猫と毒草

ススム | モクジ

  舅と領主 前編  

 水曜の朝。
 エンイストンの議員トーマス・ハワードは寝間着に厚い上着を羽織った姿で食堂に降りてきた。一階に漂っている美味しそうなスープの匂いが食欲をそそる。
「おはよう」
「おはようございます、旦那様」
 テーブルに朝食を運んでいたのはハワード家にお手伝いさんとして出入りしているマーナだ。中年と呼ばれる時期も後半に差し掛かった彼女はよく働いてくれる。普段はまだ出勤時間ではないのだが、ここ数日イオネがいないので特別に朝から来てもらい朝食の世話を任せている。
「そろそろルイスさん達も起きた頃でしょうかねえ」
「うむ。そうだといいがまだ寝ているかもしれん」
「新婚旅行のようなものですものねえ」
 給仕をしながらマーナがここにいない二人に思いを馳せる。トーマスの息子ルイスとその嫁イオネは月曜から一週間の旅行に出かけていた。しかも二人とも有給だという。そのいきさつを聞いた時にはオリヴァーに何か意趣返しをしてやろうと思ったものだ。
 なにせエンイストンの領主はこそこそと息子夫婦を引き裂くような真似をしてくれたのである。結果的には何も変わらなかったがそう簡単に許せるものではない。その一件以来二人の仲が深くなったことを差し引いてもまだまだ足りない。今度会った時は何と言ってやろうか。最近は時間が空くとそんなことばかり考えている。
「新婚旅行か。羨ましいものだ」
「あらあら、旦那様ったら」
「羨ましいが、あの二人が仲睦まじくしているのを邪魔してはいかんからな。年寄りは土産でも楽しみに待っているさ」
「そうですわねえ。ルイスさんが結婚するって聞いた時には喜びよりも不安や心配ばかりが大きくてどうしようかと思いましたけど、まさかあんなに変わるなんてねえ」
「実にその通りだ」
 トーマスは食事をしながら相槌を打つ。
 マーナの気持ちはよくわかる。と言うよりも、誰よりも不安だったのは自分だと自負している。一般家庭の父親に比べるとルイスに接してきた時間はとても多いとは言えなかったが、息子を理解する努力は怠らなかった。



 トーマスが知るルイスは基本的に人には無関心だが猫には深い興味と強い執着を抱く若者だった。はっきり言ってしまえば変人だ。ちょっとやそっとの変わり者ならばまだ救いがあったかもしれない。しかしルイスは「猫好きルイス」というトーマスにとっては不名誉な渾名を世間に轟かせる始末。普通の猫好きだったら女性にはまだ好印象に映ることもあっただろうが、ルイスのそれは猫がいれば周りが見えなくなり時間も何もかも忘れて猫との世界に入ってしまうというどうしようもないものだった。身内のトーマスですらひく時があるのだからほとんど面識がない人物にとってはそれどころでは済まない。
 それでも息子は息子だし、他の部分――学問や仕事――はしっかりとしてきたので文句を言うことはなかった――ほどほどにしてくれと頼むことは何度かあった――が、ルイスが二十歳を超えた頃からある不安がトーマスの胸に巣食うようになった。
 果たしてルイスは結婚できるのだろうか。
 一応名家であるハワード家の当主として、ここで血が絶えるのはよろしくないと思うものの、当のルイスに女っ気は全くなく、ルイスのあの性格を考えると見合いを設定することも躊躇われた。あまりうるさいことは言いたくないと思って身の回りのことは必要最低限しか口を出してこなかったが、これに関しては言わねばならないとちょくちょく声を掛けるもいい反応は返って来ず。男は三十歳を過ぎても遅くはないと自分を慰めながらも三十歳過ぎでも今のままのルイスだったら余計に嫁の貰い手がないのではないかと焦り出してきた頃、オリヴァーが見合いを持ちかけてきたのである。
 領主の縁結び好きは彼と面識のある者は皆知るところで、とある議員の娘が白羽の矢を立てられかけて慌てて他の人物と結婚した話は議員仲間の酒の席では必ず出る話題である。その話に象徴されるように、オリヴァーの持ち出す縁談は必ずしも良いものではないのが難点だ。しかし領主から縁談を紹介されると断るにはそれなりの理由が必要だし、もし結婚してからうまくいかなくてもなかなか離婚することができない。故に非常に厄介だと大抵の人間は敬遠する。
 しかし、トーマスは違った。普段は災難を被って可哀そうにと同情の目で当事者を見るのだが、この時ばかりはオリヴァーに希望の光を見た。紹介された相手はロレンス家の臨時顧問薬師で。臨時と言えど実質は顧問薬師であるその女性は名家の出身ではなかったが、代々続く医者の家系の娘で身元もしっかりしていた。何より腕のいい薬師だと評判もいい。オリヴァーは結婚後も仕事を続けさせたいと言っていたがそんなことは問題ではなかった。息子が人並みに結婚できるのなら些細なことは気にしない。相手の女性には気の毒だが、これも運命だと思って我慢してもらおう。
 トーマスはオリヴァーに承諾の旨を伝え、その日の夜にルイスに話した。
『見合いが決まったぞ』
『見合い?』
『オリヴァー様から声をかけられた。お前には交際している女性もいないようだし、断る理由が特に無い。領主の縁結び好きは有名でな。向こうの方が立場が上なだけに無碍にすることもできん。取り敢えず見合いには顔を出してくれ』
 オリヴァーの存在を強調するとルイスは表情を変えずに言った。
『仕方ないな。どうせ避けて通れない道だろうし』
 そこからルイスがいずれは結婚を考えていたことを知って少し驚いたトーマスは時期尚早だったかと考えたものの、成り行きに任せようとそれ以降は何も言わないことに決めた。
 見合いはつつがなく行われ、ルイスはさっさと結婚を決めてきたのだが、喜んだのは最初だけ。徐々に現実が見えてくるとルイスが嫁とうまくやっていけるのか心配で胃が痛い日が続いた。それは結婚式に近づくにつれ酷くなり、二人が新婚旅行から帰ってきてしばらくは体調不良に悩まされる日々を送った。それが消えたのは息子夫婦がそんなに悪くない関係だとわかったからだった。ルイスは自分一人で過ごしていた猫と戯れる時間にイオネを誘うといった気遣いを見せていたし、イオネも猫だらけの生活に慣れようと努力しているのが見受けられた。愛情の類は感じられなくとも会話はある。先のことを考えれば二人はゆっくりとしたペースでいけばいいのだと思った。
 トーマスの願い通り、二人は徐々に距離を縮めていった。意外だったのはルイスが最初に態度を変化させたことだった。聞けば、イオネが猫の怪我の手当てをしたことがきっかけだったという。イオネに「懐く」という表現がぴったりの息子の様子を見て驚いたものだが、同時にとても嬉しかった。人間に興味を示さないルイスがイオネを意識しなにかと働きかけるのは実に喜ばしいことだ。イオネは時々迷惑そうにしながらもルイスにつきあっていた。当のルイスはとても楽しそうだった。ルイスの猫好きは相変わらずだったがそれを問題だと思わないくらいトーマスは感動していた。
 更なる変化が訪れたのはイオネが薬の調合に失敗して毒に当てられ体調を崩した後。あの時はトーマスも気が気ではなかったがルイスの動揺っぷりはそれどころではなかった。顔は蒼白で、ともすればこちらも病人ではないかと疑う程に酷かった。そのルイスはイオネが快復するまで仕事を休み傍についていた。イオネは数日で元気になり、仕事にも無事復帰した。その頃からだ。息子夫婦から漂う空気が恋人らしいものになった。ふとした瞬間に交わる視線に乗せられた愛しさや言葉の端々に宿る思いやり。それに気づかないトーマスではない。マーナも同様で、二人揃って喜びを噛み締めたのは記憶に新しい。



