066.迷いの森
 送りつけられてきた招待状を手に行った奴の個展。
 奴の隣でにこやかに挨拶をする穏やかな表情の女を見て、やっぱり俺はあいつが嫌いだと舌打ちした。



「いや、嬉しいな。先輩と食事なんて」
 目の前でにこやかな笑顔を浮かべる優男を一瞥し、コーヒーを飲む。
 相変わらず、へらへらしやがって。
 依木諒介(よぎりょうすけ)。
 柔和な物腰と温厚な雰囲気。男女問わず好印象を抱くには充分な容姿と性格に、溢れんばかりの才能。大衆受けしやすい表現から、深い哲学を宿した近未来的な創作まで自由自在に生み出す新鋭画家。27歳という若さで都心で個展を開くのだから、どれくらい成功しているのかと問うまでもない。
 最近どうですか。他の先輩方とは連絡を取ってるんですか。この間伊藤教授に会ったんですよ。
 依木の口から出てくるのは、昔から変わらない、中身のない、誰とでもできる話ばかりだ。
 その処世術を否定するつもりはない。ただ、気に入らないだけだ。こいつが、依木が。
 入学してきた時は、そんなに目立つ方ではなかった。技術だって、うちの中では可もなく不可もなくというレベルだった。それが、次第に才能を開花させていき、俺が卒業する年には、有名な賞まで取る程になった。どんどん先に進む依木。先が見えない自分。専門が違うと理解しているつもりでも、コンプレックスは大きくなる一方だ。
 仕事での成功、知名度、創作の開拓。
 それらは、今までも充分に妬んできたもので。自分が喉から手が出る程に欲しいものだ。
 だが、今日、また新たに見つけてしまった。
 依木が持っていて、自分にはないものを。
 依木の隣でにこやかに客の対応をしていた女――依木の妻と、会場にはいなかったが、依木の子供と。
 こちらはどうやって片想いの相手を手に入れるのかで行き詰っているというのに。
 私生活でも奴には勝てないのだと思い知らされたようで、酷く癪だった。
 依木が結婚したのは知っていた。丁度、去年のことだ。出来婚だという真実が知らされた時、依木を知る全ての人間が驚いた。
 依木諒介という男は、全く女っ気のない奴だった。もてるのだが、女に対しては無関心を貫いていた。友人としてなら人付き合いもしていたが、女と二人きりで出かけたりはしなかったし、自分の家に女を上げることも拒んだ。そして、心の内側に入り込むような付き合いも許さなかった。一定以上の場所まできたら、そこから先に進むことを許さない。男に対しても、境界線が少し内側になったくらいで、付き合い方は同じだった。
 そつない人間関係を築いてはいたが、よくよく観察してみると、依木が周囲の人間に対してさして興味がないのだとわかってきたのが在学中のこと。始めに気づいたのは恐らく自分だったが、周囲がそれに気づくのにも然程時間はかからなかった。
 そんな男だったから、当然のように生涯独身を貫くものだと思っていた。
 なのに、まさか出来婚をするとは。
 最初にそれを聞いたのは噂だった。それから少しして、大学の卒業生が開く集まりがあって、そこで依木が噂を肯定した。
 依木は、周囲の人間からの質問攻めに対し、事実だけを認め、それでいてやはり内側には踏み込ませなかった。その時に知ったのは、奥さんは高校の後輩で、付き合いだしてそんなに経たない内に出来てしまったというくらいで。奥さんを見せろと我侭を言う先輩達に苦笑しながら、携帯に入っていた臨月間近の妻の写真を披露した。
 その時は、依木に似合う控え目な印象の女性だと思った。羨ましいとも何とも思わなかった。
 今日、幸せそうな彼女の微笑を目にするまでは。
「なあ、お前さ」
 依木の言葉を遮って、一瞬迷った。
 どうせ聞いたところで、この男はやんわりと避けるだろう。それでも聞かずにはいられなかった。
「お前んとこの馴れ初め、聞いてもいい?」
 すると、目の前の後輩はきょとんとした顔をした。幼い表情だが、それも絵になるこの男がまた憎らしい。
「は?先輩までその話ですか?言ったじゃないですか、高校の部活の後輩だって」
「いや、付き合いだしたのはもっと後だろ」
「そうですけど」
「そこが知りたいんだよ。どっちから?」
 こいつには強引に押さなければ駄目だ。有無を言わさぬ口調で続けると、依木は穏やかに笑った。
「滝本先輩がそういうこと聞くのって珍しいなあ。どういう風の吹き回しです?」
 思わぬ返しに、口元が引き攣る。相変わらず、侮れない奴だ。
 男なのにほんわかしていながら、そのくせ鋭い。
 実際、依木の作品には温かみよりも、強さとか、激しさとか、そういうものが多い。
「……参考にしようと思って」
 渋々答えると、依木は意外だったのか、目を大きくして、溜息をついた。
「…………残念ながら、参考にはならないと思いますよ」
 でも、と呟いて、依木は俺を見ながら何かを考えているようだった。
 そして、少しして口を開く。
「先輩ならいいか。口外する人じゃないですし」
 他の人には話すなと含みながら、依木は頬杖をついた。
「どっちからって敢えて言うなら俺ですけど、でも、凄くいい加減ですよ」
「いい加減?」
 いい加減って。
 依木はいい加減な恋愛なんてしなさそうだ。と言っても、人並みに恋愛をする依木すら想像できなかったが。
「最初はただの後輩だったんですよ。可愛くて、頼りがいがあって、いい子だなって程度で。高校を卒業してからも、時々連絡を取っていて。彼女が大学を卒業した頃くらいからかな。恋愛相談をされることが多くなってきたんですよね。その時付き合ってた男となかなかうまくいかなくて。相談に乗ってる内に、彼女のこと好きになっちゃって。だから、彼女がその男と別れた時」
 す、と感情を消した視線がこちらに向けられる。
 普段の依木はこんな瞳をしない。
「弱りきってる彼女につけ入ったんです」
 一瞬、耳に入ってきた言葉を疑った。
 依木が?
