旅立った翼

モクジ
 昔から、物事を深く考えるのはあまり得意ではなかった。
 基本的に直感で動いて、時々それで後悔することもあったけれど、なんだかんだいってそれが悪いとは思わなかった。
 その日の気分で服を選んだり、髪型を変えたり。
 その時にいいと思えばそれで決まり。竹本真也のそのスタイルは恋愛に関しても同様だった。
 結果、彼自身も意外なことに、大学を卒業しない内に結婚し、子どもが生まれた。
 真也は全く後悔していない。ただ、驚いた。一応、結婚は社会人になってからだろうと思っていただけに、人生のイベントがかなりのスピードで前倒しになったことに少なからず呆気に取られた。それでも幸せなことに変わりはなく、こちらも幸運なことに地元企業への就職が早めに決まった。
 来年からは妻と子どもを養っていける。そんな安心感に包まれながら、時々他の同級生のことを考えた。まだまだ自由に恋愛ができて、縛られるものが少ない彼らが少し眩しく感じるのも確かだった。



 幼馴染みの越野美奈子が帰省していると聞いたのは大学が夏休みに入ってしばらくした朝のことだった。
「へえ、珍しいな」
 母の香苗から教えてもらった情報に真也は味噌汁をすすりながら相づちを打った。美奈子は小学生の頃からつきあいのある友達だ。絵が上手くて、これまでにも数々の賞を取ってきた。高校までは一緒だったが、大学は流石に離れた。美奈子は芸術科のある大学を選んでいた。隣の県なら地元にも頻繁に顔を出すだろうと予想していたのに、なかなか忙しいらしく美奈子はほとんど帰省しなかった。
「美奈子って、絵の?」
 隣で食事をしていたあゆみが顔を上げる。先月出産したばかりのあゆみは現在休学中。しかし必要な単位はほとんど取ってあるから、後期はしっかり出て卒業する方向で考えている。
 基本的に大学の共通の友人が多いために、普段出てくる名前は二人がよく知るものばかりだ。けれど、美奈子に関しては家族の間で時々出ていた。それに、ついこの間結婚祝いだと絵を送ってきた。鳥が空に羽ばたく絵はあゆみを始めとする家族の間でとても評判がいい。
「そう。この間越野さんのところに行ったらね、丁度いたもんだから顔見せてくれたのよ。綺麗になったわねー。就職も決まったらしくてね。越野さんも喜んでたわ」
 娘のいない香苗は美奈子のことをとても可愛がっている。真也の結婚式が終わった後に「今度は美奈子ちゃんの番ね」と一人意気込んでいた。美奈子の母よりも浮かれているのを見て苦い思いをしたことを覚えている。それでも最近はあゆみという娘ができ、初孫の誕生に喜び、美奈子のことを忘れていたように見えたのだが、表に現れていないだけだったらしい。
「ふーん、よかったね。私の友達、まだ何人か就職決まらなくて困ってるからなあ。やっぱり女の子だと大変みたい」
「なんとか決まるといいな。そしたらみんなで就職祝いでぱーっとやろうぜ」
「いいね。あ、でも光が心配だから遅くまでは無理かな」
「あら、光なら私が見るわよ。あゆみちゃんもたまには楽しめばいいのよ」
 遠慮することないと言う香苗に、あゆみは礼を返しながら複雑な顔をした。
「でも、多分まだ先の話になると思うから」
 真也も同じことを思った。就職が決まらないのはあゆみの友達だけではない。真也の友達にもいる。働きたいのになかなか働けない。厳しい時代だ。そんな中でなんとか内定を取れた自分は幸運だったと自覚している。それから、美奈子も。
 久しぶりに顔が見たい。
 そう思ったのは自然な流れだった。



 真也の方から美奈子を訪ねようか、その前に連絡を取ろうか。
 真也にしては珍しく迷っていた。幼馴染みなのだから気軽に会ってもいいような気がする。けれど、結婚式の時に見た美奈子は記憶の中の彼女より随分大人びていた。派手さはないが、清楚な綺麗さを感じて驚いた。あれ以来、美奈子には会っていない。
