099.虚無
その瞬間、世界が止まった。
玄関を開けると、そこには千野さんが立っていた。
「千野さん」
あまりの顔色の悪さに言葉を失った。化粧でも隠しきれていない。一体、何があったのか。
「あ、珍しいね。連絡しないで来るなんて」
「ごめんなさい」
「いや、気にしないで。中に入ってよ」
「いえ、ここでいいです」
暗い顔で俺を見上げた彼女に、嫌な予感を覚える。
五日前、彼女に付き合って欲しいと言った。あれから初めて彼女と会う。その間、メールも電話も一切しなかった。急かしてしまうようで悪いと思っていた。その一方で、返事が気になって気になってしょうがなかったのだけれど。
これは、もしかしなくても。
意を決したように彼女が口を開いた。
「あの、この間の話」
やっぱりそうだ。彼女は断りに来たんだ。
「私、滝本さんとは付き合えません。ごめんなさい」
千野さんはスッと頭を下げて、そのままの姿勢で止まる。
察した通りの答えだったが、彼女の口から言われると思ってた以上に痛かった。
やばい。これはかなりきた。
「理由を、聞いてもいい?」
何で駄目なのかわからないと、納得がいかない。
諦めるつもりがないのだから、対策を練る為の手がかりだって欲しい。
「理由?」
彼女は顔を上げて聞き返した。とても困った顔をしている。
何で。
どうして罪悪感じゃなくて困惑なんだ。
「そう、理由。何か理由があるから断ったんだろ」
「あ……それは……」
苦い顔で俯いた彼女は、少しの沈黙の後、前で重ね合わせた手に力を入れた。出てきたのは、か細い声。
「滝本さんのこと、そんなふうに考えられなくて。だから……」
「だったら、そういうふうに見てもらえるように頑張るから」
「そんな…………で、でも、滝本さん、私より7つも年上だし……」
「それはそんなに問題にならないと思う。千野さんとならうまくやってけるよ。今までだってそうだったんだし」
「でも、私、滝本さんに比べるとずっと子供だし」
「大人とか子供とか関係ないよ。俺は千野さんのことを子供だと思ったことはない」
年の差なんて、どう頑張ったって埋まるものじゃない。
大切なのはそんなことよりも。
「あのさ、千野さんは、俺が嫌なの?」
自分で言いながらも、そのことを考えると胸が痛くなる。
彼女は俺のことを好きでいてくれると思うのに。そう思っていたのに、急に自信がなくなる。
けれど、彼女が何度も首を横に振るから、少しだけ安心する。
「そんな、そんなことは……」
「だったらいいよ。今は駄目でもいい。俺、諦めないから。千野さんは何も気にしなくていい。だからこれからも今まで通り会って欲しい」
そう言った瞬間、彼女が凍りついた。
顔は青ざめ、瞳は揺れ、よく見れば手が小さく震えている。
「千野さ」
「ごめんなさいっ」
彼女が勢いよく頭を下げた。
「私、もう、滝本さんとは会えません。ごめんなさい」
その言葉に、今度は俺の方が凍りついた。
何?
何を言われた?
頭が混乱して、言葉も出ない。身体も動かない。
その間に彼女はもう一度頭を下げ、視界から去っていく。一瞬見えた横顔が泣き顔だったことにハッとしたが、それでも足は動かなかった。
ただ、彼女を失ってしまったことの絶望感だけが重みを増していく。
こんな筈じゃなかった。
こんな筈では。