人災はある日突然やってくる

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  莫迦野郎  

 お弁当箱を開けた瞬間、目に入ってきた鮮やかな色に真衣は「うわ」と声を出した。正面で水筒のお茶をコップい注いでいた莉奈が反射的にこちらを見る。そして真衣のお弁当に目を向けて「ああ」と納得したような声を出した。
「トマト」
「言わないでっ。名前を聞くのもイヤなんだから」
「へー。近藤さん、トマト嫌いなの?」
「うん嫌い。大っ嫌い。小さければ可愛いとか言う人いるけどあたしは嫌い。もー見るのもイヤ。あの食感、あの味、思い出すだけでもぞっとする……!……って、秋田君?」
「なに、あんた誰かもわからないでしゃべってたの?」
 莉奈が呆れた声でツッコミを入れる。反射的にトマトに対する嫌悪感を語ってしまったが、今更ながらに話を振ったのが秋田君だったことに気づいた。
 なんかひょっこり出てくるなあ、この人。神出鬼没っていうか。
 当の秋田君はお弁当箱に入っていたミニトマトを指差してにこりと笑った。
「じゃあ、俺がもらっていい?」
「え?食べてくれるの?」
「うん。俺、いつも購買だから昼は野菜不足なんだ。近藤さんが食べないなら俺がもらっていいよね」
「そうしてくれると助かる!お願いしていい?」
 なんていい人なの。秋田君が神様に見えてくる。けれど、莉奈が溜息をついて文句を言った。
「秋田君、あんまり真衣を甘やかさないでよ。トマトくらい食べれなくてどうすんの。トマトは美肌にいいんだよ」
「いいじゃんリナー。トマト以外のものでカバーすればいいんだって。だから秋田君、あたしのお肌のことを心配せずにどうぞ食べちゃって」
 ささ、と勧めると、秋田君は「じゃあ遠慮なく」と言ってミニトマトを掴み、へたを取って口に放り込んだ。あたしのお弁当から赤くて丸い物体が消えたというだけで、あたしのテンションは急上昇。
「秋田君サイコー!!」
「真衣、あんた調子に乗りすぎ」
 莉奈のクールな一言が入るけれどお構いなし。あたしは今、秋田様々を敬わずにはいられないのよ。
「美味かった。ありがとう、近藤さん」
 じゃあ俺は、と言って秋田君は教室を出て行く。そっか、購買に行く途中だったんだ。
 この時間、窪田君は他の男子と遊んでるんだよね。野村君とか、石原君とか、八木君とか。午前中は目に見える不機嫌のせいか誰も近づかないで、窪田君も席から動かないこともあってずっと一人でいたけど、そろそろ機嫌を直しただろうか。
 ちらっと斜め後ろを振り返ると、窪田君と真正面から目が合った。思わぬ出来事に固まってしまう。机に上半身を寝かせた状態でじっとあたしを見てくる窪田君はピリピリした空気を放っていた。
 あれ?……もしかして、あたしに怒ってる?
 その可能性に気づいて、血の気がサーッと引いていった。
 え?なんで?あたし何かした?窪田君が怒ってたのって秋田君じゃなかった?秋田君もそうだって言ってたよね。でもあたし?あたしにも怒ってる?どうして?なんで?わかんないよ。窪田君なんでそんなに怒ってるの?
 ショックで動けなくなっているところに、莉奈に「真衣ー」と呼ばれて首を正面に戻した。莉奈は卵焼きをつつきながら視線を送ってきた。 
「あんたも食べなよ。あたしばかり食べてて寂しいじゃん」
「あ、うん」
 莉奈のお弁当は3分の1くらいなくなっているのに、あたしの方は全然手をつけていなかった。一緒に食べてるのにこれはよくないよね。慌ててお箸を取り、ご飯を食べ始めた。お母さん自慢の混ぜご飯なのに、味わう心の余裕なんてなかった。機械的にご飯をつめこみながら、意識は窪田君のことだけ。
 あたしに向かって怒ってたよね?見間違いじゃないよね?
 嫌われたのかもしれない。そう考えると怖い。
「真衣さあ」
「え?」
 莉奈は視線を自分のお弁当に向けたまま、「気づいてる?」と言った。
「あんた今、ひどい顔だよ」
 それだけで、もう何も言わなかった。
 本当は聞きたいんだと思う。でも、今はそっとしておいてくれる莉奈の優しさが嬉しかった。


