そして鳥は辿り着く

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 せっかくのゴールデンウィークなのに充の予定はほとんど居酒屋のバイトで埋まっている。元々、美奈子の就職活動と重なっていたから遠出できないことはわかっていて、一日空きをもらっただけだった。けれどここにきて美奈子が作品制作の為に全く会えないときた。この空いた一日をどうしたらいいものか。ただでさえ昼間は暇を持て余している。ダラダラ寝てみたり、DVDを借りてきて見たりしているものの、それもすぐに飽きてしまった。こんな時に限って課題もないとは一体どういうことだろう。
 メールは朝と夜と決めていた。朝食を済ませた後と、バイトから帰ってきて寝る前。その時間なら美奈子もつきあってくれる。それでも朝はできるだけ短く終わることを心掛ける。夜も夜で文面から彼女の調子を察して、疲れているようだったら早めに切り上げた。電話はほとんどしていない。声を聞いたら今すぐにでも会いたい気持ちを抑えることができなくなりそうだった。
 もう一週間も顔を合わせていない。声も聞いていない。
 以前は普通に過ごしていたことが我慢できなくなっている。彼女との距離が縮まったからだ。以前よりずっと近くなったから、もう前には戻れない。けれど我慢しないといけない。それでもこの状況を受け入れているのは他でもない美奈子の為だった。彼女にとって今がどれだけ大切な時期か、集中できなければ困るかわかっている。わかっていながら邪魔するようなことはできない。でも会いたくてたまらない。そんなジレンマが続いている。
 前はこんなんじゃなかったのに。
 あの頃に戻りたいわけじゃない。既に懐かしい日々だ。
 特に二年前――美奈子と初めて会った日のことは今でもはっきりと思い出せる。



 四月末に開かれたサークルの新歓コンパで新入生達は酒の洗礼を受けていた。充も例に漏れなかったが、楽しさも緊張感もなく、目前の問題にどっぷりつかっていた。
 大学に入ったばかりの時には彼女がいた。高三からつきあって半年。告白したのは充からで、なかなかうまくいっていたと思う。特に大きな波もなく、受験も一緒に乗り越えたけれど卒業式が終わった後から意見の食い違いが起きるようになった。原因は二人の進学先が離れていたことだった。
 県は違うけれど、そんなに遠くもないから遠距離恋愛でも続けていける。充はそう思ったけれど彼女はそうではなかった。頻繁に会えない状態で関係を続けるのは難しいと言った。その度に大丈夫だと不安を払うように返してきたけれど、彼女の気持ちは少しずつ離れていった。
 大学生活が始まってそれはもっと顕著になった。
 最初の内はちゃんと返ってきたメールも次第に途切れ途切れになり、電話に出ないことも増えていった。やっと声を聞けたと思えば、疲れたような、面倒くさそうな彼女の声に打ちのめされることもあった。
 それでも充はまだ彼女とつきあっていたいと思ったし、綻びを修復しようと必死だった。新生活に慣れることよりもそちらの方ばかりに気が行っていた。実際、あの頃は新しい友人を作る余裕もなく、授業で隣に座った顔と適当に行動を共にするくらいだった。けれどそのつきあいで気がついたらサークルに入っていた。
 無理矢理新歓コンパに連れてかれたものの、気分転換なんて到底できず、むしろ悪酔いしてしまってどんどん気が沈む一方だった。周りも充の異様な空気の重さを察してほとんど近寄ってこなかった。それがありがたいような寂しいようなどうしようもない気持ちがあふれてきて余計に思考が暗くなった。
 そこにやってきたのが美奈子だった。新入生が一人でいたから気に掛けてくれたらしい。最初にどんな言葉を交わしたかは覚えていない。ただ、美奈子は優しかった。
『どう?大学生活は』
