そして鳥は辿り着く

モドル | モクジ

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 久しぶりに顔を合わせた講義で白井は充の顔を見るなり閉口した。
「お前、すげー顔」
「あっそ」
 返す言葉も素っ気ない。
 充も感じが悪いのはわかっていたがバイトでもないのに誰かに愛想よくすることに限界がきていた。
「ここんとこサークルにも来ないだろ。みんな待ってるぞ、お前が来るの」
「もうしばらく行かないかも。なんか気が向かない」
 美奈子と会えなくなってから充はめっきりサークルから足が遠のいていた。もう二週間になる。そう、二週間だ。
 美奈子と約束した期間が過ぎようとしている。相変わらず美奈子とは毎日メールをしているし、時々電話もしているが、「なかなか上手く行かなくて……」と本人も困った様子だ。そんな美奈子を責めることなんてできないし、かと言って充が手伝うこともできない。もどかしさに美奈子に会えないストレスが加わって自分でも手がつけられなくなりつつある。そんな充が美奈子のいないサークルに行く気にならないのは当然だった。
 充と美奈子のことを噂に聞いていた白井は納得しつつ、頬杖をついた。
「ま、俺としてはお前がいない方が後輩の気をひけていいんだけどさ。流石に今のお前にはちょっと同情したくなるよな」
「お前の同情なんていらない」
「見事な忠犬っぷりだよな。お預け期間が長すぎるんじゃねーの?」
「うるさいな」
 あっちいけ、と手で示すと白井は「つれねーな」と言いながら充の横に腰を下ろした。そしてテキストやレジュメを取り出している。これは何を言っても動かないだろうと充は諦める。元々、白井にそんなに構ってられない。
「美奈子さんに会いたいなあ……」
「会えばいいじゃないか。つきあってんだろ。何が悪いよ。何も悪くねーだろ」
 思わず口から出た言葉に白井がしれっと言い返す。その内容に充の気分が少し暗くなった。
 本当に彼女だったらな。
 そう思ったが、それはすぐに頭の中から消した。美奈子が本当に彼女だったとしても、多分充は今と同じように約束を守って会わないでいるだろう。彼女にとって今がどれだけ大事な時かわかっているから。それに気づかない振りをして自分の願いだけを叶えようとするほど愚かでもなかった。
 早く会いたい。
 もう何十回、何百回と繰り返した呟きを胸の中に響かせる。
 願いが叶ったのは、それから三日後のことだった。



 会いたいという美奈子からの電話に応じて、呼び出されたのは芸術科が入っている棟の前だった。
 待ち合わせに指定したベンチに座っていた美奈子は充を見つけると微笑んで腰を上げた。実に半月ぶりに会う姿に充は駆け足になる。
 声だけじゃ足りない。メールだけでも足りない。傍にいてくれないともう物足りない。
「来てくれてありがとう」
「久しぶりに美奈子さんに会えるっていうのに、来ないわけないよ。どうせ空き時間だったんだし」
「うん。知ってたよ」
 講義中に電話したら悪いもの。
 そう言って美奈子は「こっち」と歩き出した。
「どこに行くの?」
「アトリエ。大丈夫。誰もいないから」
 美奈子の後について足を踏み入れたことのない校舎に入っていく。入ったフロアからして、既に他の校舎には見られない芸術作品が至るところに飾られている。ちょっとした美術館みたいだと充は次々と視界に入る絵や置物に感心した。
 やがて、独特のにおいが鼻につきだした。充にわかったのは絵の具くらいだった。他にもいろいろあるようだけれど、後はわからない。時々美奈子からするにおいでもある。ただ、濃さが全く違った。
 美奈子には全く気にした様子もない。当たり前だ。彼女にとってはここが中心なのだから。
「ここ」
 美奈子が廊下の突き当たりの部屋のドアを開けた。入るように促されて、充も足を踏み入れる。絵の具のにおいがいっそう強くなった。部屋の半分は雑然としているが、もう半分のところで布のかかった二つの絵が画架にかけられていた。絵をかける木の台の名前は確かイーゼルだったと思い出す。以前美奈子から教えてもらったことだった。他の人から聞いたのならきっと忘れていた。美奈子に関することへの記憶力の高さは自分でも呆れてしまう。
 充は美奈子に招かれて絵の前まで進んだ。
「やっと描けたの」
「よかった。期限は間に合った?」
「ギリギリね。充君のお陰だよ」
 美奈子は笑いながら布を取り外した。一つは鳥が木から羽ばたいている絵、もう一つは鳥が木に止まっている絵だった。一辺が三十センチくらいで大きくないとはいえ、細かいところまで描きこまれていた。
 これが美奈子が苦労して完成させた作品なんだと思うと急に感慨深くなった。まじまじと二つの作品を見つめていく内にふと気になった。