 午後の授業は上の空だった。
 窪田君と仲直りするどころではなくなってしまったかもしれないってことで頭がいっぱいで、何度溜息をついたことか。窪田君、あたしが避けるようになってからも変わらず話しかけてきてくれたけど、あたしは距離を取ってばかりだったから。本当はずっと怒ってたのかな。いい加減にしろとか、もうどうでもいいとか、絶対に許さないとか、思ってたりするのかな。
 そう思ったら気分はどんどん沈んでいって、今日最後の授業が終わった頃には最悪な状態。
 そんな中、のろのろと帰り支度をしてると、秋田君が通りすがりに一言置いていった。 
「近藤さん、HR終わったら昨日と同じ場所で」
 きっと、窪田君のことだ。
 あたしの返事を聞かずに席に戻っていった秋田君の真っ直ぐな背中は、藁にもすがりたい今のあたしにとっては輝いて見えた。
 HRが終わると速攻で教室を出た。真衣が早く来たからなのか、普段からこうなのか、第二自習室は今日も人気がなかった。きっと、いつもこうなんだと思う。第一自習室の方が広いし綺麗だし、そっちがだめでも図書館は空調が整っている。学校で勉強するなら大抵その二つの選択肢から選ぶ。そもそも、次のテストはまだ先だから今は第一自習室もカラカラのはずだけど。
「ごめん、近藤さん。待たせちゃった?」
 教室に入ってきた秋田君は申し訳なさそうに笑った。
「ううん。そんなに待ってないし」
「じゃあちょっとは待ったんだ」
「あ」
 今来たとこだから、って言った方が良かったのかな。実際、そんなに待ってないけど、気が利かなかったかもしれない。
「えと、そういう意味じゃ……」
「いいよ。近藤さんのそういう正直なところは面白いし」
「え、それならいいんだけど」
 そうだよね。秋田君はきっとそんな細かいこと気にしないよね。でも窪田君はどうなのかな。言わないだけで思うところがあったりするのかな。そう思うと気が滅入る。この場にはいないのに、窪田君のピリピリした空気に触れているような気分になる。
「元気ないね。何かあった?」
 反射的に顔を上げると、秋田君が真正面からあたしの顔を覗き込んでいた。急に距離が近くなっていることに驚いて、思わず一歩後ろに下がった。
 心臓に悪い。
 秋田君の顔から笑顔は消えていて、今はただ真顔だった。秋田君はいつもにこにこしてる人ってイメージが強い。そしてあたしは、真顔の秋田君を見ることはほとんどないから、なんか違和感がある。
「え、と」
「カズが何かした?」
 戸惑っていると、秋田君は窪田君の名前を出した。微かに目が大きくなるのを秋田君は見逃さなかった。
「なに、したの?」
 ゆっくりと、けれども確かな発音が耳に届く。表情のない秋田君の目が真っ直ぐとあたしを見る。それが何故だか少し怖くて、それから不機嫌な窪田君の姿を思い出して、胸が押しつぶされる。
 窪田君に嫌われてしまったかもしれない。最初はそれを相談するつもりだった。一番頼れるのは秋田君だと思ってた。 でも言えない。窪田君に嫌われたかも、なんて口にするのも怖かった。それに、今の秋田君は、なんだか――。
「話したくないんだね」
 あたしが黙っていると、秋田君は溜息を一つついた。
「カズは馬鹿だね」
「え?」
「近藤さんにこんな顔させて。傷ついてるのが自分だけだと思ってたら大違いだ。うん、大馬鹿野郎だよ」
 秋田君は頷くと、あたしの腕に触れた。
 ちょっと待って、これって。
 もしかして、と頭に浮かんだのは身の危機で。秋田君に限ってまさかそんな。浅間さんがいるんだからそんなことするはずない。でも、この状況はどう見ても。
 混乱しているところに、秋田君の口から決定打が出る。
「近藤さんにカズは勿体ないよ。俺なら、絶対に近藤さんを傷つけない」
 やっぱり。
 予感が確信に変わると同時に、離れなきゃ、という言葉が頭の中を埋め尽くした。
 やばい。これはやばい。
 秋田君の手を振り払おうと力を入れる。けれど、体を動かす前に、バン!と大きな音が教室の中に響いた。その拍子に秋田君の手が離れる。あたしは振り返りながら数歩秋田君との距離を開けた。
 そこにいたのは窪田君だった。窪田君は驚いた顔であたし達を見ている。
 なんで窪田君がここに?
 名前を呼ぼうとしたけれど、その前に窪田君が動き出す。
「聡、お前何やってんだよ!」
 中に入ってきた窪田君は怒鳴りながらあたしと秋田君の間に割り込んだ。目の前にグレーの背中が広がる。その向こうに見える秋田君は、にこにこといつもの笑みを浮かべた。
「何って、見たまんま?」
「お前、浅間が!」
「つきあってるわけじゃないんだけど」
 非難するように声を荒げた窪田君に、秋田君は淡々と返す。それを聞いた窪田君はガッと前のめりになって拳を握る。
「そういう問題じゃなくて……!」
「はいはい。わかってるよ。でもさ、いいじゃんこれくらい。近藤さん話してて楽しいし、俺を拒否しないし。カズは知らないと思うけど、昨日も二人ですごく盛り上がっててさ。俺達すごく気が合うなって思ってたとこ」
「冗談じゃねーよ!近藤は俺が……!」
 あたし、秋田君と盛り上がった記憶なんて無いんだけど、と思っていると、窪田君は大きな声を上げて秋田君に殴りかかろうとした。
「窪田君……!」
 危ない、やめて!
 止めようと手を伸ばす。それより先に窪田君の腕が大きく動いた。秋田君はそれを顔色一つ変えないで避ける。けれどもホッとしたのも束の間、秋田君はバランスを崩して机に当たり、大きな音を立てて転んだ。
「秋田君、大丈夫!?」
「……ってー」
 膝と肘をさすりながら起き上がった秋田君は「せっかく避けたのにこれじゃ台無しだ」なんて呑気に言っている。そして、真顔で窪田君に視線を送る。
「危ないな」
「……聡」
「もっと冷静になりなよ。今のカズは全然駄目だ。頭を冷やせ。俺が本気かどうかもわからないか?」
「……どういうことだよ」
 窪田君は秋田君を睨みつける。秋田君はそれを静かな視線で受け流した。
「そういうことだよ」
 二人の間に無言が落ちる。そしていくらか時間が経つと、秋田君はふと笑顔を浮かべた。 
「俺はそろそろ行くよ。浅間さんが待ってるんだ」
「え」
 秋田君、このまま放り出す気なの?
 慌てて手を伸ばそうとするけれど、秋田君は教室の外に出てしまう。そして、去り際に一言。
「カズ、ちゃんと話し合いなよ。冷静に」
 それだけ言い残して姿を消してしまった。
 教室に残されたあたしと窪田君はお互いに戸惑いの表情を浮かべて向かい合った。
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