春待ち鳥

モクジ
「み〜なっこさん、飲んでるー?」
 がやがやと騒々しい居酒屋の中。サークルの仲間とやってきたものの、人の輪から外れて一人黙々と飲んでいる美奈子の隣にみつるがやってきた。美奈子は充を一瞥すると「まーね」と無愛想な返事をする。それにも関わらず、充はにこにこと笑顔を浮かべながら美奈子に話しかけてくる。 
「美奈子さんが来てるなんて珍しいな」
「そうだね」
「ま、俺としては嬉しいから大歓迎」
「そう」
「サークルの方にも顔出してくれると嬉しいんだけどなー」
「今は無理」
「ま、そうだよね。美奈子さんもうすぐ四年になっちゃうもんね。さすがに無理かー」
 残念だなーと言う充の口調は軽いけれど全くのお世辞ということもなくて、美奈子は複雑な気持ちになる。
 一つ年下の崎谷さきや充とはサークルを通して知り合った。新歓コンパで一人重い空気を背負っていた充に美奈子が話しかけたのが最初だった。声を掛けた美奈子に、既に相当酔っていた充が当時付き合っていた彼女との関係が行き詰まっていたことを語りだした。美奈子は初対面の人間からこんなにディープな話を聞かされるなんてと驚いたものの、仕方なく充の話につきあった。それがきっかけで充は美奈子に懐くようになり、今では「越野こしの美奈子の忠犬」としてサークルの名物にまでなってしまっている。
 ただ懐かれるだけならば良かった。けれど、充はそれ以上の感情を普通にサラッと出してくるから戸惑ってしまう。
 新歓コンパから一週間後のサークルの日、充は彼女と別れたことを美奈子に報告してきた。あれ以来、充に彼女ができたことはない。そして、美奈子もずっと独り身だった。だから周りがからかったり騒いだりするのは当然と言えば当然のこと。しかし、美奈子は充にそういう感情を抱いていない。
「今はどんなの描いてるの?」
「……何も描いてない」
「え?何で?」
 充が驚くのも無理はなかった。美奈子は芸術科の絵画専攻で、ちょっと名が知られている。大学に入ってから常に何か描いていたし、充の問いに対してこんなふうに答えるのは初めてだった。
「描けないんだよね、全然」
 事実をそのまま伝えると、充の表情が固まった。普段は細めの目が大きく開かれている。
「スランプ?」
「……だろうね」
 美奈子はアルコールが半分になったグラスを片手で弄ぶ。
 この際、言ってもいいかもしれない。
 そんな気分になった。
「好きな人が、今度結婚するんだ」
 やんなっちゃうよね。こっちは十四年も好きだったのにさ。全然気づかないの。ずっとずっと好きだったのに。向こうにとって私はちょっと有名な幼馴染みでしかないんだよ。友達が限界。わかってたけど、それでも結婚するとなると、やっぱりショックなんだよね。
 グラスを両手で包んで愚痴を零していく美奈子を、充は信じられないような瞳で見ていた。それでも、美奈子の目から涙が零れるのを見るとハッとして肩を引き寄せた。
 ごめんね、酷いことしてるよね。美奈子は心の片隅で充に謝った。好意を寄せてくれていると知っている人間に話すようなことではない。それでも、話せる相手といったら充以外思い浮かばなかった。
 


 絵が描けなくなったのは、竹本真也たけもとしんやから結婚式の招待状が届いた日だった。
 美奈子の絵と真也は切っても切り離せない関係にあった。
 元々絵を描くのが好きな美奈子だったが、それが大学生にしてそこそこの知名度を上げるまでに至った背景には真也の存在がある。但し、それは必ずしも美しいものではなかったし、寧ろ現実に対する美奈子のやりきれない想いの方が大きかった。

 小学校の時、真也と喧嘩をした。
 イライラしている気持ちを発散するように絵を描いたら、先生に「とっても上手な絵ね」と誉められた。
 中学校の時、真也に好きな子がいるって知った。
 ショックを受けて不安になった気持ちを誤魔化すように絵を描いたら、全国レベルの美術展で賞をもらった。
 高校の時、真也に彼女ができた。
 絶望をぶつけるように絵を描いたら、有名な展覧会で入賞した。