 絵が送られてきた時だって突然だった。結婚式の前に連絡を取った時、冗談半分で祝儀をもらうなら美奈子の絵がいいと言ったのだが、彼女はそれを本当に実行した。
 その絵は今、リビングに飾ってある。家族全員が気に入ったのだから、みんなが見られる場所にしようと言ったのはあゆみだった。香苗はそれに大賛成だったし、父も喜んでいた。
 でも、と真也はソファに座りながら絵を眺める。
 光の方へ飛び立つ鳥がどことなく寂しい。
 あゆみは希望に溢れていると言った。
 だが真也はそうは思えなかった。自分が取り残されていくような、そんな気分になる。ただその意見を口に出したことはない。みんながいいと言う中でそれを口にするのは憚られたし、美奈子に対しても失礼だと思った。真也の受け取り方はどうであれ、絵として綺麗でしっかり描かれていることに変わりはない。そこに美奈子の労力を感じれば、文句をつけるなんてできるはずもなかった。昔から絵にひたむきだった美奈子の変わらない一面がここにあるような気がした。
 ふと、右の脇腹に強くない感触が当たる。
 視線を下ろせば、一ヶ月になったばかりの息子の光が仰向けのまま小さな手を一生懸命振っていた。それが真也に当たったのだった。さっきまで寝ていたと思ったのに、もう目が覚めたらしい。真也は光を抱きかかえる。
「なんだ、もう起きたのか?」
 顔を覗き込めばつぶらな瞳が輝いている。
 赤ん坊ときたら夜泣きはうるさいし、何から何まで世話をしてやらなければいけなくてうんざりすることも多いのに、無垢な表情は人を惹きつけてやまない。親バカというのもあるだろうが、かわいくてかわいくてたまらない。結局、どんなに手を焼いても許せてしまうのだからすごいと思う。
「お前も早く歩けるようになって、友達ができるといいなー」
 まだハイハイもできない光だが、赤ん坊の成長はとても早いと香苗は言う。その目まぐるしい成長を一瞬でも見逃さないようにしたい。心からそう思う。
 すっかり馴染んだ体温だが流石に夏場は暑い。それでも離したくなくて真也は光の頭を撫でる。きゃっきゃっと喜ぶ息子をとろけるような気持ちで見ているとピンポーンと音が鳴った。
 インターホンに反応して出て行くと、美奈子が立っていた。真也は不意打ちをくらったような顔になる。
「ああ、真也。久しぶり」
「だな。元気そう……って言いたいけど、白いな」
「これでも焼けた方だよ。実際、なかなか外には出ないんだけどね。でも、一昨日家族で温泉行ってきたんだ。これ、お土産。家族で食べて」
 美奈子が温泉の名所の地名が入った紙袋を玄関に置く。中に入っている箱からして饅頭かなにかだろう。食べ物だから後で忘れないようにしないとと頭に留める。
 半年ぶりくらいに会う美奈子はワンピースにカーディガンという涼しげな装いに、アップにした長い髪が妙に女らしい。白いうなじが見えているのがいけないのか。でも視線を外すのも惜しいような気がして、結局真也はじっと見てしまう。しかし、美奈子の視線は真也の腕の中の光に注がれていた。
「その子が、真也の?」
「おう。光。男だよ」
 ほら、と膝を軽く折って美奈子に光の顔を見せる。覗き込んだ美奈子の表情が一気に柔らかくなった。
「わあ、可愛いなあ。真也の子どもとは思えない!」
「おいおい」
「お母さんに似て良かったねー」
 美奈子はにこにこしながら光の頬にそっと触れている。
 本人はとても楽しそうだが、真也としてはちょっと待てと言いたいところだ。鼻や口元なんかは結構真也に似ていると評判なのになんて言いようだ。確かに、眉や目なんかはあゆみにそっくりだと誰もが揃って言うのだが。
「俺に似ちゃ悪いのかよ」
「んー、だって、どうせならお母さんの方に似たいよねー。ねー?光君」
 機嫌よく光に話しかけながら美奈子は光の頭をなでた。その手の薬指にあるものを見つけて真也は軽く目を瞠る。
 指輪。
 美奈子が?