 美奈子にしてみれば挨拶程度の言葉だったのだろう。しかし、落ち着いていて優しげな美奈子の雰囲気に、充は急に話したい衝動に駆られた。気がついたら言っていた。
『彼女との仲がうまくいってないんです』
 想像していた答えとは大分かけ離れていたことに美奈子は戸惑いを隠しきれなかった。けれど、充を敬遠することもなく面倒な素振りを見せることもなく長話につきあってくれた。ほとんど充が一方的に話していただけだった。美奈子はほとんど意見を言わなかったと思う。ただ充のこぼした内容を否定しないでいてくれた。
 そっか、大変なんだね。彼女のこと好きなんだ。充君は離れたくないんだね。気持ちが違う方向を向いているとつらいね。他のこと考えられないか。うん、わかる気がする。
 充の気持ちを確認するような反応ばかりだったのに、それがあの時の充には嬉しかった。救いだった。
 一人で抱えるのはとっくに苦しくなってしまっていた。誰か相談できる人が欲しかった。けれど自分達のことだからと胸にしまっていた。けれど、誰かに聞いて欲しい。そういう気持ちも確かにあったのだと、後になって思った。そして美奈子は充にとって一番楽に話せる聞き方をしてくれた。
 結局美奈子は飲み会が終わるまで充の隣にいた。その後も、家に帰る途中まで一緒にいてくれた。美奈子のアパートの方が近く、別れ際に美奈子は充に尋ねた。
『少しは軽くなった?』
 充は頷いた。根本的な問題が解決したわけではない。それでも気持ちは大分楽になっていた。
『また話したくなったら話してみなよ。大学ってね、人だけはいっぱいいるから。力になってくれる人は意外と多いよ。私も聞くぐらいだったらしてあげられるから』
 じゃあね、今日はお疲れ様。おやすみなさい。
 手を振ってアパートに入って行った美奈子の後ろ姿がとても綺麗に見えた途端、充の頭がやけにはっきりしてきた。
 社交辞令かもしれない。でも、美奈子ならまた話をしても嫌がらずに聞いてくれる気がした。今日のように、意見を押しつけることもなく、気持ちを吐き出させてくれる。そんな人に会えたことに素直に感謝した。
 それから充もアパートに帰って頭を冷やしながらいろいろなことを考えた。
 彼女とこのままつきあい続けるとどうなるだろう?ここで別れたらどうなるだろう?
 今、自分は彼女のどんなところが好きなんだろう。彼女は自分に対してどう思ってるんだろう。
 ありとあらゆることを考え、自分の気持ちが決まった時には朝になっていた。この時間ならきっと向こうも起きている。そう判断して彼女に電話をかけた。案の定、彼女はすぐに出たが早朝の電話に文句を言った。
『ちょっと、何時だと思ってるのよ』
『ごめん。でも今話したくて。真剣な話なんだ』
『また……?』
『うん。でも今までで一番真剣だから』
 電話越しに思いが伝わったのだろう。彼女はわかったと固い声で言った。
 自分で決めたこととはいえ、決意したばかりで実行するのは勇気が必要だった。しかも正しいかどうかなんてわからない。それでも、考えに考え抜いた結論を覆そうとは思わなかった。
『俺と別れたい?』
 ストレートに訪ねると彼女から驚いた声が漏れた。動揺が伝わってくる。何回も別れを口にしたのはあっちなのに。今度は否定するのだろうか。それはないと思った充の予想は当たった。
『……やっぱり、続けるのは難しいと思うよ』
 今までで一番躊躇いがちなのは充に対して悪いと思っているからだろうか。けれど、きっぱりと言われなかったことに充は安堵した。彼女とつきあっていてよかったと思った。
 でも。
『俺もそんな気がする。俺達、もう違う方向を見てる。どんなに頑張ってもこれからは離れてくだけだと思う』
 一晩考えて辿り着いたのがそれだった。
 充には彼女の気持ちが離れていくことを止められないし、それだけに新しい生活を全て棒に振るほどの気力と意志もない。今はまだ彼女と別れることに名残惜しさがあるけれど、それも時が経てば徐々に消えていく。
