092.理由
 びっくりした。
 学校を出たら、滝本さんがいたんだもの。
 校門の脇に車を止めて、寄りかかってこちらを見ていた。そして私と目が合ったかと思うと、私のところまで走ってきた。
 なんで。どうして。もう会えないって言ったのに。
 私はこの人を傷つけたのに。
 どうし滝本さんはここにいるの?
「千野さん」
「滝本さん」
「話があるんだ。一緒に来て欲しい」
 少しやつれた輪郭に胸が痛む。
 本当は断るべきなのだと思う。
 でも、彼の真剣な表情に、頷かざるを得なかった。



 車で連れてこられたのは駅からそう遠くないファミレス。既に他の客で賑わっている為、二人が目立つことはない。なかなか考えてるんだな、と思う。
「痩せたって言うより、やつれたね」
 的確な指摘に、言葉を詰まらせる。
 やつれて当然だ。失恋したんだから。
 この一週間、酷い有様だった。
 家に帰ると部屋に閉じこもって。ろくに食事も取らずにひたすら泣いた。一昨日、良幸に話を聞いてもらって、それでも少しは良くなったけれど、まだまだ胸は痛いまま。
 二度とこの人には会えないと思って辛くて仕方がなかったのに。
 まさか、向こうからやってくるなんて思いもしなかった。
「滝本さんだって、やつれたじゃないですか」
 やつれたのはお互い様だ。
「そりゃ、ほとんど食べてないから」
「あっさり肯定しないで下さい」
「いや、真実だし」
 ところでさ、と彼が話を切り出す。
「俺、やっぱり駄目だ。千野さんのこと諦められない」
「え」
「千野さんが俺の彼女じゃないのはまだ我慢ができるけど、千野さんが俺から離れていくのは、耐えられない。千野さんがいなくなってから俺、ずっと生きてるのか生きてないのかわかんないような状態で。気がつくと千野さんのこと考えてるんだよ。どうして俺じゃ駄目なのか、とか。好きな奴が他にいるのかな、とか。それでさ、どうしてもわからないことがあったんだ」
 静かに、けれども想いの篭められた話し方に、胸が熱くなる。
 この人は、こんなふうに私のことを思っていてくれたんだ。
「どうして、俺とはもう会えないって言ったの?」
 真剣な瞳で、声で、問いかけてくる。
 何故、と。
 そこを話すには、全てを話さなければならない。
 諦めないと言ったこの人にわかりましたと答えて傍にい続けたところで、この人の気持ちには応えられない。それはお互いに苦しいことで。でも、どうして私が応えられないのかと言われれば、良幸の存在を出さざるを得ない。
 沈黙していると、彼は再び話し出した。
「最後に泣いてるのを見て、どうしてだろうって思った。何で千野さんが泣くんだって。俺に悪いことをしたって思った程度じゃあんなに傷ついた顔はしない。だから色々考えて……千野さんの本当の気持ちは違うけれど、ああ言わざるを得ない事情があったんじゃないかと思ったんだ」
 滝本さんの言っていることは、まさに真実だった。
 私だって滝本さんの傍にいたい。
 さよならなんてしたくない。
「俺の勝手な思い込みかもしれないけれど。でも、だから、教えて欲しい」
 思い込みじゃない。
 でも、それをどう伝えればいい?
 ここまで私のことをよく見ていてくれた人に、これ以上嘘はつきたくない。
 本当の気持ちを伝えたい。
 好きだ。この人のことがどうしようもなく好きだ。
 もう、我慢できない。
 神奈は立ち上がった。
「出ましょう、滝本さん」
 場所を変えましょう、と促すと、彼も立ち上がった。


