052.視線の先
「滝本さんは、どれくらい先のことまで考えてるんですか」



 縁側に座り込んでビールを飲んでいるところにやってきての第一声がこれだ。突然、と思ったが、彼女を邪険にしたくはなかった。
「先って……将来のこと?」
「そう。就職は滝本さんは終わったとして、仕事でいつまでに何をするとかこうなりたいとか、いつ結婚するとか」
 千野さんは答えながら俺と彼女の間に持ってきたつまみを置いた。俺はその内の一皿に手を伸ばしながら、うーん、と小さく唸る。
「仕事に関しては、目標もあるよ。30までに欲しい賞もあるし、時期が来たら書きたいモチーフもある。早く、依木以上の評価を貰いたいと思うし」
「向上心ありますよね、滝本さん」
「じゃなきゃ芸術家なんてやってられない」
「一般人だって同じだと思いますけど」
「かもね」
 そんなことを言われても、俺は就職経験が無いからわからない。学生の頃はバイトもしていたけれど、金の為に働いていただけで、向上心なんてものはこれっぽっちも持っていなかった。
 当時を振り返ろうとして、記憶が不鮮明になりつつあることに気づき、大学を卒業してからもう6年も経つのだと実感する。すると、隣に座って庭を見ている千野さんが急に遠い存在に思えてきた。彼女はまだ大学3年生で、学校も忙しい。最近では調査やらレポートやらでてんてこ舞いなのだという。それに加えて、就職活動もしなければならないと零していたのは記憶に新しい。
「就職で、何か悩み事?」
 尋ねると、ちょっと、という返事がくる。
「特にやりたいことってないんですよ。だからね、職種にはあんまり拘りはなくて。でも、女って時点で採用も少なくて、本当、不公平だって思いますけど」
「やっぱり女の子は苦労するみたいだね」
 学生時代の友人から会うと、偶にそんなことを聞いたりする。
 確かに、大卒とはいえ、女の子は厳しいだろう。
「そうですね。でも、女性って、大抵は結婚して子供産むと辞める人が多いでしょう?そういうのを考えると、仕方ないかもしれないとも思うんです。会社としては、そういう中途半端な人間は遠慮したいんじゃないかなって」
 そういう考え方もあるのか。男が言うならともかく、まさか女の子から聞くとは思わなかったけれど。
「それはしょうがないよ。男に子供は産めないんだから」
「それもそうですけど」
「千野さんも、仕事は子供が出来るまでって思ってる?」
「うーん、やっぱり、小さい内は自分で面倒を見たいとは思ってますけど」
 なるほど。そういうもんか。
 千野さんはどんな母親になるんだろう。想像しようとしたけれど、なかなか浮かんでこない。
「それで、どうするの?就職」
「……今度一つ受けますよ。大手のとこだから、期待はできませんけどね。少しずつ試してきます。それでも全滅だったら、悔しいけどコネに頼ります」
「なに、コネなんてあるんだ」
 それは初耳だ。でも、考えてみれば千野さんの家族の話なんて聞いたことがない。知らなくて当然だった。
 驚いた俺に、千野さんは苦笑いを浮かべる。
「祖父が親しくしてる方に、そこそこの会社の社長さんがいらっしゃるんです。あまり、頼りたくはないですけど」
 なかなか凄い祖父さんを持ってるんだな。その千野さんのお祖父さんも只者なんだろうか。
 でも、そうか。全く先が無いわけではないんだ。
「コネでもいいんじゃないか。あるものを使うことが悪いこととは思わないな」
 思ったままの感想を述べると、千野さんは信じられないとでも言うように瞬きをしながらこちらを振り返る。
「本当に?」
 疑うのも無理はないだろう。普通は、コネを使って就職しようなんて言ったものなら、非難轟々だ。
「うん。俺は悪くないと思う。千野さんは違うみたいだけど」
 君も、良く思っていないんだろう。
 指摘すると、千野さんは困ったような顔をして、再び庭に視線を戻した。
「私の場合、タダってわけにはいかなそうなんで。…………そうなるとね、面倒なことになるし、いい加減腹を据えなきゃいけなくなるだろうし」
「……千野さん?」
 彼女が何を言っているのかさっぱりわからない。ここは深入りしてもいいところなのか迷っていると、でね、と彼女が言葉を継いだ。
「それで、最初の話なんですけど。滝本さん、結婚はいつまでにしたいですか」
「え?」
 そんな話だっただろうか。人生計画の話だったんじゃ?ああ、でもきっと、彼女の本題はこっちだったに違いない。
「今は特に考えてないけど、それでも35までにはしたいかな。何で?」
 どうしてそんなことが気になるの?
 その問いを無視して、彼女は続けた。
「滝本さんの同級生の男の人は、どれくらい結婚してます?」
「同級生?えーと、高校の奴らは最近ほとんど連絡取ってないけど、仲良かった奴らの中だと5人かな。大学は、20人中6人だったと思う。それがどうかした?」
 再度尋ねるが、千野さんはまたもや答えることなく、沈黙してしまった。じっと庭先を見つめ、何かを考えている様子で、何故だか声をかけることができなかった。
 やがて彼女は深い溜息を吐いて、夜空を見上げた。
 その横顔に浮かんでいた憂いから、俺は瞳を離すことができなかった。
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