猫と毒草

モドル | ススム | モクジ

  新しい日常  

 ハワード家はエンイストンでも有数の名家である。これまで議員を何人も輩出している。現在トーマス・ハワードは議員暦10年、人々からの信頼も厚い。息子のルイスはある一点において有名人であったが、それを除けば仕事は有能である。
 そのハワード家に最近住人が増えた。ルイスの妻、ロレンス家の臨時顧問薬師イオネである。
「メアリー、残念だけどもう仕事に行かなきゃならないんだ。君と離れるのは辛いけれど、今日も早く帰ってこれるように頑張るから待っていておくれ」
「ルイス、時間です」
「わかってる。あ、エリザベス、君も出かけるのかい?気をつけて行ってくるんだよ」
 出勤時間になっても猫と束の間の別れを惜しんでいる夫にイオネは引き攣りそうになる顔を抑えていた。毎朝の光景とはいえ、イライラせずにはいられない。慣れれば慣れるほど鬱陶しくなる。
 ルイスは時計を見て仕方ないとばかりに抱いていたメアリーをイオネに渡した。下に降ろせばいいのに。そう思いながらイオネはメアリーを抱きかかえる。
「じゃあ行ってくる」
「忘れ物はありませんか?」
「大丈夫だ。君も遅れないように」
「ええ。行ってらっしゃいませ」
「ああ」
 ルイスが仕事に向かうのを見送ったイオネは自分の準備をするべく家の中に入った。ハワード家くらいの家ともなると夫婦が共に仕事を持っているのは非常に珍しい。普通は妻は家のことをするのだが、イオネはエンイストンでも指折りの薬師。ロレンス家お抱え薬師ともあり仕事を辞めるのは容易ではない。当のイオネもそのつもりはさらさらなく、結婚の条件に仕事を続けることを挙げたくらいである。家に3人も働いている人間がいるお陰でハワード家は経済的にも安泰だ。めでたいことだとイオネは思う。
 メアリーを床に降ろすと彼女は階段を駆け上がり、手すりの上に座り込んだ。あの白猫はあの場所が好きらしい。気がつけばあの場所にいる。
「のんびりしていていいのかね」
「まだ出るには時間があるので」
「そうか」
 声を掛けてきたのは食事を終えたばかりの義父トーマスだった。議員の義父は毎日出かけるわけではなく家にいる日も多いが今日は外に出るらしい。仕立てのいい服をすっきりと着こなしていた。
「お義父様はもうお出かけになりますか」
「いや、今日は迎えが来るんだ。それまでゆっくりしながら待つとするよ」
「帰りは遅くなりますか」
「そうだな、多分外で食べることになるだろう。マーナには伝えてある」
 マーナはハワード家のお手伝いさんだ。彼女のお陰でイオネも随分助かっている。
「……まったく、結婚したら少しは変わるかと思っていたら相変わらず猫ばかり撫でておって」
 変わると思ってたんですか。つい出そうになった言葉を抑えてイオネは苦笑する。
「本当に猫が好きなんですね」
「もう少し他のことに興味を広げてほしいものだ」
 トーマスはため息をついてリビングのソファに座った。そこにアンジェラがやってきてトーマスの隣に座り込む。トーマスは何も言わずに二、三度アンジェラの頭をなでる。
 なんだかんだ言って猫のことが嫌いってわけじゃないのよね。ただ、度を過ぎたルイスの猫好きに手を焼いているだけで。ハワード家に嫁いできて何度義父に同情したか。
 トーマスは随分前に妻を亡くしている。その妻との間に唯一できた息子があれだ。相当苦労してきたことだろう。
 さて、そろそろ仕事に行く時間だ。
 今日は新婚旅行で購入した毒草から有効成分を抽出する予定でいる。それを考えただけでうきうきする。今日手がける毒草の分析をここ数日していたが、その過程も楽しくて仕方がなかった。でもうかれすぎて事故がおこらないように気をひきしめなければ。
 イオネはトーマスに一声掛け、軽い足取りで家を出た。


 帰宅して一番に目に入ってきたのは、ルイスがエリザベスにキスをしている光景だった。
 玄関で何やってるんだと言いたくなったがそれを言おうものならルイスの反論が始まることを予想して奥から出てきたマーナに「ただ今戻りました」と告げる。マーナがにこにこしながら「お帰りなさいませ、奥様」と声を張り上げるとルイスはやっとイオネの存在に気づいたようだ。
「お帰り。今日は少し遅かったな」
「少々手のかかる作業をしたので」
 でも今日の作業は大成功だった。それを思い出すだけで気分がいい。思い出し笑いを止める気もおこらず、ルイスの手の中にいるエリザベスの頭を軽く撫でて家の中に入った。
「いい匂いね。今日はビーフシチュー?」
「ええ、いいお肉が安かったんですよ」
「それはいいわね。いつもありがとう、マーナ」
 マーナと会話を交わしながらイオネは自室に足を向けるが、「イオネ」と呼ばれて振り返る。エリザベスを床に降ろしたルイスがこちらを見ていた。
「支度が終わったらすぐ降りてこい。食事にしよう」
「まだ食べてないんですか?」
「僕はね。父は外で食べてきたそうだ」
「すぐ、着替えてきます」
 イオネは急ぎ足で部屋に行く。
 普段はイオネの方が帰りが早い。夕飯はマーナに頼んでいるので作る必要はないがルイスが帰るまでは手をつけないようにしている。妻とはそういうものだ。女が男より先に食事をするなんて常識では考えられない。逆に、食事があるにも関わらず男が女の帰りまで食事を待つなんてことは聞いたことがない。
 イオネの方が帰りが遅くなったのは今日が初めてだ。予定より時間がかかったのが原因だった。
 すっかり先に食べているものかと思ったのに。むしろ、そうしていてくれた方がよかったのに。
 夫を待たせるなんて。
 結婚しても仕事を続けるという非常識には何の罪悪感も抱かないけれど、かえってこういうちょっとしたことは気になってしまう。ルイスはきっと、イオネを待つ時間も猫と戯れていたのだろうけれど。
 変な人だ。極度の猫好きってだけでも充分なのに。
 けれど一人暮らしが長かったイオネにとっては、ルイスが自分の帰りを待っていてくれたことが嬉しかった。
 非常識だけど。
 身支度を終えたイオネは小さく笑うと急いで下に降りていった。
モドル | ススム | モクジ
Copyright (c) 2008 ring ring rhapsody All rights reserved.
  inserted by FC2 system