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 十月最後の土曜日。少し雲がかかっているものの心地良い天気となった空の下、いつもと同じように走る電車の中に瑞穂はいた。毎日のように電車に乗っているものの、家や学校のある駅から既に結構離れている。休日だけあって電車は混んでいる。視界には高校生らしき影があちこちにあった。これから部活に行く様子の人、おしゃれをして遊びに出かける人、グループで楽しくおしゃべりをしている人、男女二人いい雰囲気で寄り添っている人達。他の年代の人達ももちろんいる。けれども先に彼らが目に入ってくるのは瑞穂が同年代だからだろう。しかし一番気になるのは瑞穂の隣で携帯用の小さな参考書を開いて真剣に読んでいる良臣だった。
 こともあろうか、良臣と二人、隣り合って電車の座席に並んで遠出をしている。模試のある日に、家で勉強するわけでもなく。
 瑞穂も参考書に目を通しているものの全く頭に入ってこない。全ては良臣の奇妙な言動のせいだ。
 朝、食事の後片付けをしていると、突然声をかけられた。
『後で出かける準備しろよ。九時半には出るからな』
 意味がわからなかった。模試は良臣が言う通りに申し込んでいない。それなのにどこに出かけるのか。今日は塾には行かないで勉強する予定だったはず。良臣もそのつもりで予定を入れないように言ったのではなかったのでは?
 状況が掴めずに反応できない瑞穂に良臣は眉を顰めた。
『今日は空けとけって言っただろ。忘れたのか?』
『空けてあるけど、どこに行くの?気分変えて図書館で勉強とか?』
 わざわざ研修室に行かなくても家で充分集中できるのに。取り敢えず浮かんだ考えを元に返すと良臣は瑞穂にでこぴんを一つ食らわした。
『……なっ!!』
『誰が勉強しに行くっつったよ。今日は脳休み。まだまだ先は長いんだからたまにはそういうのが必要』
『えー。そんなんで大丈夫ー?』
『ごちゃごちゃ言うな。とにかく今日はついてこい。これは命令。聞かなかったら今後一切お前の面倒は見ない』
『それって脅迫じゃない』
『おう』
 笑ってはいるが、多分本気だ。今ここで良臣に見放されたらと考えると恐ろしいどころの話ではない。天秤にかけるまでもなく瑞穂が了承すると、移動時間に何か見るくらいならいいにしてやるよ、と言って良臣はダイニングから姿を消した。
 そんなに息抜きしたいの?残された瑞穂は呆れてため息をついた。良臣らしくないような、とてもらしいような。よくわからないが今日は良臣につきあうことに決まった。どこに行くかわからないが外に出るんだからそれなりに支度をしないといけない。瑞穂は手早く片づけをし、自室に飛び込んだ。
 それから約二時間後。
 こうして電車に揺られているが、いまだにどこに何をしに行くのかはっきりわからない。かろうじて降りる駅だけは知っている。でもそれだけだ。そんな状態だからどうにも落ち着かない。当の良臣はしれっとした顔で物理の問題を眺めている。瑞穂が覗いたところで意味一つわかりやしない。けれど自分が持ってきた世界史も今は何の役にも立たない。それでも本を閉じないのはちょっとした意地だ。そして、頭で別のことを考える。
 今、自分達はどんなふうに見られてるだろう。
 いささか自意識過剰な想像だ。基本的に、目立ちさえしなければ電車で人の意識を奪うことはない。瑞穂と良臣だってごく自然に車内の風景に溶け込んでいる。その中できっと二人は「二人」でくくられているはずだ。会話はない。でも隣同士で似たような参考書を読んでいる絵は間違いなく二人をセットにしている。周りの人達はどんな関係を予想するだろう。友達か、恋人か、単なる知り合いか。そこには同居人の要素は全くない。つくづく不思議だと思う。同じ家に住み始めて七ヶ月、いまだに時々意識する。
