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  一時の安息  


 部活の休憩中、水道で顔を洗っていた由貴那は影が差し掛かったので反射的に顔を上げた。見ると隣の蛇口を捻っているのはは同じバドミントン部でクラスメートの石山だった。それだけで嫌な気分になった由貴那は早く立ち去ろうと顔を急いで拭く。一歩を踏み出した時に、「あんたさあ」と声をかけられて苦い顔を隠せなかった。
「……なに」
 できるだけ冷たく返すと石山はつまらなそうにこちらを見る。
「別れるんだ?」
「……関係ない」
 外野は黙ってろ、と一睨みして由貴那はその場を後にする。「怖いねぇ」と無感情な声が聞こえたが無視した。
 石山は由貴那のことをよく思っていないグループの一人だった。彼女自身が由貴那にあれこれ言ったり何かしたりということは無いのだけれど、彼女が行動を共にしている子たちがなかなか陰湿だ。顔を合わせれば毎回のように嫌味を言ってくる。石山はそんなメンバーを興味なさそうに見ているだけだが、彼女たちと一緒にいるというだけで由貴那は苦手意識を抱いていた。
「もしかしたら、ああいうの言われたの初めてかも」
 その可能性に思い当って、それもなんだかなあ、とこめかみを押さえる。
 昨日から同級生は言わずもがな、上からも下からも「やっと別れる気になったか」「さっさと離れてよ」「木村の何が不満なの」等言われて、耳にタコができそうだ。そういう言い方をしてくるのは由貴那が誠也の彼女でいるのを快く思っていない人々で、普通の人は「どうしたの」「何があったの」とやたらと質問攻めしてくる。それだけでやたらと疲れた由貴那だった。
 でも今日はそんなことでうだうだしてはいられない。
 部活が終わったら森君とデートなのだ。
 準備は完璧。着替えも昨日の夜に確認した。バッグの中にばっちり詰まっている。
 早く部活が終わらないかな。そんなことばかり考えている。お陰で集中できなくていつもよりミスが多くなったけれど、周りは誠也との喧嘩のせいだと思ってくれている。勘違いでも今はその方が都合がいいかと思って由貴那はそのままにすることにした。
 唯一気になるのは部活を休んだ奈美のことだ。
 昨日の午後は奈美とも全く口を聞いていない。休み時間ごとに一緒にいるにはいたのだが、奈美の方は終始無言で由貴那に声を掛けるのを恐れていた。それならば、と由貴那も黙っていた。夜あたりにメールでも来るだろうかと思ったけれどそれもなかった。
 奈美はきっと今頃考えているんだろう。
 自分のこと、誠也のこと、由貴那のこと。これまでのこと、これからのこと。
 気が弱くておどおどしているが、奈美はちゃんと考えることができる子だ。いろんなことを見つめられる。慎重になりすぎて、なかなか自分から動けない奈美。今度はしっかり考えた上で、自分の足で歩いて欲しい。誠也の彼女でいることを本当の意味で受け止めて欲しい。
 時間はかかるかもしれない。それまで奈美ともまともに話せないかもしれない。でもそれも仕方ない。
 今の由貴那にはどうしても譲れないものがある。だから絶対に退かない。



 どこを見回しても人、人、人。
 土曜ということもあって賑やかになっている街の中を由貴那は大きなバッグを抱えて走りぬける。
 こんな日に限って部活後に緊急ミーティングだなんてついていない。けれども表立って断れる理由がなく、結局ぎりぎりの時間になってしまった。
 待ち合わせの駅に滑り込むと真っ先にトイレに駆け込んだ。そこで慌てて着替え、今度は鏡の前で念入りにチェックをする。レースを使ったキャミソールの上に半袖パーカー、膝上15センチのスカートにミュール。昨夜気合を入れて塗ったピンクのペディキュアも大丈夫だ。軽くメイクをして、鏡に映った笑顔に合格点を出すと、コインロッカーに余分な荷物を預けて待ち合わせの場所に向かった。
 既に二、三分過ぎている。森君に呆れられているんじゃないだろうかと焦りが募る。一応、ミーティング中に人目を憚りながら少し遅くなるかもしれないというメールを送ったけれど、それでも初デートで遅刻したくはなかった。
 それなのに、ミーティングのせいで!
