039.侵食
気まぐれなんかじゃない。
十日振りに紗智と過ごす土曜の午後は妙に億劫だった。
本当は乗り気がしなかった。しかし彼女がひどく会いたがっている様子だったから良幸は仕方がないと自分に言い聞かせて約束をした。まるで義務感覚だ。
そして今、良幸は目の前でランチ定食を食べている紗智に物足りなさを感じていた。会話を交わしながらも上品な食べ方を気に入っていた。なのに今日は美味しいと感想を漏らしながらも少しずつ残されている料理がいやに目についた。
菊池ならそんな食べ方はしないだろうな。
せめて神奈となら、もっと気楽に食事を楽しめただろうに。そんなことを考える自分を良幸は冷静に分析する。
普通なら。
彼女の占める位置は高いはずだ。
紗智とつきあい始めた頃は、どの女よりも紗智を大切にしていた。彼女のことを優先したし、一番に考えたし、それが楽しかった。
けれど紗智といることに慣れてくると紗智は絶対ではなくなった。時々神奈と順位が入れ替わるようになった。神奈は婚約者だったがそれは良幸にとって大きな意味を持たない。女として見たことは一度もなく、今ではすっかり悪友や妹のような存在になっている。けれども秘密を共有する相手ということもあり、元々特別な存在ではあった。一時期は神奈が悩んでいたこともあり、紗智よりも神奈を気にかけることが多くなっていた。ただ最近は結構うまくいっているようで、連絡も少なくなっている。だから紗智が一番の位置に戻ってもよさそうなものなのに。
ここのところ、ちらほら浮かんでくる顔がある。
飲み会で見た菊池の笑顔。
ふとした時に現れて良幸の脳を停止させるのだ。
今だって紗智と彼女を比べてしまっている。
これが何なのか、その正体を嫌でも自覚せざるをえない。
良幸は既に箸を置いて喋り続ける紗智のお膳に残された食事を冷めた目で見つめていた。
就業時間を一時間過ぎて会社のエントランスに降りると、ロビーに見知った後姿を見つけた。椅子にバッグを置いて何やら探しているのは菊池真里だ。
帰りに彼女を見かけるのは珍しい。これはラッキーだと彼女のところまで真っ直ぐに進んだ。
「菊池さん」
「はい?あ、川崎君」
振り向いた彼女は良幸の姿を認めると笑顔を見せた。
「珍しいね、この時間に川崎君に会うの」
「そうだな。それより何してるの?」
「あ、これ?ちゃんと携帯を入れたか不安になっちゃって。記憶が曖昧だから探してたの」
忘れてたら戻らなくちゃいけないしさ。
彼女は再びバッグを漁りだした。
いつも同じところに入れているんじゃないのか?少し抜けているというか、だらしないというか。けれども不快ではない。
「あ、あった」
彼女は赤い携帯電話を取り出すとバッグの外ポケットに入れた。
「よかったね。戻るはめにならなくて」
「うん、面倒だしね」
彼女はバッグを軽く整理するとやっと顔を上げた。その笑顔を見てこれだと思う。この笑顔だ。
「最近どう?」
「ん?まあ普通かな。ちょっと忙しいけど、ピークに比べたらどうってことないしね。川崎君は?」
「俺?結構いい感じ。流石に余裕はないけど」
「充分だよ。そっかー、川崎君も頑張ってるんだね。負けてられないや」
「北見さんがいなくなるのっていつなの?」
「あれ?もしかして北見さんがいなくなるの寂しい?」
「違うって。北見さんがいなくなると総務も大変なんじゃないかと思って」
「あー、そうだね。でも今引き継ぎ途中だし、後任に指名された先輩も頑張ってるよ。私の仕事も増えたけど、まあなんとかなるでしょ。ちなみに北見さんは来月退職」
めでたいねえ。
のほほんとした口調で総務のお局の結婚を祝う彼女は北見が抜けることによって自分に降りかかってきた仕事への憤りは無いらしい。
俺だったら不平不満の嵐だな。親しい相手には絶対に愚痴を漏らすに違いない。だからだろうか、良幸には彼女のさっぱりした表情がやけに眩しく見えた。
もっと彼女のことを知りたい。近くに行きたい。
生まれた感情が、良幸を突き動かす。
「今度、一緒に食事でもどう?」
「え?」
口から出た言葉に、いくらなんでもそれはいきなり過ぎるだろと我ながら思う。けれどもそれを撤回するつもりはなかった。
不思議な顔で聞き返した彼女がの気持ちをどうにかして自分に向けたい。
「菊池さんともっとゆっくり話したくなった。だから、どうかな」
衝動から出た言葉に明確な意思を持たせて。
良幸は女を惹きつけると自覚している笑みを浮かべた。