032.欠片
 今日の打ち合わせは順調だった。予定よりも早く終わったので、そのまま帰っても良かったのだけれど、近くに先輩が住んでいることを思い出して、せっかくだからと連絡を取った。
「近くまで来たんで」と言うと、先輩は例のごとく鬱陶しいとばかりに「お前なあ」と悪態をつきながらも出てくることになった。
 待ち合わせはどこにでもあるコーヒーが有名なあの店。店の中に入ると、平日だというのに中は人で溢れかえっていた。空いている席を求めて奥に入っていくが、どこも埋まってしまっている。テーブルを占めているほとんどが中学生以上大学生以下という年代なのを見て、今は夏休みだったことを思い出す。郊外にいるとあまりこういった変化がないから、少し新鮮だ。ここは都会という程ではないが、それでも自分の住んでいるところよりは街だから、余計にそう思う。
 そうして奥へ奥へと進んでいく内に、4人がけテーブルの3席が空いているところを発見した。1人座っているのは、若い女性だ。彼女も学生だろうか、テーブルの上には筆箱とレポート用紙が出ていて、その傍らには新書サイズの本が置かれている。待ち合わせというわけではなさそうだ。
 正面に座らなければ大丈夫だろう。幸い、あのテーブルは4人がけだ。
「あの、すみません」
 テーブルの傍らに行き、ペンを動かしていた女性に声を掛ける。彼女は下に落としていた目線をこちらに向けると、一瞬、戸惑った瞳を見せた。そんな彼女に、彼女から見て斜め向かいの席を示した。
「ここ、いいですか」
「どうぞ」
 彼女は了承すると再び視線を下に落とした。白い紙の上に、黒い軌跡が生み出されていく。
「ありがとうございます」と会釈をして、席に座り、空いている隣の椅子に荷物を置く。そして、何かしないと気まずいという思いから、携帯を取り出した。
 取り敢えず、美織に今日の仕事が順調に終わったことを報告するメールを打つ。そして、これから先輩に会う旨も書いて、送信した。比較的ゆっくり打ったのに、時間は然程進んでいない。先輩が来るまで、あと30分はかかるだろう。美織がすぐにメールを返してくれれば、それで時間を潰せるけれど、気づかなければどうしようもない。窓側だったら良かったのだが、生憎座ったのは壁側だった。仕方がないので、壁にかけられた絵を見る。しかし、外国の街並みを描いたそれに興味を持つことができず、再び携帯を開いた。美織からの返事はまだ来ていない。この時間だと、洗濯物を取り込んでいるのかもしれない。
 することがないので、以前携帯で撮った写真を開く。そこには数枚の美織と俊介の写真と、風景写真しか収められていなかった。それを眺めていると、バイブ音が耳に入ってきた。顔を上げると、向かいの女性が自分のバッグから携帯を取り出すところだった。彼女が小さく頭を下げたので、こちらも同じように返した。再び画面に視線を戻したものの、視界の隅で女性の様子を窺った。
 彼女の黒い携帯にビーズで作られた白い花のストラップが映える。メールを打ち始めた彼女の手に、装飾品は一切ない。しかし、首には銀のチェーンにかけられた指輪がある。社会人ならともかく、学生なのに指輪を指にしないのは珍しい。
 気づかれないように見た顔は、まあ平凡だった。これと言って特徴があるわけではない。黒い髪は後ろで一つにまとめられている。黒と青のキャミソールに、白い七部のカーディガン。下は薄い色合いのジーンズ。
美織が大学生の頃は、もう少し明るい感じだった。就職して、あの男と付き合っていた頃が一番派手だったけれど。今はすっかり落ち着いている。自分がそうさせたのではない。美織には、美織の好きなようにすればいいと言った。彼女にとって一番自然な格好をすればいい。そうしたら、美織は明るかった髪をほとんど黒にし、服装も流行の最先端だけで一貫性がなかったものが、流行を取り入れつつも確立されたスタイルが出来上がっていった。無理をしていたのだと聞いたのは、もう2年くらい前のことだろうか。
 目の前の女性は、派手ではないがセンスは悪くない。身につけている中で一番いいものは指輪だと思うが、それが浮かび上がってしまうようなことはなく、全体的な調和がとれている。
