猫と毒草

モドル | モクジ

  舅と領主 後編  

「聞きましてよ、あなた。イオネが長期休暇を取っている理由」
 夜、書斎を訪れたデーナが開口一番にぶつけてきた言葉にオリヴァーは危うく書類を駄目にするところだった。
 入浴済みのデーナは昼間は結っている髪を背に流している。普段ならばその美しさを堪能するのだが今はそんな気分になれなかった。
「……聞いたのか」
「ええ。新しい香水を頼もうと思ったらいないんですもの。わたくし聞いてませんわ。イオネがいないことも、あなたがイオネにしたことも」
「言い忘れていたんだ。最近なかなか忙しくてね」
「あら、敢えて言わなかったのでしょう?都合の悪いことは隠しておきたいですものねえ」
 図星をつかれてオリヴァーは口ごもった。デーナの冷たい視線が肌にちくちく刺さる。だからデーナには知られたくなかったのだ。知ればこんなふうに文句や嫌味を言いに来るに決まっているから。普段はなんだかんだで楽しんでいる口げんかも今回は避けたかった。オリヴァーの分が悪過ぎる。一方的にやりこめられるのは目に見えていた。
 しかしデーナが知ってしまったことはもうどうしようもできない。
「……セバスチャンか」
 彼女が情報を得るとしたら出所は一つしかない。執事のセバスチャンだ。思えば、今日はやけに行動がぎこちなかった。目もなかなか合わないし、普段に比べたら顔を合わせている時間も短かった。あれはつまりこういうことだったのだ。
「ええ。最初は黙っていたけれど、わたくしが問い詰めたら諦めましてよ。主人に従順な執事で嬉しいわ」
「私の執事なんだが」
「いいえ、ロレンス家の執事ですわ」
 お間違えなく、とデーナが訂正する。それも正論なのでオリヴァーはまたもや口を閉ざしてしまう。こういう時は下手に反論してはならない。特にデーナが相手なら。
「でも、セバスチャンより先に教えてくれた方がいましたの」
「なに?」
 オリヴァーはデーナの言葉に目を細くした。それは聞き捨てならない。あの件は一応極秘扱いで、この屋敷ではオリヴァーとセバスチャン以外に詳細を知るものはいないはずだった。誰だと尋ねようとする前にデーナは思わせぶりな笑みを浮かべ、相手の名を出した。
「トーマス・ハワード議員が」
 こともあろうかルイス・ハワードの父親でイオネの義父にあたる人物の名前にオリヴァーのこめかみがぴくりと反応した。
「手紙を下さったの。イオネがしばらくの間留守にして申し訳ない。しかし今回は当然の措置だと思う。事情を知った老人はあまりに驚いて胸を痛める日々を送っている。二人が旅行から帰ってきた後はくれぐれも余計な手出しはせず、老人の平和な日々を乱さないようわたくしに一言頼みたい、と」
 何が老人だ、あのジジイ。
 オリヴァーは胸の中で吐き捨てた。トーマスが「ざまあ見ろ」と言わんばかりの表情で舌を出している顔が浮かぶ。なにが平和な日々を乱さないようにだ。そっちこそこちらの平和を乱しているじゃないか。本来ならばオリヴァー宛てにすればよかった手紙を敢えてデーナに送ったのは彼女が自分をやりこめてくれるだろうという意図に他ならない。現にデーナの顔には怒りが広がっている。
「手紙には詳しいことは書いてなくて。ただ、夫婦の危機がとあったからセバスチャンに話を聞きましたの。本っ当に呆れましたわ」
 呆れるどころか怒っているじゃないか、と言いたいオリヴァーだがここはぐっと堪える。できる限り余分なことを言わずにおけばこの時間を最小限で抑えられるだろう。ここはデーナからの一刻も早い解放を優先したい。
「しかし酷いことをなさいますのね。流石にイオネに同情しますわ。まさか新婚真っ最中に別の男のところに行けと非人道的なことをあなたから言われるとは思いませんものね」
 非人道的、のところを強調してデーナはオリヴァーを睨みつける。赤みがかった茶髪もあいまってかなりの迫力だ。
「あなたは二人とも欲しかったのでしょうけれど。二兎を追うものは一兎も獲ず。ああ、イオネは一応残ったのだから少し違うかしら。でもいい教訓ですわね。現状に満足できず分不相応の身で上を望むとどうなるか。子どもたちがもう少し大きくなったらしっかり言い聞かせなければ」