「あいつは好きなものには一直線だからな」
「しかも好きになったら絶対に飽きないんですよね」
 うふふ、と笑うマーナはとても嬉しそうだ。彼女には二人の息子と三人の娘がいるが、ルイスも自分の子どものようなものだとよく言っている。彼女の子どもたちはとうに結婚していたから、何かと不安の多い末息子がやっと手を離れたような気分になっているのだろう。
「飽きるどころか、どんどん深くなっていくぞ」
 幼い息子が猫を可愛がり出した当初はここまで愛情が深くなるとは考えもしなかった。
 断言してもいい。
 ルイスは一生イオネを愛していくだろう。
 幸いなのはそれがルイスの片想いではないことだ。幸せな息子夫婦の様子を見ていると、自分の隣に妻がいないことが悔やまれる。しかし早くにこの世を去った妻も二人を天国から微笑ましく見守っていることだろう。
「もしかして旦那様、ルイスさんが少し遠くなったようでお寂しいんじゃありません?」
「いや。年甲斐もなく楽しませてもらっているよ。今はその二人がいなくて少々退屈だがね」
 夜は猫を相手に酒を飲んでいると知ったら息子達は年寄りを少しは哀れんでくれるだろうか。いや、ルイスなら逆に羨ましがるような気がする。家にいない間ずっと猫達と一緒で何が退屈だと怒る声まで聞こえてきそうだ。
「まあまあ。お二人が帰ってくるのが待ち遠しいですねえ。その先の楽しみもあるでしょうし」
「ああ。マーナ、初孫はやはり嬉しいものだろうな」
「それはもう。どれくらい嬉しいかはその時になってみればわかりますよ」
 既に三人の孫がいるマーナは相好を崩した。一番上の孫は最近「ばーば」と呼ぶようになったらしい。トーマスは自分が「じーじ」と呼ばれるのはいつになるだろうと胸がそわそわしたがあまり深く考えるのを止めた。子どもは授かりものだ。年寄りがうるさく言うのは野暮である。息子夫婦が円満ならばいつか孫の顔を見られるだろう。そしてトーマスはその日がそう遠くないことを確信している。ああ、やはり夫婦円満とは素晴らしい。それが我が息子のことであれば尚のこと。
 そんな我が家の幸せを壊そうとしたのだからオリヴァーにはそれ相応の仕返しをせねばなるまい。可愛い嫁を紹介したのがオリヴァーだったのはこの際どうでもいい。立場は向こうの方が上だがトーマスはオリヴァーを子どもの頃から見てきたのだ。息子達にはオリヴァーはまだ手強いだろうがトーマスにとってはそこまで恐れる相手ではない。
 さて、どうしてくれようか。
 あらゆる嫌がらせを考えていたトーマスはとあることを思いついて口を吊り上げた。マーナにはそれが食後のお茶に満足したように見えたらしい。
「もう一杯いかがですか?」
「ああ、頼もうか」
 お代わりを勧めるマーナにトーマスは上機嫌で頷いた。
 今日の空き時間にすることは決まった。年をとってきてから時間はゆったり使うくらいの方が好きだったが、たまには効率よく細々とした仕事をするのもいいだろう。
 今日の夜はきっと心地よい眠りが待っているはずだ。
 トーマスはお茶のお代わりで喉を潤しながら充実した一日の始まりを感じていた。
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