076.月の光
食堂で見つけた彼女の姿。隣には友人がいるが、その前には誰もいないことを確認して今日はついているなと気分が良くなる。
受け取ったA定職を持って彼女の向かいまで歩いて行った。
「ここ、いいかな?」
お盆を置きながら尋ねると、彼女は困惑した表情で顔を上げた。彼女に代わって了解を出したのは隣に座っていた友人だった。
「川崎かー。どうぞどうぞ」
「ありがとう。じゃ遠慮なく」
座る俺を見て、彼女、菊池真里は「どうしてそこに座るの」という視線を送ってくる。その視線に笑顔で応じて箸を割った。
そんなの決まってる。
俺はチャンスは逃がさない主義なんだ。
帰りにエントランスで彼女と一緒になった夜。
少しでも彼女との距離を縮めたい。
そう思って食事に誘った。
けれども返ってきた答えは否。
「そういうのは彼女と行きなよ」
返ってきた言葉は明るい中に冷たさを含んだものだった。女を落とす時に活躍したこの顔が効かなかったか。簡単に手に入る相手じゃないようだと冷静に考えながら良幸は苦笑を作る。
「そういうつもりじゃ」
「川崎君がそう思ってなくても、彼女はそう思わないよ。私は女の子の気持ちがわかるからそういうことはしない」
菊池が良幸の「彼女」の存在を知っていたことに、余分なことを言った奴は誰だと胸中で毒づく。彼女の言うことは正論だ。紗智は良幸が他の女と二人で食事をしたら気分を害するはずだ。浮気と言われるかもしれない。けれど紗智以外の女と二人で会うのなんて今更で――神奈に対して恋愛感情を抱いたことはないが二人で会っていることは事実だ――紗智への気持ちが冷めつつあることを自覚している上に菊池に興味を持った今、良幸の中で優先すべきものは「彼女」ではない。
そういうつもりはないなんてよく言ったものだ。その気しかないくせに。
「ちょっと息抜きできればいいなと思ったんだ。俺、店には詳しいし菊池さんのリクエストにも応えられると思うんだけど。仕事の愚痴でも言いながら美味しいものでも食べたい。そういうのはだめかな」
「ありがとう。気持ちだけ受け取っとくね」
彼女は笑顔を浮かべると、じゃあねと言って去って行った。明らかに作り笑いとわかる笑顔を向けられた良幸は菊池の姿が見えなくなってから渋面を作った。
違う。俺が見たいのはそんな顔じゃない。
翌日から、良幸は菊池に近づく為に動き出した。彼女が食堂を利用する曜日を調べて都合がつく限りその日は食堂に通うようにし、姿を見れば必ず近くに席を取る。階が違うのに総務から一番近い休憩所まで足を運んで彼女を見かければ飲み物を奢る。出社の時間も彼女と合うように調整した。営業の良幸は会社にいる時間が少ない。だから限られた時間の中で出来ることは何でもした。それが苦にならない、寧ろ楽しささえ覚えるのだからこの気持ちは本物だと思う。彼女の方は距離を縮めてはくれないが、話には応じてくれるし、絶対に無視はしない。時間が彼女の気持ちを変えてくれるだろう。勿論、アプローチの手は休めない。
今日はタイミングが悪くてチャンスがなかった。これから帰るところだがきっと彼女は社内に残っていないだろう。それでも偶然があればいいと思って総務の階に足を運んでしまう。ぽつぽつと漏れてくる光から残業している人々がいることを知る。その中に彼女がいないかと見える範囲でチェックするが生憎見つからなかった。
今日は外れだ。
残念だが、それならそれで明日に向けての気持ちが高まる。明日こそは。気合いを入れてこの階を去ろうとした時、休憩室の自販機の前でしゃがんでいる人影が目に入った。それが求めていた人物であることに気づいた良幸は即座に休憩室に足を踏み入れる。
「菊池さん」
声を掛けると彼女はハッと顔を上げた。
「川崎君」
「どうしたの、そんな格好で。何か探し物?」
床に膝をついて視線をあちこちに巡らせていた様子から察するに何か落としたのだろう。良幸が尋ねると菊池は眉を八の字にして俯いた。
