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 源氏物語の写本に、絵巻物に、解説資料。平安時代の道具や着物も展示してあり、一時な雅な世界に瑞穂はすっかり浸りきっていた。
 中には資料集に載っているような絵もあり、瑞穂の興奮は最高潮に達していた。
「ねえ、ちょっとこれ、すごいよ。まさか本物見れるとは思わなかった。目の前にあるなんてすごくない?」
 さっきから「すごい」をひたすら繰り返している瑞穂だが自分ではそのことに気づいていない。次から次へと展示物に心を奪われ、めくるめく夢の世界を堪能していた。良臣はそれに呆れるでもなく引くでもなく、流石に瑞穂程ではないが関心を見せている。
「高校に行ってる奴のほとんどが知ってるレベルだよな。説明読んでもかなり貴重な資料みたいだし」
「そりゃそうでしょ。これ、この巻で現存する最古の絵だから。ちょっとボロボロだし、色も薄いけど、それでもこうして残ってるってところに感動するよね」
 きっと、源氏物語を好きな人達の間で大切に引き継がれてきて今日に至るに違いない。価値を見出し、温めていくことで更に価値が上がる。歴史的資料としての価値の高さもある。けれども、それ以上に、人々を魅了してきただけのものがそこにある。大事にしたい。残していきたい。そう思わせる何かが。
 瑞穂が熱く語ると、良臣が目を丸くしていた。
「……なによ」
「いや、お前、体育会系脳だけどそれだけじゃないなって」
 体育会系の一言が瑞穂に引っかかる。
「馬鹿にしてる?」
「んなこと言ってねーだろ。感心してんの」
 どこが!と思ったが口にするのはやめた。こんな素敵な場所で言い争いたくない。気持ちをリセットしようと少々後ろ髪を引かれる思いで次の展示物の前に進む。若紫の写本の内容を解説パネルを読み、少しだけ解読した気分になる。
「こういうのってどこが区切りかわからないんだど」
「時々読める漢字があるくらいだよね。ひらがなは色々あって難しいみたい。本命通ったら、こういう勉強もできるんだって」
 学部コースのホームページで紹介されていた授業の中に書かれていた。
「やりたい?」
「すごく。自力でこういうの読みたい」
「お前、古典得意ってだけじゃなくて本当に好きだよな」
「じゃなきゃ古典文学なんて本命にしないでしょ。もっと現実的なの選んでたと思うよ」
「お前の持ってる漫画や小説って、半分くらい歴史系だしな」
「そうそう。最初にそれがあって、だから古典も好きになったわけ」
 なかなかよく見てるな、と思う。毎日良臣の部屋に訪れている瑞穂とは違い、良臣は本当に時々しか瑞穂の部屋に入らない。用事があっても入り口で済ませてしまう。もっとも、漫画も小説も普通に本棚に並べてあるから余程無関心でもなければ気づくことではある。
「ただ綺麗なだけの世界じゃないってわかってるし、昔だから大変な部分もあったってわかってるし、今じゃ考えられない習慣とかもあるけど……でもやっぱり好きなんだよね」
 何かを好きになるのは理屈じゃない。きっと。
 この美術展だって、興味がない人にしてみたらさっさと素通りして終わってしまうようなものだろう。かと思えば、瑞穂のように何時間でも、一日中でも、もしかしたら毎日でもいたい人もいる。その理由をうまく説明するのは難しい。
 気がついたら魅せられていた。
 もっと深く知りたいと思って、大学はその分野を選んだ。
 それは多分、普通のことで、ありふれていることで、誰にでも起こり得ることだ。
 もっともF学院のような進学校では少数派かもしれない。
「狩屋から見たら単細胞に変わりないかな」
 そんなふうに思われても仕方ない。でもその考え方を否定する気も、そう思われたことで怒る気もない。
 体面なんて本当にどうでもいい。ただ好きだって気持ちを自分が大切にしていきたい。
 こちらが決して悪い感情を持っているわけではないと伝えたくて、敢えて悪戯っぽい表情を出す。そうすれば良臣は軽くからかって済ませると思った。
 でも違った。
「んなこと思わねーよ」
 真顔で言われてドキッとする。
 けれども良臣はそれ以上触れることはなく、次のコーナーに進んで行く。
 私の考えを認めてくれたのかな……。
 胸に生まれたくすぐったい気持ちが全身に広がっていく。普段はなかなか無い感覚にじっとしていられなくて、「先行かないでよっ」と早足で見慣れた背を追いかける。
 振り向かれないでよかった。
 多分、今顔を見られたら、「何にやけてんだよ、気持ち悪い」と言われるに決まってるから。



 大満足で美術館を出た後、近場の店でランチを取った。
 高校生でも気兼ねなく入れる敷居の低いレストランカフェでお腹を満たすと、「次行くぞ」と良臣が外に引っ張り出した。
 再び電車に乗り、指定された駅で降りる。今度は駅から20分くらい歩いたところに連れてこられ、目にしたものに瑞穂は思わず固まった。
「バ、バラ園……?」
 似合わない。
 頭はやたらといい上に態度もでかく、ひたすら偉そうで、食欲魔神のこの男が。
 バラ園。
 バラは好きだ。
 綺麗だ。
 綺麗だけど。
 狩屋、好きなの?
