そして鳥は辿り着く

ススム | モクジ

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 四月。キャンパスには初々しい新入生が入ってきて、多くのサークルが新入生を引き込もうと勧誘に勤しんでいる。崎谷充も今日はサークル勧誘の為にビラ配りに励んでいた。
「よろしくお願いしまーす」
 感じがいいと評判の笑顔でビラを差し出せばかなりの確率でなくなっていく。「お前は女担当な」と言われてその通りにしているだけなのだが、余ると後でうるさく言われるのでよかったなと思う。
 この調子なら昼休みいっぱい頑張らなくても終われそうだ。十分あれば彼女とも会えるかもしれない。
 そう思ったら俄然やる気が出てきて、笑顔も全開。積極性も二割増し。
「よろしくお願いしまーす」
 そんなこんなで気づくと最後の一枚。さあ終わらせるぞと最後のターゲットを定めようと視線を巡らせると、背後から声を掛けられた。
「それ、私にももらえます?」
「はい、どーぞ!って、あ」
 これ幸いとくるりと振り返ってビラを差し出せばそこにはにこにこと微笑んでいる愛しい人の姿があった。
「美奈子さん!」
「頑張ってるねー」
 美奈子は充の手からビラを取り、紙面に目を落とした。
「へー。今年はモノクロなんだ。経費節約は関心するけどちょっと地味じゃない?」
 まあ蛍光ペンでラインが引いてあるからいいにしてあげる、と言って美奈子はビラをバッグの中にしまいこんだ。
「美奈子さん、どうしてここに?」
 四年生の美奈子は大学に来てもほとんど芸術科の棟にこもりきりだ。それでも週に一、二回は充と待ち合わせて昼食を共にしている。提案したのは充だったが美奈子も快諾してくれた。今日も本当は美奈子と一緒に食べる予定の日だったのだが、不運にもビラ配りの当番が回ってきたので泣く泣く諦めたのだ。友人と食べるからビラ配り頑張ってね、と何も気にする様子のない美奈子を少し恨めしく思ったのは午前中の話。それでも会える予定だった日に会えなくなるのが悔しくてさっさと仕事を終わらせて美奈子のところに行こうと考えていたのだけれど。
 まさかこうして来てくれるなんて。
「午後の授業が無くなったから帰ろうと思って。教授に急用が入ったんだって。どうせならもっと早く言ってくれれば良かったんだけど」
「え、帰るの?」
「うん。家でやることあるしね。でもその前に充君の顔でも見てこうかなって思って」
 そうか、もう帰ってしまうのか。元々今日は充も美奈子もバイトが入っていて夜は会えない日だ。わかっていても残念に思うのは放課後に偶然ですら彼女の顔を見ることができないことが確定したからだ。  
「何なら手伝おうかと思ったんだけど、すごいね。もう無くなるなんて思わなかった」
「早く終わらせたくて頑張ってたの。美奈子さんのとこに行きたくてさ」
 褒められて嬉しくなる。なんて単純な奴だ。充もその辺りは自覚している。
 でもいいじゃないか。好きな人にこんなふうに言われて気分が良くなるのは当たり前だろう?