「コンタクト、落としちゃって。片方だけなんだけど、どうも見えづらくてずっと探してるの」
「それは大変だ。俺も探すよ」
良幸は足元を確認して自分の荷物を置いた。そして手をついてコンタクトを探し出す。
「ごめん。そういうつもりじゃなかったんだけど」
「一人より二人の方がきっと早く見つかるよ。どの辺で落としたの?」
「川崎君がいるちょっと前かな」
「OK。注意してみるよ」
多分そんなに離れたところにはいっていないはずだ。視線を床に巡らせながら、二人きりだな、なんて考える。
「目、悪いんだ?」
「うーん、免許の更新には足りないくらい」
「じゃあそんなに悪くないな」
「うん。いつもはコンタクトもしないんだけどね。今日は午前中雨で視界が悪くなってたから」
「そっか。久しぶりのコンタクトなのに落とすなんてついてなかったね」
「言わないでよー。本当のことでもへこむって」
「ごめんごめん」
普通に話せていることに安心した。あれ以来、彼女は良幸に対して警戒心を持っていたから。今はそれを感じないことが嬉しい。
「川崎君は目いいの?」
「俺は右も左もばっちり1.2あるよ。だからメガネしてる時はダテ」
「え、ダテメガネするの?会社で?」
「会社ではしないよ。休みの日とか、たまにね」
「へー」
そこで見てみたいだとか気になるといった声が出てくればいいのに。そしたら遠慮なく休日に会う誘いをかけられる。恋人のいる男が何の理由もなしに他の女と親しくすることを不誠実だと彼女が思うのなら、親しくしてもおかしくない状況を作ればいい。常日頃からそれを窺っている良幸にしてみれば今がいい機会だ。だから視界の隅に写ったそれを目に留めて思わず口を吊り上げた。
「あった」
「え、本当!?」
「ほら、どうぞ」
「助かったー。ありがとう、川崎君」
彼女の掌に拾ったコンタクトを乗せると満面の笑みが返ってきた。
これだ。これが見たかったんだ。
胸に広がるのは満足感。たったこれだけで嬉しくなるなんて。
「お礼しなきゃね」
コンタクトをしまった彼女は自分の荷物を肩にかけながら横に並んだ。
「別にいいよ。これくらいのことで」
「よくないよ。私、川崎君がいなかったら何時間も探すはめになってたかもしれないもの。だから何かお礼させて」
こういうところはきっちりしているらしい。普段ならそんなに気にしなくていいのにと思うところだが、これに乗らない手はない。少し考える振りをして「じゃあ」と話を切り出す。
「腹が減ってるんだけど、ちょっと夕飯につきあってくれない?」
「それは……」
「今日は疲れたから外で食べたいけど、一人で行くのもどうかと思ってたとこなんだ。だから俺を助けると思って。な?頼むよ」
情けない顔を作って両手を合わせると困惑していた彼女は仕方ないというように頷いた。
「助けてもらっちゃったしね。つきあうよ。その代わり、あまり拘束しないでね」
「ああ。わかってる。迷惑はかけないよ」
やった。
高まる気持ちを抑えながら彼女の隣を歩く。彼女の歩く速さは紗智よりは早く、神奈よりはゆっくりだった。
何の店に行こうかと話しながら会社を出る。良幸は駐車場の入り口まできてあることに気づき、車を回してくるからここで待っていて欲しいとその場に留めた。一人車に向かう傍らで携帯電話を取り出し、メールを打つ。
<ごめん。今日の約束、残業で行けなくなった。>
紗智にメールを送ると電源を切って携帯電話を鞄の中にしまった。
これでいい。彼女との時間を邪魔させる可能性のあるものは先に潰しておきたかった。大切なのは、菊池真里との関係を進展させることだ。彼女には他の女との約束があったと勘付かれてはならない。大丈夫、今の良幸の行動を見ていた人間は誰もいない。見ていたとしてもせいぜい空に浮かんでいる月くらいのものだ。
最低、と妹のような女が罵る声が耳に蘇る。
「勝手に言ってろ」
車に乗り込んでエンジンをかける。そして、アクセルを踏むと同時に紗智のことも神奈のことも頭から消し去った。