 途端に美奈子が遠い存在のように思えた。そういう相手がいてもおかしくないのに真也は一度も考えたことがなかった。美奈子のことを思い出す時、いつも真也の頭にあったのは彼女がどんな絵を描いているのか、絵のことで悩んでいないか、そんなことばかりだった。美奈子だって同い年の、普通の女なのに。
 指輪といい、今日の美奈子の格好といい、急に女らしさを感じて真也は戸惑った。大学に入ってバラバラになるまでは、互いの顔が見える程度に生活してきたのに。
 聞くこともできた。けれども、なんとなく話題にするのを躊躇った。その代わりに、真也は結婚祝いのことを口に出す。
「そうそう、絵、ありがとな」
「ああ、あれ。安上がりなお祝いでごめんね」
「いや、うちの家族みんなすげー気に入ってる。リビングに飾ってあるくらい」
「それはちょっと恥ずかしいな。そこまでしてもらえるほどのものじゃないよ」
 美奈子は困ったように笑う。今リビングに上がれと言ったら嫌がるかもしれない。しかし玄関で長話もなんだ。そう真也が考えていると、美奈子は「じゃあまたね」と背を向けた。
「おい、もう帰るのかよ」
「んー?お土産届けにきただけだもの」
「もうちょっとゆっくりしていけばいいじゃないか」
「そう?でも今日はちょっとやりたいことがあるから。また今度にさせてもらうよ」
 予定を変える気のない美奈子に真也はそれならと充を抱いたまま玄関を降りてサンダルを足につっかける。
「真也?」
「美奈子んちまで送る」
 それを聞いた美奈子が驚いたのも無理はなかった。
「三件しか離れてないのに?」
「いいだろ。もう少し話したいし」
「うん、それなら」
 美奈子は頷いて玄関を開けた。それに続いて真也も家を出る。どうせそんなに離れていないし、鍵をかけるのは面倒くさいのでやめた。家に誰も残らないと美奈子が知ったならきっと顔を顰めるだろう。
「就職、決まったんだって?」
 歩き始めたところで真也は朝聞いたばかりの情報を取り出した。
「うん。おかげさまでね。向こうの小さなデザイン事務所なんだけど。真也も決まったんだってね。おめでとう」
「おう。俺も美奈子もちゃんと決まって良かったよな」
「本当にね。就職なんてなかなかうまくいかないもんね」
 運が良かった、と美奈子は呟いた。
「後はちゃんと卒業しないとな。卒論やってる?」
「私達は卒業制作。結構大きいのを作らなきゃいけないんだ。今、構想中。多分ちゃんとした絵を描くのはしばらくなさそうだから気合い入れてやるつもり」
 美奈子が描くことから離れるのは想像できない。真也の中には描かない美奈子が存在していないからだ。デザイン事務所なら美術と無縁ではない。しかし、本来の美奈子の姿はそこには無いようで物足りなさを覚える。
「絵を続ける道にはいかないのか?」
「趣味で細々と続けていけたらいいよ。私、身近な人達から『いいね』って言ってもらえればそれで満足だし。それに画家なんて大変でしょ。普通に生きたいな」
 そんなものだろうか。
 幼馴染みの贔屓目かもしれないが、美奈子の絵はプロになっても通じると思う。多くの支持者も生まれると思うのに。けれども当の美奈子がそれに頓着しないのなら言ったところで仕方がない。家族や恋人ならともかく幼馴染みの真也にはそれを言う資格すらないのだから。
 またほんの少し美奈子が遠くなった気がして真也は戸惑った。
 小中高と長い年月を共に過ごしてきたのに、どうしてこんなに遠く感じるのだろうか。今、美奈子は隣にいるのに。
 しんみりしたところにバイクの音が近づいてくる。この辺ではあまりバイクに乗る人間はいない。慣れない音に光がびっくりして泣き出さないかと不安になるが光はなんだろうと言うようにきょとんとしているだけだ。
「うるさいね」
