069.刹那の夢
 携帯が鳴る。
 相手を見れば、滅多なことではかけてこない恵子からだった。
 一体どうしたのだろうと思いながら出ると、向こうから聞こえてきたのは神妙な声。
<……神奈>
<紗智、彼氏に振られたんだって>



 話を手早く済ませ、携帯を切った神奈は、ソファに座ってテレビを見ていた後姿に声を掛けた。
「滝本さん、私、今日は帰ります。友達のとこに行かないと」
 用件を言いながら、自分の荷物に手を伸ばす。携帯を適当に投げ入れ、リビングを出ようとすると、「千野さん」と後ろから声がかかる。振り返ると、彼が立ち上がっていた。
「急ぎ?」
 こちらにやってきながら、そう尋ねる彼に、はい、と頷いた。
「友達って、どこに住んでるの?」
「えと、大学の近くで……」
「じゃあ、車の方が速いな」
「え」
「乗ってきなよ。急ぐんだろ?鍵取ってくるから、先に出て待ってて」
 そう言うと、彼は返事も聞かずに階段を上がっていった。
 確かに、神奈達が通っている大学のところまで行くには、電車で行くよりも車で行く方が速い。バスや電車の待ち時間を考えると、20分くらいは差が出るだろうか。
 でも、滝本さんが送ってくれるだなんて。
 彼はこちらの事情なんて全く知らないのに。
 それでも今は甘えたい。
 少しでも早く、紗智のところに行きたかった。



 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「……紗智が?」
 振られた?
 彼氏に?
 良幸に?
<うん。なんか、ホントさっきらしくて。最初、好美に電話してきたんだって。で、好美があたしに電話してきて……今、紗智ん家。あたしはちょっと外出てるんだけど……ねえ、神奈、今から来れないかな。紗智、泣きっぱなしで>
 手ぇつけられないんだ。
 困惑した恵子の声からして、彼女もまだ詳しいことはわかっていないのだろう。
 時間はまだ夕方の5時。今日はこれから夕飯を作るところだったけれど、今は紗智が心配だ。
「わかった。ちょっとかかるかもしれないけど、6時までには行くから」
<ごめん、神奈>
「ううん、じゃあ、また後で」



 乗せてもらった車の中で考えるのは昨日笑っていた紗智のこと。
 クリスマスは何をプレゼントしようかと、好美と恵子に相談していた。
 少し前は良幸の心離れを心配していた紗智だったが、神奈と出かけた日以降はこれといって不安を覗かせることはなかった。様子を聞けば今度出掛ける約束をしたとはしゃいでいたから神奈の中ではすっかり済んだことにしてしまっていた。
 うかつだった。
 良幸の方を見ない限りは安心してはいけなかったのに。神奈も気になってはいたが最近はメールも少なく、顔を合わせる機会がなかったから二人のことはしばらく置いて自分のことだけにかまけていた。そんな自分が恨めしくなる。
 紗智はあんなに楽しそうだったのに。
 よりにもよって、何でこんな時期に、あいつは。
 良幸に電話をかけようかとも思った。しかし、まずは紗智の話を聞くのが先だろうし、ここで電話をかけようにも隣に滝本がいる状態ではまともに話ができない。
 酷くもどかしい。
 滝本さんは何も聞かずに運転をしている。
 その心遣いが嬉しかった。
 今日は昼から彼の家に行ってくつろいでいた。学校の話をしたり、絵の話をしたり。最近、土日は二人でまったりと過ごすことが多くなっている。それに幸福を感じていた。
 その一方で紗智は良幸に泣かされていたと思うと腹が立ってしょうがない。良幸に、そして自分に。
 あいつは、だらしない男なのに。
 ああ、もう、どうして。
「空いてて良かった」
 俯いていた神奈の耳に、彼の抑揚の無い声が届いた。
 顔を上げると、確かに車通りが少ない。
「一本裏の道にして正解だったな。あっちはこの時間、ちょっと混むから」
「……ありがとうございます」
 事情も知らないのに、そんなことまで考えていてくれたなんて。
 迷惑をかけているのに、何も言わないなんて、不公平だ。
「友達が」
 言いかけて、一瞬戸惑う。
 けれど、彼ならばと小さく頷いた。
「友達が、彼氏に振られたみたいで。ずっと泣いてるって、別の子が電話してきて」
「うん」
「ずっと……ううん、最初は凄く心配だったんです。皆には内緒にしてたけど、私とその子の彼氏とは長い付き合いで。その人、ころころ女の人を変えるような人だったから、友達とはうまくいく筈がないって思ってた」
 でも、気づいた時にはもう始まっていた。
「だから、その人と会う度にあの子のこと傷つけないでって釘を刺してたのに。もう長い間何もなかったから、気を抜いちゃって……。どういうつもりなのかわからないけど、でも、この時期に別れるだなんて」
 相手は紗智なのに。適当に遊んで終わりの女とは違うのに。
 どうして振ったりなんかしたの?
「……この時期だから別れたかったのかもしれないな」
 彼の言葉に、小さく息を呑む。
 怖くて、隣を見ることができない。
「他に一緒にいたい人が出来たとか、イベントだからって浮かれたり指輪をねだる彼女が鬱陶しくなったとか、色々さ」
 それは、彼の経験なのか、彼の周りの人間の経験なのか。
 尋ねる勇気はなかった。
「でも、意外だな」
「え?」
 何が。
「千野さんってそういう奴とはあまり関わりを持ちそうにないのに」
 思わぬ言葉に、目を見開いた。
 どうしてあいつと未だに続いてるかって?
 そんなの、だって。
 私達は――。
 沈黙すると、それを気まずく思ったのか、彼はフォローを入れた。
「まあ、人間としていい奴と、恋人としていい奴は、一致するとは限らないからね」
「……はい」
 人間としていい奴かどうかも怪しいところだ。
 本当に。
 あいつと関わっていなければ、今頃こんな頭の悩ませ方はしなかっただろうに。
 紗智のことももっと違う気持ちで見てあげられただろうし、滝本さんに後ろめたい思いを抱くこともなかった。
 最悪だ。
 どうしようもないくらい、最悪だ。

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