 怒りがどんどん大きくなっていく。しかし、構内の柱に寄りかかっている森君の姿を見つけた途端、他のことが全てどうでもよくなった。
「森君っ!」
 そのまま走っていくと、森君が笑顔で迎えてくれた。
 よかった、怒ってない。
「ごめんね、遅くなって。待たせるつもりはなかったんだけど……」
「いいよ。桐島のせいじゃないし。それよりも大丈夫か?走ってきたんだろ?」
「大丈夫。体力には自信があるよ」
 ガッツポーズで答えると森君がクスリと笑った。
「なんか、そういうカッコの桐島見るの初めてでちょっとびっくりしたんだけど、中身はやっぱ桐島なんだよなあ」
「なにそれ。似合わないってこと?」
 森君の為に一生懸命考えたのに。あまりに気合が入りすぎるのもなんだから、70%くらいに抑えて。ところどころポイントはあるけれど全体的にはシンプルで森君がどんな服でも釣り合うようにこれにしたのに。
 由貴那が軽く睨むと、「いや、そうじゃなくて」と首を振られる。
「安心したんだよ。変に緊張しなくてもいいんだって」
 それって、いつもより私のこと意識したってことだよね?
 確かに、森君がいつも見ている由貴那は制服かジャージか体操着だ。それは由貴那も同じで、だから今回がお互いに初めて私服姿を目にしているわけで。
「じゃあさ、これ、どう?」
「いいよ、似合ってる」
「ありがと」
 これでこの話は終わり、と「行こ」と森君の服の裾を引っ張った。
「映画、遅れちゃう」
 早足で歩こうとすると、「大丈夫」とのんびりした声。
 でも、そんなのんきなこと言ってられない。
「あのねえ、こっから歩いて五分でしょ。そこからチケットで並ぶでしょ。ギリギリの時間って結構こむよ。急がないと始まっちゃうって」
「まあ、普通に行ったらそうなんだけどさ」
 森君はポケットからスッと二枚の紙を取り出した。それを由貴那の目の前で広げる。それはまさに今話題にしているチケットだった。  
 まさか。
 大きく開いた目で尋ねると、森君は照れ臭そうに笑った。
「どれくらい遅れてくるかわからなかったからさ。待ってる間に買っておいた。だからそんなに急がなくていいよ」
「森君……」
 彼がいろいろと気を使ってくれる人だってことはよく知っている。それでも、こういう時にこんなふうにされると、感慨もひとしおだ。
 嬉しい。それと同時に悪い気もする。でも、やっぱり、すごく嬉しい。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 それじゃあ、のんびりと行こう。
 森君に促されて二人で肩を並べて歩き出す。
 昨日の野球の話をすると森君のテンションが少し高くなる。ここが外でなければ、もっと食いついてくるに違いない。
 そんなことまでわかるようになっているんだ。
 森君と秘密を共有するようになってからまだ二ヶ月しか経っていない。あの頃はこんな日がくるとは思いもしなかった。もし、あの時。森君が由貴那と誠也の関係が偽りだと言わなければ、由貴那は今も平気で偽彼女を演じていた。森君に恋することもなかった。それを想像するだけでぞっとする。
 でも今は光が見えている。森君がこうして隣にいる。
 大丈夫、頑張れる。
 誠也と戦っていくことも苦じゃない。
 空を仰ぐと、眩しい青空が広がっていた。



 映画を観終わった後、二人が足を運んだのはカラオケだった。
 由貴那としては、本当は雑貨屋をちょっと覗いたり、スタバやファミレスに入ったりしたかった。でも、いつ誰に見られるかわからない。映画館は暗かったから気にならなかったけれど、流石に明るい場所で人の目につくような行動はまずかった。
 いくら誠也と喧嘩中だといっても、まだ別れたことにはなっていない。その状況で森君といることを知られたら、話が変にややこしくなるに決まっている。
 もっと森君と普通のデートらしいことをしてみたい。でもただでさえ厄介な状況がこれ以上悪くなるのだけは絶対に嫌だ。
 もどかしい感情の中でふと思った。もしかしたら誠也と奈美もこんな気持ちだったのかもしれない。
 これはこれで由貴那が耐えてきたものとはまた違う辛さがある。こんな状態を半年以上も続けてきた二人は、由貴那が想像していた以上に苦しかったんだろう。それならさっさと本来の形に戻って堂々と歩けばいいのに。ただし、そうなれば奈美は平和な生活ができなくなる可能性がある。そんな面倒で傍迷惑な男のどこがいいのか由貴那にはさっぱりだ。
 好きになるならやっぱり――。
 向かいに座ってドリンクを飲んでいる森君を見ているとどうやら気になったようで「ん?」と視線で疑問を投げかけられる。なんでもないと笑顔で応えて、まず何から話そうか考えた。カラオケにやってきたのは歌いたいからじゃない。森君が歌うのか、歌うとしたらどんな曲を選ぶのかは気になるけれど、今はそんな気分じゃない。いろいろ話をしたくて、でも同じ学校の人に見つかるのも、誰かに話を聞かれるのもまずいからここを選んだ。つい一昨日もカラオケで人に聞かれてはまずい話をしたばかりでも、今日は空気が全然違うことにホッとしている。