「それはやめてくれ。酷くないか、デーナ」
「あなたがしたことに比べればちっとも酷くありませんわよ」
 にっこりと綺麗な笑顔を浮かべるデーナ。憎らしいくらいに美しい。だからと言って自分の失敗を子どもの教訓に使われてはたまったものではない。それだけは何とか阻止しなければとオリヴァーはデーナに対するご機嫌取りに思考を巡らせる。どうやら後日なにかしら贈り物をした方が良さそうだ。予定外の出費だが仕方がない。かと言ってデーナが贈り物の一つや二つでオリヴァーを責めるネタを手放すわけがない。これは長期戦になる。
 今後のことを考えて渋面を作るオリヴァーを見てデーナは机の真正面にまで足を進めた。そしてオリヴァーの顔を覗き込む。
「少しは反省しまして?」
「大いに反省しているよ」
 それはそうでしょうね、とデーナは捨てるように呟いた。
「わたくしの夫が自分のしたこともわからない愚か者では困りますもの」
 デーナの言葉がぐさぐさとオリヴァーに刺さる。夫にこんな容赦ない仕打ちをするのはエンイストン中探してもデーナくらいのものではないのか。確かめる為に統計を取りはしないが。いや、それにしてもさっさと終わりにしてくれないだろうか。
 デーナは固まっているオリヴァーをじっと見ていたが、やがて首を傾げた。
「あなた、本当にもう一人の方も欲しかったのかしら?」
 オリヴァーは目を細める。デーナは華やかな外見と派手な散財からは考えられないが実は割と賢い。だからこそ投資で富を増やすといった実業家のようなこともできるのだが。
「それはね。薬学の分野に優秀な人材がもう少し欲しいと思っていたんだよ」
「やり方を考えるべきでしたわね。イオネとわざわざくっつけようとしなくても手に入れる方法はありましたでしょう?」
「一石二鳥だと思ったんだ。研究者を手に入れ、イオネも幸せになれるなら」
 デーナの視線が鋭くなる。オリヴァーは顔を背けたくなるが堪えた。そんなことをしたら彼女の怒りを煽るだけだ。しかし、これではまるで視線で串刺しにされてるみたいだ。
「あなた、気の合う資産家のご令嬢がいらしたら、ロレンス家にとって有益で自分も幸せになれるからといってわたくしと離婚するのかしら?」
 デーナは自分の身になって考えてみろと言いたいらしい。しかし彼女の出した例には無理がある。
「デーナ、あなたのご実家は大変な名家だということを忘れていないかな」
「わたくしの実家よりも上のお家柄ということです」
「あなたのご実家は由緒正しい名家である上に大富豪なのだが、その上をいく家柄など考えられないのだが」
 エンイストンで最も名が知れ、五指に入る大富豪がデーナの実家である。代々エンイストンの領主を務めてきたのはロレンス家だが彼女の実家を無視してエンイストンを治めることなどできない。そんな家が幾つもあるはずがない。あったらオリヴァーは今頃気疲れで骸骨のように干からびていたに違いない。
「まあ、褒めて下さってありがとう。ではわたくしの実家と同じくらい、ということにしましょう。それでいてあなたと気が合うご令嬢が現れたらあなたどうしまして?」
 実家が一目置かれていることに少し気を良くしたデーナだったが、なお仮定の話を続けようとする。非現実的な状況設定であるのは彼女も理解しているはず。それでもオリヴァーに答えさせたいのだろう。厄介な奥方だ。オリヴァーは今この瞬間に子どもたちが母親を探しにやってこないだろうかと願わずにはいられない。
「どうにもしないに決まっているだろう?友人が増えるだけだ」
「あら、でもその方と一緒になればあなたは幸せになれるのに。わたくしに義理立てする必要はなくてよ」
「それはあなたが決めることではない」
 自然と語気が強くなった。オリヴァーの妻は後にも先にもデーナだけだ。愛人も必要ない。そこには家同士の繋がりや自身の立場といった様々なしがらみがある。だがそれを義理や義務だと考えたことはない。多少は面倒なこともあるが、都合の悪いものはない。少なくともオリヴァーはそう思っている。