 そして現在――大学。真也は来月結婚する。
 さすがに今度ばかりは筆をとる気になれず、わざわざ下宿先まで送られてきた招待状を眺めるだけの日々を送っている。
 こんなことしなくても、実家は三件しか離れていないのに。
 真也は俗に言う幼馴染みだ。小学校に入る時に美奈子達が引っ越してきて、家族ぐるみの付き合いをしてきた。
 知り合いのいない心細い環境の中で美奈子を人の輪の中に引っ張り出してくれたのは真也だった。真也のおかげでたくさん友達もできた。楽しいこともいっぱいあった。そんな真也に美奈子が恋心を抱くのは当然というもので。しかも、それが初恋だったものだから、いつまでもずるずると引きずってきてしまった。
 得意な絵だって、真也が褒めてくれたから頑張るようになった。いい絵が描けるのが、真也との関係が悪くなった時だというのが皮肉だったけれど、それでも真也の「やっぱり美奈子はすごいな」という一言が聞きたかった。少しでもこちらを振り向いて欲しかった。
 でも真也はもうすぐ結婚する。よりにもよって出来ちゃった婚だ。
 結局最後まで美奈子は真也の目に女として映らなかった。いつまでも人にちょっと自慢できる幼馴染みのままだった。
 行動しなかった自分が悪い。そんなことはわかってる。真也との関係を壊したくなくて動かなかったのは他でもない美奈子だ。しかし、今となってみるとこんなことになるなら告白くらいしておけばよかったと後悔するばかりで。今からでも遅くない、せめて気持ちだけでも伝えておきたいとも思った。でも、真也の幸福を壊す勇気もない。
 そうして、またいつものように一人で抱え込んでしまうのだ。しかし、今回は絵すらも描けない。どこにも行けない想いが身体のなかをぐるぐると渦巻いている。

『祝儀はいらないからさ、美奈子の絵が欲しいな』

 ほんと、人の気も知らないで。
 こっちはどこかの誰かさんのせいで絵すら描けなくなってしまったというのに。



 真也の結婚式は大雨の中行われた。幸いにも式場の中でのプランを選んでいたので式はつつがなく行われた。高校の旧友達と比較的後ろの方に座っていた美奈子は新郎新婦をほとんど直視できなかった。それでも幸せいっぱいの真也の顔が目に入ってきて、切なさのあまりに涙が出てきそうになった。花嫁は意地でも見るものかと思っていたのに、二次会でテーブルに回ってきた二人を至近距離で見なければならず、挙句の果てには花嫁と二言三言交わす羽目になった。その瞬間、終わったと思った。
 顔立ちは平凡だった。スタイルも悪くはないがすごくいいわけでもない。けれど、彼女は今日誰よりも輝いていた。
 彼女を輝かせたのは真也だ。そして、真也を幸せにしたのは彼女だ。
 敵うはずがない。二人の間のどこにも美奈子が入れる隙間などなかった。
 十年以上に渡る恋に終止符を打たなければ。真也のことはもう忘れよう。
 二次会が終わった時、美奈子の胸にあったのはこれまで以上に苦しい想いだった。