 同級生にはいなかったタイプだな、と自分の大学時代のメンバーを振り返る。あの頃、周囲にいた女性は芸術に興味がある者ばかりが集まっていたせいか、服装の方もかなり拘りを持っていて、一見奇抜とも思えるようなコーディネートをしてくる人もいた。当時はそれが普通だったけれど、今となっては、非常識な世界だったことがわかる。
 きっと、この女性は芸術系ではないんだろう。置いてある本のタイトルも、有名な作家の本だし。
 時計を見ると、もうすぐ30分が経とうとしていた。美織や大学時代のことを回顧していて、思いの他時間を使っていたらしい。そろそろ先輩が来る頃だ。入り口の方を見ながら、先輩の姿が現れるのを待つ。
 5分くらい経った頃、先輩がやってきた。視線で合図すると、先輩もこちらに気づき、面倒くさそうな顔をして近付いてきた。けれど、途中で驚いた顔になる。そして、一気に不機嫌な顔になる。どうしたのだろう。何か気分を損ねるようなことをしただろうか。まさか。こっちはただ合図しただけだ。
 テーブルにやってきた先輩は、俺を睨んでいた。
「お前、何してんだよ」
「え」
「あれ?」
 言葉に詰まると同時に、斜め向かいから声が漏れた。彼女を見れば、彼女は先輩を見て驚いている。何だ?彼女は先輩を知っているのか?
「何してるって、先輩を待ってたんですけど」
 取り敢えず正直に答えると、先輩は「んなの見れば分かる」と言って、顔を引き攣らせた。
「そうじゃなくて、何でお前が千野さんと一緒にいるかって聞いてるんだよ」
「は?」
 誰だって?チノさん?それはもしかして、この女性のことなのか?
 反射的に女性を見ると、彼女は俺を見返して、「あ」と呟いた。
「もしかして」
 そう言って先輩を仰ぐ彼女につられて、俺も先輩を見る。そして、腰に当てられた左手に光るものを見つけた。見覚えのあるそれに、まさか、と再び女性を見る。そして、それに気づいた瞬間、あまりの驚きに言葉を失った。
 嘘だろ。
「先輩、あの、こちらが、先輩の?」
 ぎこちなく尋ねると、先輩は不快げに顔を歪めた。そして、女性の肩に手を置く。
「俺の彼女」


 何と、偶然相席になった女性は先輩の彼女だった。
 先輩は俺に呼び出されて来てみたら、俺と彼女が一緒にいるから随分と驚いたらしい。そして、良からぬ想像をしてしまったようで、それであの態度だったそうだ。
 相席になった経緯については俺が話す前に彼女が説明してくれた。
「まさか、一緒に座った人が依木さんだとは思いませんでした」
 驚いたのは彼女も同じだった。「もしかして」とは、俺が依木諒介ではないかということに気づいた時の台詞だったようだ。
「俺だって、千野さんと依木が一緒に座ってるとは思わなかった」
 俺だって、こんなことが起きるとは思ってませんでしたよ、先輩。
 不本意ながらにも先輩が紹介してくれた彼女は、千野さん。大学4年生。
 大学生、というところから、以前先輩に相談された例の彼女だとピンときた。なるほど、あれから尋ねても答えてくれなかったから、どうなったのかと思っていれば、うまくいっていたわけだ。
 俺と先輩が会う約束をしていたと知った彼女は、席を外そうとした。けれど、俺と先輩が止めたので、彼女も交えて近況を話すことになった。しかし、彼女が話すことはほとんどなく、30分が経った頃、彼女は立ち上がった。
「私、これからゼミがあるので失礼します。滝本さんは依木さんとゆっくりしていって下さい」
「送ってこうか」
 先輩が申し出ると、彼女は首を横に振った。
「すぐそこだからいいです。滝本さんは、依木さんとお話ししてて下さい」
「依木のことは気にしなくていいのに」
 気にしなくていいって、先輩。相変わらず言ってくれますね。
「失礼ですよ、それ」
 彼女が苦笑する。
「今日はどれくらいかかりそう?」
「多分、2時間くらいかな。中間発表して、皆と意見交換するだけだから」
「じゃあ、終わったらメールして。一緒に帰ろう」
「わかりました」
 彼女は嬉しそうに笑って、頷いた。
「それでは依木さん、失礼します」
「ゼミ、頑張ってね」
 す、と綺麗にお辞儀をして、彼女は去って行った。