「ところで美奈子さん、今度の新歓コンパ来る?」
 今度はいつサークルに出てくるのか。二人の入っているサークルは四年生は基本的に出ない傾向がある。しかし、新歓コンパのような大きな飲み会に顔を出すことは結構多い。美奈子もこの間「新歓には行っておこうかな」と言っていたからそれを楽しみにしていた。
「いつの?今週?来週?今週は無理だけど来週は行けると思う」
「えー。今週無理?俺、寂しいんだけど」
 来週来てくれるのは嬉しいけど今週いないのは寂しい。別にサークルじゃなくても美奈子とは会ってるし、メールも電話もいっぱいしてる。それでも。
「ごめん、バイト動かせないからさ。それに次の日は就活あるし」
「そっか。じゃあ無理だね。残念」
 流石にそれでは「出てきて」なんて言えない。
「地元に行ってくるから、実家に泊まることになってて。戻ってくるのは次の日なの。だから金曜はお昼一緒できないんだ。ごめんね」
「仕方ないことなんだからそんなに謝らないでよ。その代わり、長電話していい?」
 美奈子があまりに申し訳なさそうな顔をしてるから、本当はがっかりしたのをとっさに隠す。いつものように甘えてみせると、美奈子はにこっと笑って「もちろん」と答えた。
 それから五分くらい充は美奈子と話に花を咲かせるのだった。



 星空の下、アルコールの匂いをぷんぷんさせている集団の中、充は不意に美奈子に会いたくなって空を仰いだ。
 今週の新歓コンパは公園で外飲みだ。桜はとうに散ってしまって、葉桜を背景に騒ぐ若者達。自分も一緒になって盛り上がっていたのはつい先程の話。酒は程よく回っている。飲み会は楽しい。新入生も十五人近くやってきて、皆は上機嫌だ。久しぶりに会う先輩もいて、近況を聞くのも面白かった。
 ただ、そうしているとどうしてもここに彼女がいないことに落ち着かなくなってしまって。
 今頃、バイト先のイタリアンの店は混み入っているに違いない。何度も訪れたことのある充は、大変だろうな、と美奈子に想いを馳せる。
 いっそ抜け出して会いに行きたい。でも仲間はそれをきっと許さないだろうし、行ったところで彼女は仕事中だ。近くにいるのに放っておかれるのはもっと辛い。今日のように会いたくてしょうがない日は、特に。
「先ぱーい、飲んでますかー?」
 横から掛けられた声に、充は首を動かした。見覚えのない女の子が二人、ビールと焼酎を持って両脇に座り込んだ。今日初めてきた新入生だろう。二人は流れるように自己紹介をしたが、その大半はすぐに頭から抜けていってしまった。名前だけ残れば十分だ。充も名前と学年を告げると、コップを空けた。そこに茶髪の女の子がビールを注いでいく。
「もしかして、お疲れですか?」
「なんかボーッとしてません?」
「そう?」
 短く返すと二人は小鳥のようによくしゃべり出した。高い声は、人によっては不快に感じるかもしれない。二日酔いの朝に聞いたら恐ろしいことになりそうだ。
 美奈子の落ち着いた声が聞きたくなる。高くもなく、低くもない、心地のいい声。
 仕方ないのはわかってる。彼女には彼女の都合がある。別に二人で会う約束を断られたわけじゃない。たかがサークルの飲み会だ。でも、ここに彼女がいないことがどんどん感情を冷ましていく。酔いまで醒めていくようで、無言で酒をあおった。
「先輩、聞いてます?」
 ほんのりと頬を赤く染めた女の子に腕を引っ張られた。酔っているのか、計算しているのか。見定めようと視線を鋭くした時、離れたところから陽気な声が飛んできた。
「そいつはダメだって、何年も追いかけてきた女をやっと捕まえたばかりだからな」
 同じ学年の白井だった。この間、告白して振られたヤツは新入生との出会いにやけに気合いを入れていた。その白井が二人の男共を引き連れてやってきて、女の子の隣に座り込んだ。
「越野美奈子の忠犬っていってさ。やっと彼氏に昇格したところなんだよ。美奈子さん以外の女には素っ気ないけど、彼女しか見えてないだけだから。今だって、美奈子さんのこと考えてんだぜ、きっと」
 なあ、とにやついた顔を向けてくる白井に酒を渡しながら「悪いか」と呟けば、「ほらな」と上機嫌な声が返ってくる。可愛い女の子が思ったより多くて喜んでるってとこか。脳天気なヤツだ。
「彼女、どんな人なんですか?」
「さあ」
「とぼけるなよ。こいつの彼女、うちのサークルだからその内会えるよ。今日はいないけど――」
 白井がべらべらしゃべりだす。酒が入っているせいか、いつもよりも舌が滑らかだ。
 取りあえず女の子達の気は逸れたから、後は勝手にしゃべらせておけばいいだろう。今やサークル内では知らない人がいない話だ。新入生に聞かせたところで何の支障もない。