 二次会の会場を出ると、既に雨が上がっていた。
「お、晴れたね。星が出てるよ」
「あいつらのラブラブっぷりには雨も引くってか?」
「やだ、意味わかんなーい」
 酒が入ってテンションが高くなっている旧友に紛れながら、美奈子は苦笑する。
「美奈子ー、この後どうする?」 
「ん、このまま帰るよ。明日バイトあるから向こうに帰らなきゃいけないんだ」
 実家に泊まるなら、付き合ったんだけど。ごめんね。手を合わせて謝る美奈子に、旧友は気にしないでと笑う。
「そうなんだー。大変だね。じゃあ駅まで一緒に行こう」
 これからみんなが行く店は駅の反対側にあるらしい。それなら駅までと一緒に歩き始めた美奈子だが、突然前の方からかかってきた声に足を止める。
「美奈子さん!」
「充君?」
 聞きなれた声だから間違える筈がない。けれど、ここは美奈子の実家がある街で、美奈子が通う大学は隣の県にあって。だから彼がここにいるはずがないのに。
 しかし、前の方から人を割って美奈子の前に立ったのは紛れもない充だった。
「ども、こんばんはー」
 いつものように明るく挨拶をする充だが、美奈子は驚いた顔を戻すことができずにいた。
「こんばんは、って、どうしてここに?」
「んー、美奈子さんがキレーなカッコしてるって言うから見たくてきちゃった」
「は?」
 返ってきた言葉が突飛で、美奈子は首を傾げる。
 キレーなカッコって何?確かに今日はドレスを着てるけど。
 軽く眉を顰めた美奈子に、充は自分の携帯電話を取り出して見せた。
「ほら、俺にメールくれたじゃん。二次会始まる前に。てか、やっぱり来て正解だったなー。いつも以上にキレーなんだもん。あ、写メ撮らせてよ」
「へ?ちょっと、何してるのっ」
 突然何を言い出すのかと美奈子が慌てている間に、充は携帯を構えてシャッターを押してしまう。ピロリンと妙に可愛い音が響いて、充はにやっと笑った。
「もう撮っちゃったもんね。残念でした」
 ほらほら、と充は撮影した美奈子の画像を見せつける。美奈子はその早業に呆気に撮られ、怒ることもできないでいた。すると、それまで二人の様子を見ていた旧友達が美奈子をつつき出す。
「なになに?彼氏〜?」
「ちょっと美奈子ぉ、まーったくないなんてこの大嘘つきめ!!」
「違うってば!!この人は」
「どうも、美奈子さんの心の恋人、崎谷充でっす」
「はー?!ちょっと、なにそれ、勝手に主張しないでよ!!」
 否定する美奈子をよそに充は愛想のいい顔で旧友達に自己紹介をする。
 もうなに?なんで?有り得ないよ。なに勝手に言っちゃってるのよ、この人は。
 呆れ返る美奈子の手を取ると、周囲からヒューヒューと歓声が起こった。なんで今日式を挙げた二人と同じ反応をされなければならないのかと美奈子は旧友達を睨むが効果はなかった。それどころか、「やだー、美奈子照れてる!」なんて喜んでいる。だめだ、酒が入っている人間をこれ以上相手にしたくない。
「それじゃあ美奈子さんもらってきますんで。俺達、これで失礼します」
 充はそれだけ言うと、人の輪の中から美奈子を連れ出した。後ろでまだ皆が騒いでいる。その声が遠くなった時には、二人は駅に着いていた。
「美奈子さん、新幹線?」
「うん、往復で買ったから」
「そっか。俺、行きは鈍行で来たんだ。二時間電車に乗ってるって結構辛いよね」
「うん。普段帰る時には節約の為に鈍行使うんだけど、今日はこんな格好してるし、疲れたくなかったから新幹線にしたの」
「きっと正解だよ。金かかるけどさ、やっぱ便利な方がいいもん」
 話しながら、充は新幹線の切符を買う。