 ならば、ここで糸を切り離してそれぞれの道に進んだ方がいい。
『今までありがとう。お前とつきあえて楽しかった。また今度会う時には元気な顔見せてくれると嬉しい』
 彼女はそれを黙って聞いていた。しばらく二人の間に沈黙が降りる。やがて口を開いた彼女は重い口調で「うん」と言った。
『こちらこそ、今までありがとう。私も楽しかったよ。充も元気で』
 そうして彼女との半年のつきあいに幕が下りた。
 自分で決めたこととはいえ、流石に落ち込んだ。けれどそれと同時に周りを見る余裕ができて、どんどん友達を増やしていった。思いの外楽しくて、それどころでなかった自分は損をしたなと苦笑した。
 次のサークルの時、充は真っ先に美奈子のところに走って行った。
『この間はありがとうございました。俺、彼女と別れたんです』
 美奈子は充の報告に「そう」と答えた。
『その話、聞いた方がいい?』
『いえ、いいです。それよりも違う話をしませんか』
 いつまでも元彼女にこだわるんじゃなくて、もっと新しい世界を広げたい。それを伝えると美奈子は穏やかに笑った。
 ああ、本当に優しい人なんだなと思った。



 あれ以来、サークルに行けば「美奈子さん」「美奈子さん」と彼女の後を追った。いろいろな話をする内に美奈子に惹かれていったのは当然であり必然だった。最初は尊敬できる姉を持ったような気分でいた。ただただ美奈子と過ごす時間が楽しくて嬉しくて。
 美奈子には何でも話せた。他の友人に相談できないことも美奈子には相談できた。そしていつの間にか、美奈子にしか話したくないこともできるようになって、サークルに顔を出す目的は美奈子に会う為に変わった。
 好きだと自覚したのは夏に入った頃だ。それまでの充ならすぐに告白していた。けれど、珍しく想いを伝えることを躊躇した。
 美奈子は充に優しかった。しかしそれは充だけに向けられたものではなく万人に対するものと何ら変わらないことに気づいていた。サークルでは充が美奈子にくっついているから他の人に対してなかなか発揮されずにいたが、充がいない状態で困った人がいたら彼女は充にしたのと同じように手を差し伸べるのだ。
 美奈子がもう少し自分を意識するまで待たないと受け入れてもらえないかもしれない。そんな不安が充の胸に芽生えた。
 そこから距離を更に縮めるべく動き出した。じわじわとモーションをかけていったのは美奈子もわかっているようだった。けれどさらりとかわす美奈子はそれ以上の関係にはならないと暗に言っているようなものだった。それでも他の女に気持ちが動くことはなかった。新しい彼女を作る機会は少なからずあった。つきあって欲しいと言われたことも一度や二度ではない。ただ、興味がなかった。美奈子でなければ意味がないと思った。
 気がつけば、「越野美奈子の忠犬」なんてふざけたあだ名がついていた。周りから見てもそれとわかるくらい明らかな態度だったのに美奈子はやはり変わらなかった。充は待った。美奈子の気持ちに変化が現れるのをひたすら待ち続けた。少しでもいい兆しが見えたら告白して彼女を手に入れる。何百回自分に言い聞かせたかわからない。
 一年が過ぎ、一年半が過ぎ――そして大学に入って二回目の冬になった。
 珍しく美奈子がサークルの飲み会に顔を出していた。三年になってから実技の課題がやたらと多くなった美奈子はほとんどサークルに出てこなくなっていた。充はサークルで相手をしてもらえない分と言って美奈子を飲みに誘ったり外出したりしてそれなりに時間を作ってはいたものの、会える時間は多ければ多いほどいい。喜んで美奈子の傍に行った。
 美奈子の憂かない気分を察するのに時間はかからなかった。問題はその後だった。話の流れで突然出てきた事実に愕然とした。
『好きな人が、今度結婚するんだ』
 美奈子に好きな人がいるかどうかなんて考えたことがなかった。