 本当に?
 口に出すことができず、視線だけで問いかけると、依木は微かに頷いた。
「彼女はまだ前の男を引きずっていたし、俺も待つって言ったから。恋人なんて程、甘いものはなかったです」
 だから、あの頃のことはあまり言えないんですよね、と。
「少しして、彼女が妊娠して。彼女は迷ってたけど、俺は絶対に幸せにするからって言って拝み倒して結婚してもらったんですよ」
 後は、普通です。
 そう締めくくって、依木は苦笑してみせた。
「ほら、参考にならなかったでしょう」
「……意外だったな」
「でしょうね」
「お前にそういうことができるとは思わなかった」
 弱っている女につけこむ、とか。そういうタイプには見えなかった。
 依木にそこまでさせたあの温厚そうな女性は。
 どこにでもいるような女だった。
「……そんなにいい女なのか」
 尋ねると、依木は照れながら笑った。
「そりゃあもう。美織(みお)は可愛いし、子供も可愛いし。あ、美織のこと邪な目で見たら許しませんよ」
 よく笑う奴だが、普段の愛想笑いとは全く違う、心からの笑顔に面食らった。
あの依木が、のろけながら、最後にさり気なく釘をさしている。それにとてつもなく違和感を感じる。
「いや、俺は別に」
 いくらお前が妬ましくても、お前の女を取ろうとは思わない。
 第一、俺には。
「でしょうね。先輩には、参考になる話を聞きたいと思うような人がいるんですから」
 笑顔を愛想笑いに変えて、さらりと言う。
 何だ、それは嫌味か。
「お前、余分なこと言うと大学時代のあることないこと奥さんに吹き込むぞ」
「それは困るなあ。勝手な話は作らないで下さいよ」
「どうしようかな。お前むかつくからな」
「はは。先輩のそういう正直なところ、嫌いじゃないですけどね」
 俺はお前のそういうところが嫌いだよ。
「で、どういう人なんですか」
「は?」
「先輩の彼女ですよ。俺にだけ喋らせといて、何も言わないつもりじゃないですよね?」
「お前は後輩。俺は先輩」
「もう卒業したから関係ないですよ。同業者のよしみじゃないですか」
「……わけわかんねえ」
 お前なんかに喋るわけないだろ。
 普段ならそう言うところだが、今日はそういう気分じゃない。
 第一、あの依木が俺にならと言って話してくれたのだから、そういう態度はできなかった。
 お返しではないけれど、奴の中で余計な想像をされるのも癪だと思い、これだけは、と溜息をつく。
「彼女じゃ、ない」
「ああ、それでどっちからって聞いたんですか」
 なるほど、と依木が頷く。
「待ってるよりは、自分からいった方がいいと思いますよ。片方が進まなきゃ、どちらにせよ動かないんですから」
 まさか、こいつにこういう助言を貰う日が来ることになるとは。
 何だか、ガラじゃなくて居心地が悪い。
「そう言ってもな……向こうはまだ大学生なんだよ」
「だい……先輩のイメージじゃないですね」
「しょうがないだろ」
「まあ、それは。でも、大学生っていっても色々じゃないですか。幾つなんです?」
「21。今、3年生」
「それなら問題ないんじゃ?」
 未成年じゃないなら手を出しても犯罪にはなりませんしね。
 物騒なことを言いながら、依木は何か思い当たったらしく、もしかして、と呟く。
「向こうはフリーじゃないんですか」
「フリーだけど」
 過るのは、いつか見たあの男。
 彼女のとの距離の違いを見せ付けられた、そう遠くない苦い記憶。
 彼女は間違いなく俺のことが好きだと思うのに。
 それでも自信が持てないのは、やっぱり。
「……ちょっとな」
 その言葉をどう捉えたのか、依木は「そうですか」とだけ呟いた。

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