 崎谷充は二年もかけて越野美奈子を追いかけた結果、ようやく振り向いてもらうことができました、と。
 残念ながら、周囲の認識は正確じゃない。自分としてももどかしいところだが、実は、まだ美奈子は彼女じゃない。前よりは近いつきあいをするようになったものの、先輩後輩以上恋人未満というやつで、本格的に恋人になったわけじゃない。ただ、美奈子は充とのことを前向きに考えてくれている。一緒にいる時間が増えた。メールや電話の回数が増えた。お互いの家の行き来もするようになった。態度も優しくなった。それから、キスをするのは許してくれる。美奈子の気持ちが完全に俺に向くまで待つと誓っても、彼女に対する気持ちを全て抑えられるほど充は聖人君子じゃない。流石に、キス以上のことはまだできないけど。
 今はまだ美奈子との距離が近くなったことを喜んでいるべきだ。人間は欲張りで、次から次へと望んでしまうけど、美奈子の気持ちを無視することなんてできない。それなら二年も待っていなかった。
 焦っちゃいけない。まだあれから二ヶ月も経っていないじゃないか。
 美奈子は崎谷充の恋人と言われても否定しない。
『時間がかかると思うけど、いずれそうなりたいなって思ってるよ。だから否定することもないかなって。でも、充君がはっきりさせたいなら違うって言って』
 そう語った美奈子を充は信じている。



 それから一週間後、充はまたサークルの皆と居酒屋でわいわい騒いでいた。
 今日は美奈子もやって来る。授業というか制作が長引いて遅れてくるらしい。待ち合わせをして行く予定だったからちょっと残念だったけれど、美奈子に会えることに変わりはない。それだけで充のテンションは上がっていった。
 飲み会が始まって三十分、既にいつもよりハイペースで飲んでいると、白井が「おい」と肩を叩いてきた。
「お前、今日速くないか?」
「まあね」
「まあねじゃないだろ。これから美奈子さん来るっていうのに――」
「いいだろ?なんかこう、落ち着いてられなくてさ」
「よくなーい!」
 咎める白井に言い訳をしてると、真上から待ち望んでいた声が降ってきた。反射的に見上げると、仁王立ちした美奈子が身を屈めて充を覗き込んでいた。
「美奈子さん!」
 嬉しさのあまり立ち上がろうとすると、勢いで危うく美奈子にぶつかりそうになる。美奈子は壁に寄りかかりながらバランスをとって、急に立った充を睨みつけた。
「危ないじゃない。ぶつかって転んだらどうするの」
「ごめん。でも、美奈子さんやっと来たから」
 嬉しくて、と言いながら美奈子の手を取って横に座らせる。本当は美奈子の席はもっと向こうだ。でもそんなことは構わない。周りがちょっと窮屈になるけど、そこは許して欲しい。どうせその内席を動くんだから。
「美奈子、やっと来たかー」
 向かいに座っていた四年生が美奈子に飲み放題メニューを渡す。
「うん。もうさー、全然作業が進まなくて。結局遅刻だよ、遅刻。ついてないな−」
「今、何やってんの?」
「授業の課題。そんなに大きくないけどね。ただ、締め切りが近いんだ」
「へー、大変だな」
 うん、と頷いて美奈子は飲み物を注文する。
 雪が降る頃に絵が描けなくなった美奈子がようやく制作に取り組めるようになったのは最近のことだった。授業が始まれば嫌でも筆をとらなければならない。充はそれがすごく心配だった。美奈子も不安だったみたいだ。だから、「無理矢理やってみたけど、なんとかなりそうな気がする」と美奈子が言った時、本当に安心した。今のところ四苦八苦してるようだけど、それでも、やっぱり美奈子には絵を描いていて欲しい。充はそう思っていたから。
 飲み会はいつものように進んで行く。甲斐甲斐しく美奈子の注文を取ることすら楽しくてたまらない。美奈子も俺の分の料理を小皿に取ってくれたりして、いい雰囲気が続いていた。
 二人で食事を作ったり、飲みに行ったりすることが増えたけれど、こういうのも悪くない。大勢いる中で、当たり前のように美奈子が充の傍にいてくれる。少し前までは充が一方的に美奈子のところに駆け寄って、美奈子は「しょうがないなあ」とでも言うように相手をしてくれるのが二人の形だった。でも今は違う。美奈子の方から充のところに来てくれる。こういうのを幸せって言うんだ。
「美奈子さん、バイト減らした?」
「うん。週三くらいにしてもらった。流石に、今はきついからさ。来週と再来週なんて二回しか入らないの。クビにならないかってドキドキしてるけどね」
「新人が使えるようになるまでクビはないんじゃない?やっぱり、慣れた人がいないと大変だし」
