もっとつけた方がいいんじゃないか?」
「いいえ、これくらいなら自然の力に任せても大丈夫なくらいなの。傷も大きくないし。でもルイスは早く治したいでしょう?だから怪我の回復をちょっと助けるくらいの薬を塗ってあげれば充分」
「本当に?」
「ええ。ただ、固まるまでは不衛生な場所には行かせないように気をつけて。ばい菌が入ると化膿したり、ひどくなったりしますから」
「包帯は?」
「これならしない方が早く治りますよ」
 私の出番は終わり。イオネは片づけを始める。ルイスは恐る恐るアンジェラの頭を撫でる。
「良かった、アンジェラ。すぐに元気になるんだね」
 ルイスのホッとした顔を見てイオネの口元が緩む。
 本当に猫が大切なのね。
 役目を終えたところで部屋に戻ろうかしら、とイオネが立ち上がろうとした瞬間。
「イオネ」
 がばっとルイスに抱き寄せられ、イオネは瞬きを繰り返す。こんな熱い抱擁は初めてだ。
「ありがとう、君は命の恩人だ!この恩は一生忘れない!」
「大げさです」
 少し怪我の手当てをしただけなのに。しかもその怪我だって放っておいても治るようなものなのに。そんな大事のように言われても。
「いや、君のおかげでアンジェラも早く元気になれる。僕も安心して仕事に行ける。君とトムが仲良くなった理由がわかったよ。君はこの子達にとっても大切な人だ。トムはそれに気づいていたんだよ。わからなかった僕が馬鹿だった。嫉妬してごめん。愚かな僕を許して欲しい」
「気にしてませんから」
 それにトムと仲がいいというのもなにか違う。トムがイオネの傍にやってくるだけで、イオネからトムのところに行くことなんてまずない。それにしてもやっぱりトムのことでは嫉妬されていたのか。トムと一緒にいる時はルイスの態度が少しきついとは思っていたけれど。嫉妬。こうもはっきり言われるとどうしていいものやら。
「君の寛大な心に感謝する」
 ルイスはぎゅ、とイオネを抱き締めてからイオネを解放した。
 イオネは呆然とルイスを見る。ルイスは柔らかい表情をイオネに向けていた。
「イオネがいてくれて、よかった」
 本当に大げさだ。
 猫の怪我の手当てをしただけなのに。難しいことなんて何一つしてない。
 でも大げさなのはルイスだけではないらしい。
 猫の手当てをしてお礼を言われただけなのにイオネの心臓はいつもより速くなっている。
 びっくりしただけよ。
 そう、こんなふうに見られたことがなかったから。
 きっとそう、それだけのこと。
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