 たったそれだけの言葉が言えない。口にした途端に機嫌を悪くしそうだ。
「丁度見頃なんだと」
「そういう情報、どこからもらってくるの?」
「携帯に配信されてた。値段も手頃だし?アイスも売ってるらしいぜ」
「あ、そうなんだ」
 アイスにつられただけだ。そう思わないと笑い出してしまいそうで怖い。
 いそいそと料金を支払ってバラ園の中に入る。
 あちらこちらで咲き誇る無数のバラに目を奪われた。
「わー!」
 広い公園並みの敷地の中に何種類ものバラが存在している風景は圧倒的だ。
「すごい、日本じゃないみたい」
 一番近い花壇に駆け寄り、真っ赤なバラにうっとりとしてしまう。
「クリスチャン・ディオールって、凄い名前だな。あっちはラヴァグルート……赤いのでも全然違うのか。白に黄色いにピンクに紫。何色も混じったのもあるし、形や大きさも千差万別か」
「本当だね」
 良臣の感心した声に素直に頷く。
「ね、これ写メ撮っていいのかな?」
 くるりと振り向くと、良臣が驚いたように固まった。
「狩屋?」
 どうしたのかと首を傾げれば、良臣が慌てて辺りを見回す。
「あっちこっちで撮ってる人いるし、大丈夫だろ」
 言われてみれば、確かにカメラを持って色々な角度から撮っている人達がいる。それならと携帯を取り出して、カメラモードにする。
「じゃ、ここで一枚よろしくね」
 携帯を手渡すと、良臣の眉間に小さく皺が寄った。
「俺が撮るのかよ」
「いいでしょ。せっかく綺麗なんだし。記念だよ。記念」
「ったく……」
 面倒くさそうな顔をしながらも良臣は距離を取った。
「ほら、撮るぞ」
 言い終わるかどうかのタイミングでカシャ、と携帯のカメラ特有の音が鳴る。
「えー、今の早い!」
「んなことねーって。変じゃないぞ、ほら」
 抗議に対して返された携帯に映っていた写真は、意外にも自然体に笑う自分の表情がいいと思える出来だった。
「な?」
 一言だけなのに、その裏から「文句は言わせねー」という声が聞こえてくるようだ。
 でも良臣の言う通りだ。シャッターを押すのは完全に不意打ちだったと思うけれど、いい写真だからこれ以上何も言えない。
 瑞穂が膨れていると、良臣が歩き始めた。
「お前はずっとそこにいてもいいけど、取り敢えず俺はぐるっと一周してくる」
「えっ、置いてかないでよ!」
 入り口付近だけでも充分に癒されるけれど、せっかく来たからには一通り見たい。
 ダッシュで良臣に追いつくと、意地悪な笑顔を浮かべた横顔と目が合った。
「……ここでケンカしたら綺麗なバラが台無しだからっ」
 プイッと視線を逸らして花壇のバラに集中する。
 結局、小さく吹き出した良臣に我慢できなくて途中から軽い言い合いをしながらのバラ鑑賞になってしまった。



 地元駅に着いてマンションまでの道を歩き出すと、普段の感覚が戻ってくる。
 見慣れた道。建物。街路樹。街灯。
「なんか、塾行ってきたみたい」
 美術館やバラ園で感動した高揚感はまだ確かにある。それなのに。
「こんなふうに歩いてるとなあ……。まあ、わかる気もする」
 西の空がうっすらと赤い光を放ち始めている。
 明日は模試かと考えると、一気に現実に帰ってきたような気分になった。
 完全にいつも通りになる前にこれだけは伝えないと。
 まだ心が温かいのを確かめて、「狩屋」と呼ぶ。
 振り返った良臣は柔らかな夕陽を浴びてほんの少し眩しく見えた。
「今日はありがとう。すごく楽しかった」
 向こうにいる時は戸惑いや興奮が大きくて考えられなかったけれど、帰りの電車でようやく思い至った。
 良臣は瑞穂に気分転換させる為に今日の行き先を考えてくれたこと。
 最初から息抜きをさせる為に、今日を空けておくように言ったこと。
 気づけばそれはすごく単純で、良臣にしてみれば嘘みたいにわかりやすかった。
 隠す気なんてなかったと思う。
 だから、ほら。今だって満足そうに目を細めて笑っている。
 その眼差しがとても優しくて、戻りかけていた普段の感覚がどこかに行ってしまった。
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