「同じ鳥?」
「うん。スズメ。ありふれた鳥がいいと思って」
「でも木は違うよね。名前はわからないけど」
 気づいたことを言うと、美奈子が頷いた。
「うん。私も木の名前はよく知らないけど、違うものでないと意味がないから」
 美奈子の視線は鳥が飛び立っている方の絵に注がれる。木の緑の深さに比べて太陽の光が眩しかった。スズメは太陽に向かって羽ばたいているようだった。
「これはね、課題で出した後に人にあげるの。そのつもりで描いたの。結婚祝いには私の絵が欲しいって言ってたから」
 充には誰のことを言っているのかすぐにわかった。美奈子が十年以上片想いをしてきた幼馴染みのことだ。美奈子と一緒にいる時間が増えてから話に上がることは一度もなかった。充は敢えて触れることもないと思っていたし、美奈子も充に悪いと思っていたのかもしれない。それだけに、今ここでその存在に触れられたことが痛かった。
 しかし、美奈子はとても穏やかな顔をしていた。
「これで最後。もうあいつの為に絵は描かない」
「え?」
 美奈子はそのまま視線をもう一つの絵に移す。鳥が木に止まっている絵だ。一枚目と比べて暗さや眩しさはない。全体的に明るくて、温かい光に包まれていた。スズメは一匹しかいないのに誰かが傍にいるような優しさがそこにはあった。
「でね、これ。こっちは充君にもらって欲しい」
「俺?」
「そう。……わかるかな?充君のこと考えて描いたの」
 これ、課題でもなんでもないのよ。
 美奈子は苦笑した。
「時間がかかったのは二つ描いたからなの。でも、これは二つで一つだから。今仕上げなかったら意味がなくて」 
 二つで一つだという絵。スズメが飛び立つ絵ではなく、木に止まっている方の絵を充にと美奈子が言う意味は。
 羽ばたいている方が美奈子の幼馴染みだとしたら、充は。
 思考の行き着いた答えに心臓が大きな動悸を打った。
 合っているのか不安になりながら、それでも期待を隠しきれずに美奈子を見つめる。
「スズメは美奈子さん?」
 間違っていたらどうしよう。恐れながら聞いた充に、美奈子は嬉しそうに頷いた。
「私の気持ち、ね。待たせてごめんなさい。でもやっと辿り着いたから」
 スズメが美奈子の気持ちだと言うのならば、木は充と美奈子の幼馴染みだった。美奈子の心は幼馴染みのもとを離れ、充のもとにやってきた。期待通りの答えに充は前のめりになる。
「それって、俺のこと……」
「好き。充君のこと、好きだよ」
 一番、という小さな声を聞いた瞬間、抑えられなくなって充は美奈子の体を抱きしめた。美奈子も充の背に腕を回した。
 ああ、美奈子がいる。
 体だけじゃなくて、心もちゃんとここにある。
 充のことを好きだとやっと言ってくれた。溢れ出す幸福感に目頭が熱くなっていく。
「これ、受け取ってくれる?」
「勿論。返せって言っても絶対に返さないから」
「本当に?」
「うん、本当に」
 やっと手に入ったんだ。そんな簡単に離してたまるか。
 美奈子が本当の恋人になる日はもっと先だと思っていた。それなのに。
「やべ、どうしよ。俺、嬉しい」
「私も」
 美奈子の同意に充の目から涙が溢れた。
 どうしよう。彼女が同じ想いを返してくれるだけで、こんなに嬉しくてたまらないなんて。
 美奈子の片方の手が充の頭に触れた。
「待っていてくれてありがとう」
 確かに待った。でもそんなことはもうどうでもいい。
「俺のこと、好きになってくれてありがとう」
 もうそれだけで死にそうなくらい幸せだ。



 美奈子が課題を提出するのを見届けた後、充はそのまま次の講義までの時間を美奈子と過ごしていた。待ち合わせ場所のベンチに美奈子と手を繋ぎながら、もう片方の手で新聞紙に包まれた絵を大事に抱えている。本当はこのまま美奈子と一緒に帰ってしまいたいけれど、充があと一つ講義が残っていることを知る美奈子にだめだと叱られた。駄々をこねてみたけれどやはりだめだった。ただ、美奈子が充の家で待っていてくれると約束してくれたから仕方ないと妥協した。
 そんなやりとりの後、美奈子は穏やかな表情で語りだした。