 デーナは一瞬顔を強張らせたが、両手を腰に当てて胸を張った。
「そうね、その通りですわ。だったらあなたがイオネに口出しするのは尚更おかしいでしょう。よくわかって?」
「手厳しいな」
 デーナの言い分は筋が通っていて反論できそうにない。少なくとも、今日のところは。
 オリヴァーが自ら立場の弱さを見せるとデーナは気の強い笑みを浮かべた。
「わたくしが言わなければ他の者は何も言わないでしょう?だからわたくしあなたに遠慮はしなくてよ」
 それはどうだろうかとオリヴァーは思う。セバスチャンはオリヴァーを放っているようでいざという時には色々と手回しをして邪魔をしてくれるし、イオネも容赦のない言葉を刺すことがある。デーナは言うまでもない。皆が蔑ろにしてくる、と拗ねはしないが、身近な人々はもう少し優しく接してくれてもいいのではないか。そんなことを薄らと考えているとデーナはこれ見よがしにため息をついた。
「将来、あなたのせいで子どもたちがいじめられるようになったら大変ですもの」
「……デーナ」
 それは言い過ぎだ。子どもに影響するような迷惑なことはしていない――と思う。そう言おうとするが先に口を切ったのはデーナだった。 
「そうそう。あなたには今回のことを心から反省していただかなければ。と言うわけで、これから三ヶ月、誰の縁談にも関わらないで下さいませ」
 オリヴァーの中でパリンと何かが割れる音がした。
 思わず立ち上がったオリヴァーだが言葉が出ない。聞き間違いであって欲しい。冗談だろうと窺うようにデーナに視線を注ぐが、彼女は憎らしいくらいに美しい笑顔を見せた。
「話を持ちかけるのは勿論、リサーチも禁止ですわよ。少しでも不穏な動きを見せたらわたくし達家族とセバスチャンを除いた一切の他人との接触を断つことになると心得ておきますよう」
「いや、それでは仕事が……」
「仕事は別です。でも取次ぎ等、全てセバスチャンに任せますから。それがどういう意味かおわかりでしょう?」
 わかる。わからないはずがない。仕事関係、家族、セバスチャン以外の人間と関わりがなくなれば新たな縁談を考える相手が見つからなくなるということだ。デーナはささやかな楽しみさえ完全に奪おうとしている。なんて恐ろしい妻だろう。オリヴァーにとっては間違いなく脅威だ。そして、今日のオリヴァーはデーナには逆らえない。
 あのジジイ!!
 胸中で本日二度目の叫びを上げる。
 目の前のデーナはフフフと軽やかな笑い声を漏らした。その動作が普段よりも軽やかに見えるのはきっと気のせいではない。
「悪いことはするものではありませんわね」
 オリヴァーはがっくりとうなだれる。
 デーナの言葉にトーマスの「ざまあみろ」と言う声が重なった気がした。



 数日後。

「オリヴァー様、これささやかなものですがお土産です。って、あら?」
 長期休暇から帰ってきたイオネがオリヴァーの執務室を訪れた。久しぶりに顔を合わせた彼女はとても幸せそうでオリヴァーの目には眩しいくらいだ。そんな彼女が目を丸くするのでどうかしただろうかと疑問を抱く。
「オリヴァー様、やつれましたね。なにか大変なことでもあったんですか」
 イオネはまじまじとオリヴァーを見ている。自分では気づかなかったが薬師の彼女が言うのだからきっとやつれたのだろう。心当たりなら充分にある。それのお陰でここ数日はストレスが溜まりっぱなしだ。
「ああ、あったよ。とても大変なことがね」
 それはもう。オリヴァーのライフワークを禁じられたのだから。大変どころの話ではない。
 オリヴァーはフッと遠い目を窓の外に向けた。ここからそう遠くない位置に見える議員集会所を視界に収めてトーマス・ハワードの顔を思い浮かべる。
 このままで済むと思うなよ。
 絶対に仕返ししてやると固く胸に誓いながらオリヴァーは今日も一日を過ごして行くのだった。
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