「なんかさ、ここんとこずっと力んでたから、久しぶりに気が休まった感じがする」
 それもつかの間のことで、明後日からはまた気を張る一週間になるんだろう。覚悟はできている。
「頑張りすぎなんだよ、桐島は」
「だって、頑張らないと勝てない相手だもん」
 自分の幸せを掴みたいと思ったら、そこでくじけるわけにはいかない。でも、だからこそ今は安心できるこの時間を大切にしたい。それなのに森君は複雑な顔を見せる。どうせなら笑顔が見たいのに。
「……自業自得だって思ってる?」
 最初から偽彼女なんて引き受けなければこんなことにはなっていなかった。馬鹿なことだったって痛いくらいに身にしみている。
「いや、うーん、全く思わないわけではないけど」
「……やっぱり」
 好きな人から呆れられるのはやっぱり辛い。内容が内容だから、余計に。
 由貴那の視線は自然と足元に落ちてしまう。
「そうじゃなくて。違う、違うんだ、桐島」
「いいよ、無理しなくても。私が悪いんだし」
 自分で言いながら自己嫌悪に陥る。
 これって最悪なパターンだ。どんどん落ちていく思考を遮ったのは森君の声だった。
「ああ、もう、一人でそんな考えこむなよ。俺が言いたいのは、桐島が一人で頑張りすぎるのを見てるのが嫌だから、俺にもなにかできたらいいのにって」
 顔を上げた由貴那の目に映ったのは悔しそうな顔だった。森君と視線が交わる。その力強さに、身動きができなくなる。
「桐島の背中押しといて、肝心なところで何もしてないんだよ、俺は」
「そんなことない!」
 森君が自分を責める必要なんてない。由貴那の目を覚ましてくれたのは他でもない森君だ。なによりも大きなことをしてくれたのに、「何もしてない」だなんて。
 我慢できず、身を乗り出した。
「森君、話聞いてくれるじゃない。愚痴も、どうでもいいことも、みんな。辛い時に励ましてくれるじゃない。森君がいなかったら私、今もそのままだった。森君がいたからやっと一歩踏み出せたんだよ。勇気をくれたのは森君なの。誠也と喧嘩しても、学校でいろいろ言われても、森君がいるから頑張れる。最後まで諦めないって思える。全部、森君のお陰なんだよ!」
 お願いだから、わかって欲しい。
 テーブルに乗っている森君の右手に自分の左手を重ねる。由貴那より少し温かい手からこの気持ちが伝わるように、力をこめる。
「今、こうしてくれてることが、なにより大きな力になってる。信じて」
「……そうは言ってもさ。学校で俺ができることって本当にないんだ。下手に首をつっこむと、話をややこしくしそうで怖い。臆病だろ。情けない」
「誰だって臆病だよ」
 由貴那だってそうだ。誠也だって、奈美だって。臆病なこと自体は悪いことじゃない。ただ、そこから取るべき道を間違えてしまった。
「私だって、怖いことばかり」
「桐島は、桐島が思ってるよりもずっと強いよ。いや、強くなった」
 そうだろうか。由貴那が強くなれたというなら、それは森君のことを好きになったからだ。ちゃんとした状態で想いを伝えたい。それが今の由貴那の原動力になっている。でも、それだけじゃ誠也と奈美と戦うことはできない。一人じゃなくて、森君も一緒に戦ってくれていると思えるからだ。
「森君が強くしてくれたんでしょ。でも、森君が支えてくれないとすぐに崩れちゃうようなもろいものなの」
「そうか?」
「うん。だからこれからもいっぱい助けてよ。これは森君しかできないことなんだから」
 切実な想いを本物だとわかってくれたんだろう、森君は小さな苦笑を浮かべた。
「桐島にそう言われたら、断れるわけないだろ」
 森君の手に重ねた由貴那のそれに、更に森君の手が重なる。
「本当は男らしく守ってやるって言えたらいいんだけどな」
「気持ちだけで充分だよ」
 森君は由貴那の気持ちをとっくに守ってくれてる、なんて照れ臭くてとても言えないけれど。いつか言える日が来れといい。
 森君の手が由貴那の手から外れる。それを残念に思いながら、由貴那はすとんと椅子に腰を下ろした。
「あーあ、なんか俺、桐島にいいとこ見せるどころか、かっこ悪いとこばかりだよな。こんなはずじゃ無かったんだけど」
 頭を掻く森君に「そう?」と当たり障りのない言葉しかかけられなかったのは、否定しようとすれば本当の気持ちまで言ってしまいそうで。暗黙の内にばれても構わないと思うけど、ちゃんと口にするのは誠也のことが片付いてからにしたい。そんな由貴那の気持ちを知らずに、森君は肩を落とした。
「桐島を振り向かせるのは、まだまだ遠いかな」
 振り向くどころかずーっと見てるよ。
 胸の中で答えながら、由貴那は笑顔を浮かべた。
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