 前回のサークルの飲み会以来、充とは会っていなかった。
 春休みに入ったことも影響していたし、美奈子がサークルに顔を出さないことも原因だった。メールでは何回かやりとりもした。けれど、お互い真也の件には触れないでいた。ただ、今日はつい朝に『これから実家に行きます。今日は結婚式だ!』なんて送ってしまって。二次会に移動する時にも、『今から二次会。結婚式って意外と疲れました。いい勉強になったかも』とメールをしたら、『お疲れ様。二次会どこでやるの?』と返ってきて。わからないと思うけどと言いながらも普通に返事をしてしまった。
 まさか、ここまで来るなんて。
 半月ぶりに会う充は、変わらないようで、どこか違うような気もする。
「あー、次のが来るまで二十分あるか。どうする?もうちょっとここにいる?ホームだと寒いよね?」
「あ、うん。そうしようか」
 いくらアルコールが入っているからといっても、二月の夜に二十分も外にいたら身体も冷える。コートは防寒に優れているものを着ているけれど、下はスカートだから限界もある。二人は改札に近いところにある柱に寄りかかり、街時間を過ごすことにした。
「美奈子さんと会うの、久し振りだな」
「そうだね」
 なんだかんだで以前は週に一、二度は充と会っていた気がする。美奈子がサークルにいかなくても、充から押しかけてきたり、二人で飲んだり、大学ですれ違ったり。少し前までそれに煩わしさも感じていたのだけれど、ばったりと充と会わなくなって寂しさを覚えたことに戸惑わずにはいられなかった。
 自分の心の中にはいつでも真也しかいないと思っていた。けれども、思いの他充の存在も大きくなっていたようで。この二年の間に彼は地道な努力を続けて美奈子の心の中にじわじわと入り込んでいた。
「俺、バイト増やしたんだ。だからなかなか美奈子さんに会いに行けなくてさ」
「バイトって居酒屋の?」
「それも増やしたよ。でね、それとは別にコンビニ始めたんだ。こっちは春休みいっぱいで辞めるけどね」
「もしかして一日中働いてる?」
 いくら充が元気いっぱいだとはいえ、流石にそれはきついと思う。授業がある時は週三でバイトだと言っていたし。それも夜だけだったのだから。
「ん、結構。金欲しくってさー。頑張って働いてます。でも一気に増やしたから家帰るとしんどくて。だからさー、美奈子さん顔出してよ。そしたら俺元気出るし」
「居酒屋に?コンビニに?」
「どっちでもいいよ。でも飲みに来るんだったら誰かと一緒に来てね。一人で来ると心配だから」
「じゃあまた誰か誘ってみるよ」
「あ、男はダメね。俺仕事になんないから」
「心配されなくても二人で飲みにいくような男なんていませんー」
「俺とは行くじゃん」
「あ」
「それ、俺だけの特権ね」
 充が美奈子に向かってウインクしてみせる。美奈子は思わず下を向いた。
「……なんか」
「ん?」
「なんか今日、いつもよりそういうこと沢山言うね」
 キレーとか、心の恋人とか。
 恥ずかしいし、照れくさい。
 それに困る。どうしていいかわからなくなる。
 でも、決して嫌じゃない。
 困るのに充からこういう素振りを見せられるのに悪い気がしないから、余計にどうしていいかわからなくなる。
 ただ、あまりにストレートに言われると気が重くなる。
「言うよ。俺、美奈子さんのこと好きだし」
「こっちは失恋したばかりだってのに」
 それも同じ相手に何度目の失恋だろう?しかも今回ばかりは決定的だった。
 充は失恋という単語に顔を曇らせた。
「それなら俺だって。……美奈子さん、いきなり好きなヤツがいるとか言うし、そいつの為に泣くし」
 美奈子は思わず充を振り返る。充も真っ直ぐ美奈子を見た。
「俺、すげーショックだったんだけど」
「……ごめん」
「謝んないでよ」
 ああ、また傷つけた。
 充の瞳を見て美奈子の胸に痛みがさす。
 そのまま黙り込んでしまうと、充は「あー」と困ったように声を出した。
「ごめん、責めてるわけじゃなくて」
 そうなんだろうか。
 でも、充は傷ついたし美奈子に対して怒りを覚えたんだと思う。
 美奈子が何も言わずにいると充は眉を下げた。
「みーなーこさん」
 軽快に名前を呼ばれて、美奈子は逸らしていた視線を上げた。美奈子と視線が合った充は小さく微笑んだ。
「俺、一回フラれちゃったけどさ」
 充が美奈子の手を取る。
「諦めないよ。やっぱ好きだもん。だから今まで以上に頑張ることにした」
「充君」
「だからさ、美奈子さん、俺のこともっと見てよ。そんでもって俺のこともっと知って。俺がどんなヤツなのか、どれだけ美奈子さんのこと好きか知ってよ」
 充は話しながら自分の指を美奈子の指を絡ませる。
「それでさ、美奈子さんが俺のこと好きになってくれたらすげー嬉しい」
 充の言葉に、絡められた指に、嬉しいと言って笑った口元に、けれども真剣な瞳に。
 美奈子の胸が一際大きな鼓動を刻んだ。それはもう、この至近距離では充に聞こえてしまったのではないかと思うくらいに。
 それでも、今の美奈子が充に言えることは限られていた。
「どれだけ待たせるかわからないよ」
 真也のことを忘れようと決めた。けれども、十年以上も想っていた相手を忘れるにはまだまだ時間が必要だ。充に気持ちが揺れても、真也への想いが無くなったわけではない。
 こんな状態で充の気持ちに応えられる筈がない。向こうが真剣だから、美奈子も真剣に向き合わなければならないと思う。失恋して辛いから好意を寄せてくれている人のところに行くなんてことになったら、充の気持ちを軽んじることになる。それだけはしたくない。
 そんな美奈子の気持ちをわかっているのか、充は「そんなこと」と穏やかに瞳を細めた。
「大丈夫。俺は待てるからさ。待つよ、美奈子さんが俺のところに来てくれるまで待つ。だから」
 ギュ、と充の手に力がこもる。繋がった美奈子の手を離したくないと言うかのように。
 美奈子はゆっくりと息を吐き出した。
 この温もりが近くにあって欲しいと願うのは浅はかだろうか。
 それでも美奈子の心が言っている。
 次に恋をするならこの人がいい。
 充がいい。
 今、充に惹かれているこの気持ちは本物だから。
「時間、かかるかもしれないけど……私は充君のこと、もっと知りたい」
「美奈子さん」
 充の瞳が喜びに開かれる。
 美奈子は充と繋いでいる手に力をこめた。
「だから、充君の一番近くにいていいですか……?」
 美奈子の精一杯の意思表示に、充はパッと満面の笑顔を浮かべた。
「もちろん!」 