 恋人がいないことだけわかっていて、それで満足してしまっていた自分がいた。振り向いてくれない原因を自分だけに探してばかりいたがそうではなかったのだ。知りたくなかった、そんなこと。
 美奈子の口から零れたのは十年以上も好きだった相手への愚痴。何も言えなかった。その場を離れず頷いているのが限界だった。頭がついていけなかった。状況を飲み込むのに時間がかかった。
 けれど、美奈子から涙が流れるのを見た瞬間、急に頭の中がクリアになった。反射的に美奈子の肩を抱き寄せていた。泣いている彼女を見るのは初めてだった。
 許せない。美奈子を泣かせた男が。十年以上も彼女の心を独占していたやつが。彼女から絵を奪ったやつが。
 どす黒い感情が充の中に渦巻いていった。
 それからしばらくは自分の気持ちを整理するのにいっぱいいっぱいだった。美奈子を諦めようとしたわけじゃない。ただ、美奈子の心をずっと掴んでいてボロボロにした相手への嫉妬と怒り、それを美奈子に向けないだけの気持ちのコントロールが必要だった。
 ほぼ二年ぶりの失恋――それも片想いしていた相手にだ。それもきつかった。振り返ってみれば美奈子はいつも充をうまくあしらっていたのに。それを美奈子のポーズだと信じて別の可能性を疑わなかった充はなんと単純だったのだろう。そんな自分の単純さに腹が立った。
 バイトを増やしたこともあり、美奈子と会う時間は全く取れなかった。それでなくても会うだけの勇気がなかなか湧いてこなかった。それでもメールだけは送っていた。それすらしなかったら美奈子との繋がりが切れてしまう。一番恐れていることだった。
 意外だったのは美奈子から片想いの相手の結婚式当日にメールが来たことだ。何気ない文面の中に、この間涙を流した彼女の姿が重なった。二次会の前にもメールがやってきて、いてもたってもいられず財布を掴んでアパートを飛び出した。
 きっと辛い思いをしている。泣きそうなのを我慢して、強がってるんだ。
 そんな美奈子を守りたくて、近くに行きたくて、彼女の実家へと続く切符を買った。それが美奈子との距離を縮めることになるとはあの時は考えてもいなかった。ただ、必死だった。美奈子の前ではわからないように隠していたけれど。結果的には美奈子が充の近くにいたいと言ってくれた。恋人になれたわけじゃないけれど、幸せでたまらなかった。 
 
 
  
 あれから二ヶ月。
 充と美奈子が一緒にいるのが当たり前になりつつある。美奈子は充をしっかり見てくれる。まだ一番欲しい言葉はもらえないが、それは仕方ないと充もわかっている。十年以上想っていた相手に失恋したのだから。それに充にはこれから先があるじゃないか、と思う。今はまだ曖昧でも、将来的には美奈子は充の恋人になる。それがもう少しの話なのか、まだまだ先の話なのか、はっきりしないのが苦しい。しかしそんなに先の話でもないんじゃないかと充は思っている。
 少しずつだが、美奈子の気持ちは確かに充に向いていると思う。ただ、想いにはまだまだ差が有りすぎてもどかしいところだ。充は今この瞬間も美奈子に会いたくて仕方ないのに。美奈子は全く会えなくても平気なんだろうか。
 自分ばかり好きみたいで悔しくなる。でもそれを美奈子にぶつけることもできない。それで美奈子の気持ちを遠ざけてしまうのが怖い。大体、想いに差があるのなんて最初からだ。それが少しずつ埋まってきてるのだから我が儘を言うなんて贅沢だ。
 今、充が願うことはただ一つ。
 早く彼女の課題が無事できあがりますように。
 彼女が満足いく作品ができて、久しぶりに会う彼女が笑顔でありますように。
 そしたら、何の気兼ねもなく抱きしめてキスができる。
 その時のことを考えて、充は目を閉じた。
 
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