060.約束の場所
『指輪が欲しいって言ったら、無理だって。他に好きな人ができたって。だからあたしとはもうつきあえないって』
「言ったよね。紗智を傷つけたら許さないって」
「言ったね。覚えてるよ」
「取り敢えず、これは約束だから」
パン!と音を立てて神奈の掌が良幸の頬を強くはたいた。
ってー、と呟きながらも、良幸は頬をさすったりはしない。
そこに彼なりのけじめが見えて、癪な気分になる。
今日、神奈が川崎家に押しかけた時から、良幸はまだ一度も笑顔を見せていない。彼の得意な曖昧な表情だって。
ただ、そこにあるのは神奈に向ける真っ直ぐな視線。
今日は真剣に話をするつもりなのだろう。
良幸には良幸なりのルールがある。
きっと、そういうことだ。
神奈が床に座ると、良幸も同じように床に座った。
椅子があるのに。
そう思っても、口には出さない。今日はそういう雰囲気ではない。
「紗智、寝るまで泣き止まなかった」
「そう」
「好きな人って、なに」
「本当のことだ」
紗智をふる為の方便かと思っていた神奈は目を見開く。
「そんなの聞いてない」
「言ってなかったからな」
どうして言わなかったの、とは言えなかった。
良幸が神奈に報告する義務なんてない。婚約者という間柄だとしても。今までだってそうだった。良幸が誰を相手にしようと気にならなかったし、好きにすればいいと思っていた。
でも今回だけは話が違う。
「……他に言い方はなかったの?」
よりにもよって、紗智を傷つけるような言い方をしなくたって良かったのに。
「曖昧な言い方じゃ、紗智は認めないだろ」
その通りだ。
伊達に半年以上付き合っていたわけではない。
それでは、別れの言葉も、紗智のことを理解した上で言ったというわけだ。紗智に飽きたというだけなら紗智は努力をするから別れるのは待って欲しいと言ったに違いない。
「今じゃなきゃ、駄目だった?」
年が明けて、試験で忙しくなる頃や、学年の変わり際ではいけなかったのか。
おかしなことを言っていると自覚している。気持ちがないのにつきあえだなんて。それでも思わずにいられなかった。
どうして、今、この時期に。
「早い方が良かった。元々俺は紗智みたいなタイプとは長続きしないし、これ以上付き合って期待されるのは嫌だった。そういう気持ちで続けて行くのは紗智にとっても良くないと思った」
「もう、次の人とつきあってるの?」
今、良幸の気持ちが向かっている人と。滝本さんが言ったように、紗智よりもクリスマスを一緒に過ごしたいだろう人と。
「……今月いっぱいは自粛しようかと思うよ」
「何それ。罪悪感?」
良幸が自粛?ふざけないで。
神奈の口元に嘲笑が浮かぶ。
そんなことをするくらいなら、もっとマシな別れ方をしてくれれば良かったのに。紗智をあんなに傷つける必要なんてなかったはずなのに。
嫌味を込めると、良幸は首を振った。
「いや、ペナルティ、かな。お前の友達と付き合ったっていうルール違反に対しての」
「今更?」
「そ。今更」
「……いつまで持つことやら」
信用なんてしない。
相手は良幸だから。
最低な男。
紗智に叶わない夢を見させて、舞い上がらせて、傷つけて。
紗智はきっと今回の失恋をひきずる。それくらい、彼女にとっては大事な恋だった。
それなのに良幸はもう紗智を見ていない。
やっぱり、こんな男。
「私、良幸とはしばらく会わない」
「そっか」
神奈の宣言を良幸は真顔で受け止める。
神奈は苦い気持ちで良幸に背を向けた。
「帰る」
「送ろうか」
「いい」
きつい口調でぴしゃりと言う。
今、あんたと一緒にいられる程、私は無神経じゃない。
それでも。
「気をつけて」
良幸の声を背に受けて彼の部屋から出る。
「……サイテー」
小さく漏れた声は、良幸に向けたものではなく他でもない自分を責めるもの。
いつかこうなることはわかっていたのに、黙っていた。紗智には何も知らない振りをして、それどころか大切なことを隠して。
友達なのに。
「最低だ、私」