 やってきたのは公園。駐車場に入り、「ここでいいかな」と尋ねる彼に頷いた。車の外に出て、向かい合う。
「これから私が話すことは、滝本さんにとっては良くないことです。ショックだろうし、私のことを軽蔑するかも。それでもいいですか?」
「……本当のことなんだろう?」
「はい」
「じゃあいいよ。どんな話でも、聞くから」
 その一言で、覚悟を決めた。
「私、滝本さんが好きです」
 何よりもまず先に伝えると、彼は瞳を大きくして驚いていた。
「ずっと好きでした。だから、滝本さんに付き合って欲しいって言われた時、本当に嬉しかった」
「じゃあ」
「でも」
 喋ろうとした彼の言葉を遮る。
「私には祖父が決めた婚約者がいるんです」
「え……」
 絶句する彼に、これでもう駄目だと諦めの気持ちが大きくなる。でも、どうせ最後なら、全部話してしまおう。
「祖父が華道の家元なんです。母は四人兄弟の末っ子で。一応父が婿養子に入りましたが、結婚と同時に母は千野の家を出ています。だから私は一般家庭育ちでお花をやったこともないんですけど。でも、祖父が4年前に、私の婚約者だと紹介してきた人がいます。祖父と付き合いのある社長の次男。私より、3歳年上の人です。お互いにそういうふうには見れないので、恋愛に関しても好き勝手してきました。自分達の意思とは関係のない婚約だなんて、無いも同然だったんです。今でも、一応婚約者ではあるけれど、本当に結婚するかどうかは私達にもわからなくて。でも、この間。この間、相手が私の友達と付き合って。彼は彼女と結婚するつもりは最初からなくて、でも彼女の方は彼との未来を夢見ていて、それがとても幸せそうで。それを見てるのが、ずっと辛かった」
「それって……」
 彼も気づいたのだろう。その、話が誰のことであるのか。
「この間振られた、友達と、その元彼のことです」
 断言すると、彼は息を飲んだ。
「私達、恋愛に関しては自由だったし、寧ろお互いの恋愛の話とかも普通にしていたけど、1つだけ決めたルールがあって。お互いの友達には手出しをしないこと。けれど、相手は彼女が私の友達だって知らなかったから。私に婚約者がいるって、誰にも言ってないから面倒なことにはならなかったけれど。でも、婚約者がいるのに誰かと付き合うことの不誠実さを実感してしまったから」
 いつの間にか落ちてしまっていた視線を上げる。
 滝本さんも、俯いていた。
「だから、滝本さんの気持ちに応えることはできません。ごめんなさい」
 深く深く頭を下げる。
 これで終わりなのに、妙にスッキリした気分だった。
 今まで胸に蟠っていたものを全部吐き出したからだ。
「私の話はこれで全部です。だから、今度は、滝本さんが言いたいこと、全部ぶつけて下さい」
 こちらだけが言いっぱなしなのは不公平だろうから。
 彼の怒りでも罵りでも何でも受けよう。
 それが、自分に出来る唯一のことだ。
「……婚約者がいるから、駄目ってこと?」
「はい」
「結婚するかどうかわからないって言わなかった?」
「祖父が相手のことを婚約者扱いしたのはその一回だけで、後は名前を出すことはあってもそういう話ではないというか……それ以前に、年に数回しか祖父と会わないというのもあるんですけど。両親も全くそういうことを言ってこないし。相手の方はおじさまがかなり乗り気なんですけど、祖父の顔色を窺っている状態で、公の場では触れたこともないらしくて。でも、祖父はいい加減な冗談でそういうことを言う人ではないので」
「確かめたことはないの?」
「確かめたら、結納の日取りまで決められてしまいそうで、怖くて」
「……成程。大体だけど、事情はわかったと思う」
 それは、彼も諦めがついたということで。
「でも、納得できない」
「え?」
 諦めがついたんじゃないの?
「千野さんのお祖父さんの決めた婚約者なんて関係ない。千野さんの意思がないなら尚更だ。千野さんの彼氏ってわけじゃないんだろう?」
「それはまあ、こちらからお断りしますけど」
 あんな奴、絶対に嫌だ。
「だったらいいじゃないか、俺といたって」
 え、それ、どういうこと……?
 滝本さんの言ったことが理解できなくて戸惑っていると、伸びてきた彼の腕に捕らえられ、抱き締められた。
 突然のことに驚いて、声も出ない。
「俺と一緒にいて欲しい」
「滝本さん……」
 いいの?
 滝本さんの傍にいてもいいの?
「だって、私には……」
「婚約者がいてもいい。だって、千野さんは俺が好きなんだろ」
「はい、でも」
「もう会わないとか言うな。俺は、千野さんがいなくなる方が辛い」
 そんなの、私だって。
「……いいのかな、滝本さんと一緒にいても」
「いい。それが俺の望みだから」
 そう言われてしまうと、何も言えなくなる。
 こちらの事情を知って、それでも尚いいと言ってくれる。傍にいて欲しいと。
 好きな人にここまで言って貰えるなんて。
 幸せだ。
 どうしようもなく、幸せだ。
 目頭が自然と熱くなっていく。
「滝本さん」
 名前を呼ぶと、神奈を抱き締める腕の力が強くなった。
「私、滝本さんの傍にいてもいいですか」
「勿論」
 彼は、軽く上半身を離して、間近で神奈の顔を覗き込む。
「俺と、付き合って下さい」
 その言葉に、ついに押さえきれなくなった涙が零れた。
「よ、よろしく、お願い、します」
 震える声で精一杯の返事をすると、再び抱き締められた。
「良かった」
 耳元で、ホッとした声で囁かれる。
 そして、「ありがとう」と言われて、更に涙が止まらなくなって、私はしばらく滝本さんの腕の中で泣いていた。

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