「ずっとあいつの為に絵を描いてきたの。だからショックで絵が描けなくなった時、ほとんど諦めてた。理由がなくなっちゃったんだもの。もう描けないだろうって。それも仕方ないって。でも、あいつの結婚式の時から充君、ずっと傍にいてくれたでしょ?充君と一緒にいるとすごく優しい気持ちになれるの。自然体でいられるのも嬉しかった。私、あいつの前ではちょっとかっこつけてたところがあったし。かっこいい自分、価値のある自分でいたかったの。でも充君にはそんなこと考えなくてよかった。あ、意識してないって意味じゃないよ?ありのままの私を充君が受け入れてくれたから、普通の私でもいいんだって思えたの。何より、私の気持ちが定まるまでずっと辛抱強く待っててくれたから。ものすごく悪かったと思ってるの。でも、中途半端な気持ちだけは嫌だった。それじゃ充君に申し訳ないもの。最初はね、頑張って充君のこと好きになろうとした時もあった。でもね、そんなこと必要なかったの。充君と一緒にいれば、もうどんどん気持ちが充君の方に向かっていくんだもの。あいつのことを段々考えなくなって、気がついたら充君のことばかり考えてた。そしたらね、今度は充君の為に描きたいと思うようになったの。描けたらいいなって。試してみたら本当に描けたから嬉しくなった。それで、自分の気持ちにちゃんと決着をつけたくなった。今回の課題は丁度よかったの。鳥をテーマに、ってことだったんだけど、私の気持ちが丁度住処の定まらない鳥のようだったから。自分の想いを重ねて描こうと思ったの。うまくできるか不安だった。でも、描けたよ。いつも充君の気持ちが傍にあったから、辛くなかった。それでもっと充君の存在が大きくなって、描き終えた時、やっとこれで伝えられるって思ったの」
 無言で聞いていた充は繋いだ美奈子の手に力をこめる。彼女の想いが真っ直ぐ自分に向けられている。それを確かに感じられる。
 絵を描いている時も充のことを考えていた。充の想いを感じていた。そんなふうに言ってもらえるなんて思いもしなくて、顔が熱くなる。顔を隠そうにも両手は塞がれている。けれどもそんなことより今は美奈子の顔を見ていたくて、結局そのままだ。
「もっと早く言ってくれても良かったのに」
「ごめんね。でも、きっちりしたかったの。区切りをつけたかったっていうか。その方が充君も安心できるかなって」
 でもそれって自己満足だった?
 不安そうに尋ねられれば、充の胸は即座に反応してしまう。
 ああ、もうだめだ。
「美奈子さん、俺を喜ばせすぎて殺す気?なんかもう、そんなこと言われると俺、嬉しくて必死で止めてる抑えが外れそうなんだけど」
 顔を寄せると、美奈子は少し横に引いた。
「そんなこと言われても」
 困った顔も可愛いいと思う。
 重症だ。でも美奈子への恋の病なら一生治らなくていいと充は思う。
「やっぱりこのまま美奈子さんと一緒に帰りたい」
「だめだって。その話はさっきしたでしょ?」
 確かにそうだ。でも。
「俺達、半月以上会ってないんだよ?」
「電話もメールもしてたのに」
「それだけじゃ足りない。俺、すごく我慢してたんだよ。本当は特攻したいくらいだったけど、美奈子さんの邪魔になりたくないから今日までひたすら耐えてたの。ただでさえそうなのに、美奈子さんからいろいろ嬉しいこと聞けて、普通でいろっていう方がムリ」
「いや、それは私も会いたかったけど」
 やっぱりだめ、と美奈子は強い口調で言う。
「やるべきことはちゃんとやろう?講義は出なきゃだめだよ。さっきの約束通り、私、待ってるから。ね?」
 まるで子どもに言い聞かせているみたいだ。それでも充は決して腹を立てない。立てるはずない。
 正直、美奈子を自分の我が儘で困らせるのも楽しい。特に今は、美奈子と一緒にいたい気持ちが強すぎるから、このまま押し切ってしまいたいと思う。でも、ここで美奈子をがっかりさせるのは嫌だ。もう一授業我慢すれば、美奈子はきっと笑顔で充を迎えてくれる。それを捨てるのは愚かだ。だから充は妥協する。
「わかったよ」
 素直に答えれば、美奈子はホッとした表情を見せる。充は困った顔も悪くないけれどやっぱりこっちの顔が好きだと再認識する。我が儘を引っ込めて正解だ。
 やっぱり彼女が一番だ。
 美奈子のことが好きで好きで愛おしくてたまらない。
「好きだよ、美奈子さん」
 充がこみ上がる想いを口に出すと、美奈子は真っ赤になった。
「そ、そんな、外でそんなこと」
 さっきは美奈子だって同じようなことを言ったのに、室内と外では違うらしい。今だって、周りに人はいないのに。それなのに見えない場所でこの会話を聞いているかもしれない誰かのことを気にする美奈子の慌て振りが普段の彼女らしくなくて面白くなる。
 もっといろいろな顔を見せて欲しい。
 他の誰も知らない越野美奈子を充だけに教えて欲しい。
 先のことなんてわからないけど。
 十年後、二十年後、ずっと先の五十年後でも。
 美奈子の隣に自分がいればいいと思う。
 その為には彼女が悩んだ末に辿り着いた場所が間違いだったと思う日が来ないように頑張るしかない。
 でもそういう努力だったらいくらでも惜しまない。
 これが二人の人生最後の恋になるように。
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