 赤の他人だったのに、同じご飯を食べて、いろいろな話をして、一緒に勉強して。多くの受験生が模試を受けてる中、こうして二人電車で出かけているなんて。
 答えは出ない。出したいわけでもなかった。しばらく考えた後、参考書を開いたままぼうっとしていた。やがて、良臣に小さく肘でつつかれた。
「次、降りるから」
 それを合図に参考書をしまって立ち上がる。流れるように足を進め、駅に降り、改札を抜け、街に出る。
「どれくらい歩く?」
 どこに行くのか聞いても答えてくれないような気がして、結局口を出たのはそんな言葉だった。
「十分かかんないかな」
「じゃあそんな遠くないね」
「おう」
 結構かかるなら何か飲み物を買おうと思っていたけれど不要のようだ。少し得をした気分になる。
 良臣はポケットに手を突っ込んで颯爽と歩いていく。それなのに瑞穂が置いていかれないのは一応気を使ってくれているからだ。一人で歩く時はもっと速いことを瑞穂は知っている。でも塾の帰りだって、今だって、こちらに合わせてくれる。大したことじゃない。でもそれができるかできないかで人間としてかなりの差がつく。少なくとも瑞穂はそう思っている。
「今頃、必死で模試受けてる奴らがたくさんいるんだよな」
「なに?気になる?」
「いや。明日のは受けるし。大体数打ちゃ当たるっつーけど打てば打っただけエネルギー使うだろ。無理のしすぎは禁物。な?」
「あー、まあね」
 それは月初めに無理をして貧血を起こした自分への当てこすりかと瑞穂は引き攣った笑いを良臣から反らす。ただ、あれが原因で色々と面倒なことを引き起こしているだけに言い返すことができない。でも敢えて口にすることもないのに。ちらりと良臣の顔を窺えば全く普通の顔だ。からかってる様子もうんざりしている様子も何もない。特に深い意味はなかったのかもしれない。瑞穂の口元から力が抜ける。
「もうすぐ十一月かー」
「そうだな」
「私立、もう決めてる?」
「一応は。でもそういう話は今日は無し。せっかく息抜きしようっていうのに、頭固くしてたら世話ないぜ。受験の話なんていつでも話せるんだからさ」
「……はいはい」
 明日模試だっていうのに全部忘れろなんて無理がある。でもいつまでも気にしていたら今日を楽しめない。せっかくの息抜きだ。良臣が何をしたいのか全くわからない。でも瑞穂を置いてけぼりにするようなものに付き合わせはしないだろう。
 どうせなら、思い切り楽しんだ方がいい。
 そう考え直し、辿り着いた場所は。
 名前を聞いたことはある程度の美術館だった。
「ここ?」
 尋ねながらも、瑞穂の目はポスターに釘付けだ。良臣の選ぶ息抜きの対象としては意外だ。でもここであって欲しい。切に願うくらいに意識を持っていかれた。
「そ。お前、こういうの好きじゃない?」
 返された質問にぶんぶんと首を横に振る。
 好きじゃない?
「ううん。大好き」
 声が上ずった。もしかしたら語尾にハートマークがついていたかもしれない。
 だって、今、この美術展で開催されている企画は。
「だろうな。『源氏物語の世界』。結構評判いいらしいぞ」
 評判云々は既に瑞穂の耳を素通りしていた。
 テレビのCMでも流れているこの展示は随分前から瑞穂の興味を引いていた。すごく見たくて、でも受験生だしそんな暇ないと自分に言い聞かせて。それでもCMを見ながら「いいなぁ」と零したことはある。良臣はそれを覚えていたのだろうか。
「行くぞ」
 建物に向かって歩き始める良臣に一歩遅れて瑞穂もついていく。
 少し前まで受験のことや模試のことが気になっていたはずなのに一気に吹き飛んだ。そして今日がちょっとした息抜きどころかかなり特別な日になる予感に溢れていく。
 入場券を買って、最初のフロアに足を踏み入れた途端、予感は確信に変わる。
 小さく「わぁ」と歓声を上げた瑞穂に、良臣は眩しそうに目を細めた。
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