「俺、美奈子さんの絵が好きなんだ」
 新幹線に乗って色々話をしていると、唐突に充が切り出した。
 絵という単語に美奈子の胸が鈍い痛みを放ったが、その後の「好き」という言葉がすぐに痛みを消していった。
「今は描けないんだったら無理しなくていいよ。俺、美奈子さんが描けるようになるまで待ってるから」
「そんなこと言ってたら、卒業制作に間に合わなくなるかもしれないのに」
「いいじゃん。そしたら俺、もう一年美奈子さんと一緒にいられるし」
「人を勝手に留年させないでよ」
 呑気な口調だが、その中に僅かな本気を感じて美奈子は眉を顰めた。
 一緒にいられるとかそういう問題ではない。
「楽しそうなんだけどなあ」
「充君は楽しくても私は楽しくないの」
「えー。ま、でもいいよ。美奈子さんのペースでいけばいいって。描けないのに描こうとしても辛いだけでしょ。それなら俺といっぱい遊ぼ。昔、学校の先生が言ってたよ。時間は有意義に使いましょうって」
「遊ぶのが有意義って言われても」
「すっげー有意義だって。わかってないなー美奈子さん」
「……まあ、前向きに考えとく」
「やった」
 充がにこっと笑う。
 笑顔の近さに驚いた美奈子は思わず顔を背けてしまう。けれども結局、窓ガラスに充の顔が映っていることを発見して小さくため息をつく。
 自分のペースでいけばいい、か。
 声に出さずに充の言葉を繰り返す。
 もう描けないんじゃないか。絵をやめようか。そんな思いがあったのも事実だ。美奈子が絵を描く何よりの理由が失われた今、再び筆を持つ日が来るなんて考えられずにいた。
 でも、充と一緒にいたらまた描けそうな気がする。
 絵を描く一番の理由は真也だった。けれども、それとは別に絵を描くことが好きだった。
 今は描きたいものが見えずにいるけれど、それもいつかきっと。
「見つけられるのかな」
「え?なに?」
 ボソッと呟いた美奈子の言葉を充が聞き返す。
 美奈子を見つめる真っ直ぐな瞳の奥に、自分が求めている未来があるように思えて、美奈子は口元を緩めた。
「いつか、教えてあげる」
「えー」
 文句の声を上げる充に、美奈子は「なーいーしょ」と笑った。
モクジ
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