「だといいんだけど」
 収入がないと辛いもんね、と美奈子が笑う。
 就活と課題制作とでバイトに行くのが厳しくなってきたと愚痴を零していたのはついこの間の話だ。美奈子が大変ならバイトなんて辞めればいいと思う。でも金が関係する話だからそんな無責任なことも言えなくて、「日を減らしてもらったら?」なんてことしか提案できなかった。それでも少しは美奈子の役に立ったのかもしれない。そうだったらいいと思う。
 美奈子と笑い合って酒を飲んでると、「充先輩っ!」と高い声に呼ばれた。振り向くと、向かいに先週の新歓コンパで話しかけてきた二人の新入生がいた。気づけば、周りは既に自由に席を入れ替わっている。いつの間に、と思ったけれど、ずっと美奈子しか見てなかったから周りが変わったのに気づかないのも無理はなかった。
「その人が彼女さんですかー?」
「はじめましてー。一年のミナミとサノでーす」
 そんな名前だったろうか。この間は、ほとんど流していたから全く覚えていない。
 美奈子は騒々しい新入生に気を悪くした様子もなく、二人の自己紹介トークに耳を傾けた。そして美奈子も簡単に名乗ると、二人組は待ってましたとばかりに喋り始めた。
「お二人がつきあってるって聞いてどんな人なのかなーって思ってたんです」
「絵、描くって聞きました。すごいな〜。あたし不器用だから羨ましい!」
 べらべらとしゃべり出した二人組に美奈子は少々面食らったようだ。ちらりと充に向けた視線には呆れの色。充も同じ類の視線を返す。
 二人はすぐに充達の話を聞きたがったが美奈子と一緒に曖昧な笑顔で流していく。二人はそれが不満なようだったが、白井や他の男共に呼ばれると仕方ないとばかりに去って行った。白井にサンキューと手で合図すると得たりと笑顔が返ってきた。
 再び二人になったところで美奈子は充に食べ物をとった。ただのピザなのにいつもの倍美味しく感じるから不思議だ。
 美奈子さん効果かな、と感心している充に美奈子が苦笑した。
「好かれたかな?」
「……いいよ、そんなの。俺の中は既に美奈子さんで容量いっぱい。他の女の子見たって面白くもないし」
「私は面白い?」
「と言うか、可愛い。すんごく嬉しい。テンション上がる」
 美奈子と他を比べるまでもない。美奈子以外の女なんて、この二年間石ころのようなものだった。同じ石なら地蔵の方がありがたいしよっぽど表情豊かで興味深い――去年辺りそんなことを白井に言って「愚かなやつめ!」と頭をはたかれた覚えがある。本気だったのに。
 美奈子は「そっか」とクールにしていたけれど、少しして言いにくそうに切り出した。
「あのさ、作業がすごく遅れてるんだ」
「さっき言ってたやつ?」
「うん。でね、このままじゃ期限までに間に合わないかもしれない。あの授業、作品提出が三回しかなくて一回でも落とすと単位が危ないのね。だから明日から引きこもることにしたの」
「大変だね。どれくらい?」
 四年生にとっては単位一つ足りないだけでも大事だ。しかも今話題にしている授業は必修だったはずだ。美奈子でなくても落としたくない。
「二週間くらいかな。それでさ、充君。悪いけど、完成するまで会えないと思う」
「……そうなの?」
 一瞬、思考が止まった。
 二週間も会えない。それは今の充にはとんでもなく非日常的なことだった。
 美奈子は申し訳なさそうに視線を落とす。
「うん。電話やメールもあまりたくさんできないかも。でもそっちはできるだけ確認するようにするから」
 美奈子だって充に意地悪したくてそう言っているわけじゃない。それがわかったから充も我が儘を言うのはやめにする。課題のことで悩んでいる美奈子を困らせたくない。
「わかったよ。俺も美奈子さんの邪魔にならないように気をつける。その代わり、終わったらすぐ教えてよ。そしたらすぐに会いに行くから」
 意識して明るく言うと、美奈子が柔らかく笑った。
「うん、そうする」
 約束する。できるだけ早く終わるように頑張るから。
 美奈子は念を押すように言葉を重ねる。充はそれを笑顔で受け止めながら、きっとそう簡単には行かないんだろうと考える。授業の課題であれ美奈子は手を抜いたりしない。ようやく筆をとれるようになったばかりだ。時間がかかるのは目に見えている。二週間じゃ足りないかもしれない。
 でも美奈子が自分のことを気に掛けてくれるのが嬉しい。申し訳なく思ってくれることも。だったら二週間くらい耐えてやる。それくらい我慢できなくてどうする。二年も我慢してきたんだ。今更じゃないか。
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