 美奈子が迷惑そうに顔を顰めるがバイクの音は近づくばかり。やがて、車体が姿を現して真也と美奈子の方にやってきた。避けた方がいいかと真也が心配したところでバイクは止まった。美奈子の家の前だ。乗っているのはその体つきから若い男だと察したがすぐにヘルメットを取って現れたのは大学生くらいの青年だった。
 少し目が細い。けれどもこちらを見て人懐っこい笑顔を浮かべると手を振ってきた。
「み〜なっこさん!!」
「充君……」
 隣を見れば美奈子が驚いた顔をしている。どうやら二人は知り合いであるらしい。
 青年はバイクを降りると美奈子の前までやってきた。
「一週間ぶり。走りついでに来ちゃった」
「ついでって……」
「その話は後にしよ。俺のこと紹介してくれないの?」
 視線が真也の方に向けられる。仕方ない、というように美奈子が苦笑して体の向きを変えた。
「真也。この人が、えーと、彼氏、です」
「どもー。崎谷充です」
「あ、どうも。竹本真也です」
 さっきから気になっていた美奈子の恋人の正体とその明るく軽いノリに面食らいながら真也は自己紹介をする。
「話は聞いてます。美奈子さんが絵を贈った人でしょ。俺、あの絵見せてもらったから」
「そう。美奈子とはどれくらい?」
「それはナイショで。でも付き合い自体はそれなりに長いかな。同じサークルなんですよ。俺が入った時から美奈子さんに面倒みてもらってたんです。あ、でも長さでいったら竹本さんにはかなわないな」
「幼馴染だからな。年数だけは長いよ」
「妬けるな」
 一見軽く見えるが肝心のところは口は割らない。いい加減なタイプではなさそうなことに真也は安心するが、笑顔の「妬ける」発言は反応に困った。笑って軽さを装っているもののその実それが本心であることが伝わってきた。充は真也のことをよく思っていない。一瞬でそれが伝わった。幼馴染みというだけで?
 戸惑う真也に、見かねた美奈子が黙っていた口を開いた。
「充君、初対面の人間を困らせるようなことしない」
「ごめん、美奈子さん。ついうっかり。竹本さんもごめん」
 あっけらかんとした笑顔で謝る充に真也は「ああ」と拍子抜けした返事をする。
「充君、バイクうちの庭に入れようか。お母さんいるけど寄ってく?」
「もちろん寄ってくに決まってるよ。この間初めて会った時には緊張したけど、いい人だったし。俺も気に入ってもらえるように頑張らないとね」
「そんなこと気にしなくてもいいよ」
 ほら、バイク入れて。美奈子が充の背を押す。充はバイクを美奈子の家の庭に移動させる。その間に美奈子は真也の方をもう一度振り返った。
「ごめんね。騒がしくて。そういうわけだから」
「おう。俺は帰るとするよ。あまりいると彼氏に嫌われそうだし」
「いい人なんだけどね」
 美奈子も否定しきれないのか苦笑を返す。けれどそこには微塵も嫌がるような様子は見えない。
「もし、困ったことがあったら相談しろよ」
「うん。ありがとう。じゃあね、真也」
 美奈子は踵を返して充の待つ庭に入って行った。塀の向こうで並んだ二人の空気は意外と自然でそのことに安堵しつつ寂しい気持ちが過ぎる。
 もう、彼女は真也の知っている美奈子ではない。
 そのことに確信を持ってしまった。
「……暑いし、帰るか」
 そう光に話しかけながら家への短い道を戻り始めた。
 家に入ったらリビングではなく自分の部屋に行こう。今、あの絵を見たら寂しさに支配されてしまいそうだ。飛び立つ鳥が知らない美奈子と重なってどうしようもない気分になる。
 真也は変に感傷的になってしまった気分を振り払うように光を抱き直した。熱いくらいの体温が近くなる。それにひどくホッとした。 
モクジ
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