 目立つとこはないけれど、姿勢や動作が綺麗な子だと思った。先輩を見ると、ふてくされたような顔で視線を送ってくる。
「先輩が教えてくれなかったから、てっきり駄目になったのかと思ってましたよ」
 うまくいってたのなら、教えてくれてもよかったじゃないですか。その意味をこめて言うと、先輩の眉間に皺ができた。
「お前に教えてやる筋合いはない」
「そんなこと言って。俺に相談してきたのは先輩ですよ」
「うるさい」
 きつい言い方だが、これは照れ隠しも入っているのだろう。そう思うと、自然と頬が緩んでくる。
「しっかりした感じの子ですね」
 大学生だった頃の美織と比べると、格段に。いや、美織もしっかりはしていた。けれど、彼女程の落ち着きはなかった。
「まあ、そうだな」
「苗字で呼んでるし」
 それはまあ、おかしなことではないのかもしれない。彼女は年下なのだし。けれど。
「何で先輩まで苗字で呼んでるんですか」
 これは意外だった。彼女の方は完全に年上に対する話し方だし、先輩の方も苗字で呼んでいるから、少し二人の会話を聞いたくらいでは、親しいとは感じても、付き合っているとは思わないだろう。かろうじて、最後の二人の会話がそれらしかったくらいで。自分がいたからだろうか。それもあったのかもしれない。でも、呼び方まではわざわざ変えないだろう。
「すっかり染み付いてるからな。どうしても、苗字が先に出る」
「ああ、それならわかります。俺も結婚したのに、つい苗字で呼んでしまいがちでしたから」
「どれくらいで直したんだ?」
「俺の方は半月くらいかな。妻の方は、一ヶ月くらいかかりましたね。高校の時からずっと<鈴木さん><先輩>だったから、大変でしたよ。だから、<呼び間違え貯金>を始めたんです」
「<呼び間違え貯金>?」
「そう。呼び間違えたら、1回500円を貯金するんです。結構たまりましたよ。特に妻は日に何回も貯金する羽目になりましたね。いわゆる罰ゲームですけど、効果はあったかな」
「何で500円なんだよ。100円で充分だろ。一体いくら溜まったんだよ」
「正確にはわかりませんけど、3万くらいはあるんじゃないですか?」
「……やっぱり500円は高いな」
 それは自分も思ったことだった。けれども、それくらいしなければ難しかった。特に、美織の場合は。そんなことを考えて、今は先輩の話だったと思い出す。
「どれくらい経つんですか」
 先輩から相談を受けたのが去年の秋。あれから随分と時間が経っているが、一体いつの間に。
「半年以上は」
 それじゃあこの半年、何回か会う機会があったのに、教えてくれなかったというわけか、この人は。らしいと言えばあまりにらしい。
 そう言えば、と先輩の左手に光るものに視線を移す。
 この間会った時、指輪なんてしていただろうか。
 見た記憶はない。けれど、自分がそこまで見ていたとも思えない。2ヶ月前の展覧会は丁度多忙な時間帯に先輩がやってきたので、ろくに挨拶もできなかった。その前は?振り返るが、どうも思い出せない。
 それにしても、指輪なんてする人だっただろうか。ファッションリングでさえ目にしたことがなかった気がする。ネックレスやブレスレッドはよく身につけているけれど。大学時代、一時期は指輪をしていたこともあったかもしれない。
「指輪、ねだられたんですか」
 彼女の希望なのかもしれない。この先輩でも、年下の彼女の我侭なら甘い顔で受け入れるのかもしれない。
 しかし、先輩は「いや」と否定した。
「俺が欲しくて」
 目を細めて、固い表情で言う先輩は、コップを見つめていた。その視線の先に、何を見てるのだろう。
「そうですか」
 先輩にも色々あるんだろう。俺と美織程じゃなくても、きっと。
「彼女に、よく似合ってましたね」
 彼女は、指ではなく、首にかけていたことには触れず。ただ、ありきたりな言葉。それだけだったのに。
 先輩は、口元を嬉しそうに緩めた。
「そうか」
 そこに滲んだ安堵の正体はわからない。わからないけれど、それ以上聞いてはいけない気がした。

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