猫と毒草

モクジ

  彼女と過ごす今  

 浮かれているのは自覚していた。
 なにせ、今日は朝から顔を合わせた同僚全員に自分から挨拶していたし――普段は向こうから声をかけられない限りこちらからは声をかけない、ただし、上司は別だ――仕事を始めれば10分置きに時計を確認する始末――あまりにきょろきょろするので「どうしたんだ」と聞かれた――簡単な計算を間違えて上司に気味悪がられ――ちょっと自慢だけれど、計算は得意だ――そんな細かいことがいくつもあって、流石のルイスも仕事が始まって2時間経つ頃には周囲の心配する目が少し気になりつつあった。
「お前、何かあったのかよ」
「いえ、何も」
 あまりに気になったのか、3つ上のヤニックがぼそりと声を掛けてきた。それに即答すると、眉間に皺を寄せて、そんなわけあるかと頭を拳でぐりぐりされる。
「今日のお前の落ち着きのなさは異常だっての。何か悪いことでもあったのかと思えばにやにやしやがって。一体なんなんだよ、今日は。お前がそんなんだとこっちの気が狂うんだよ」
「そう言われましても」
 にやにやしていたのだろうか。いや、ヤニックが言うのだから多分そんな顔をしていたんだろう。でも自分ではそれがどんな表情なのか想像することができない。身だしなみを整える時くらいしか鏡を使わないからだろうか。自分の顔なんてそんなに見ない。
 そこまで考えてルイスはそこが問題じゃないと思考を切り替える。
「本当に、何かあったわけじゃないんですよ」
 嘘はついていない。そう、何もなかった。
 ただ、これから起こるだろう出来事に心を弾ませている自分がいる。それだけだ。

 朝、家を出る時、見送ってくれたイオネの一言。
『今日の2時頃、仕事で役場に行くことになってるんです』
 会えるといいですね。
 仕事なのにこんなの不謹慎かしら、と言ったイオネの手を思わず握ってしまったのはきっと誰にも見られていなかった――はず。階段の手前でアンジェラを可愛がっていた父が一瞬にやりとよろしくない表情を浮かべたが、あれは言葉に反応しただけだ。きっと。
『今日は、ずっと中にいる予定だから』
『では楽しみにしてます』
『僕も』
 むしろ今日はもう仕事に行きたくない。そう思ったけれど、さすがに働かない夫ではイオネに恥をかかせてしまうし、見放されてしまうかもしれない。それは嫌だと泣く泣く彼女の手を離した。名残惜しいとばかりに彼女の頬に軽く口づけ、足を役所に向けたのだった。

 人間とは本当に単純なもので、職場に着くまではどことなく嫌な気分だったのに、着いてしまったら2時になるのが楽しみでならなくなった。早くイオネに会いたい。会えるとしても、お互い仕事中で、ほとんど会話なんてできないだろう。それでも、職場で彼女の顔を見られるなんて嬉しいことは滅多に無い。この特別な日をそわそわしないで過ごせという方が無理だ。
 ただ、残念ながらまだ11時を回ったところ。まだ2時間もある。そこまではこの山積みされた仕事と向き合わなければならない。面白い仕事だと思ったこともないが、今日はそれが酷くつまらなくてしょうがない。できることなら役所の外に出て猫でも探したい。数日前の朝に見かけた三毛猫はどこに住んでいるんだろうか。つぶらな瞳に、あの日は仕事をさぼりたいと思ったくらいだ。
 ルイスがあちこちに思いを巡らせていると、一人置いてけぼりになったヤニックがこれ見よがしにため息をついた。
「おいおい、ボーッとしてるんじゃない」
「あ、すみません」
「なんだよ、また猫か?」
「まあ、それも考えていましたけど。この辺で三毛猫を見たことはありますか?」
「んー?公園でよく見かけるやつかな」
 興味と誤魔化しを兼ねて猫の話題を振ったのだが、思わぬ収穫だった。今度、昼休みに公園に行ってみようか。もしかしたら三毛猫の友達もいるかもしれない。新しい癒しの予感に胸が高鳴る。ああ、今日はいい日じゃないか。
「こら、また遠くを見てるじゃないか。お前、そんなんじゃ嫁さんに愛想つかされるぞ。もっとしっかりしないと」
 ヤニックの言葉に一瞬固まる。
 イオネに愛想をつかされる?
 聞き捨てならない。しかし、彼女のことで職場の人間とああだこうだ言うつもりはない。滅多に使わない作り笑顔を浮かべる。
「残念ながら、本当によくできた女性ですので。ご期待に添えることは一生ないかと」
 そんなことあってたまるか。二度と口出しするな。
 言葉の裏では密かに毒づきながらきっぱり言い放つとヤニックは「そうかねえ」とこれっぽっちも信じていない様子で席に戻っていった。先輩とはいえ実に失礼な人だ。
 とはいえ、イオネが絶対に愛想をつかすことはないとは言い切れない。人並み外れた猫好きだと自覚している。家が名家で経済的に余裕があり、安定した職に就いている。うるさい姑はいない。一般的な女性から見た自分の魅力はそれくらいだろうか。けれどもイオネがそこに重きを置いているとは思えない。彼女が望むのは、彼女の意思を尊重する相手だ。彼女が薬師として働き続けるのを認め、支えていく。それができない男ならば、彼女は離れていくだろう。その点では、自分は合格だと思う。異論が全くないわけではないが、イオネには薬師を続けて欲しい。そこに伴う危険もわかっている。それでも。彼女にとって薬師であり続けることがどれだけ重要なことか知っていながら止めることはできない。なによりも、薬師として輝いている彼女が好きだから。

 1時半。
 ルイスは現場を駆け回りながら舌打ちをしていた。図面や資料を持って担当者の話に耳を傾けることがこんなに煩わしかったのは初めてだ。
 現在、修繕工事中の音楽堂でトラブルがあったと連絡が入ったのは昼食が終わってすぐのことだった。そこの担当者であるルイスは嫌でも出向かざるを得なかった。慌てて資料を鞄に詰め込んで現場に駆けつけたが、現場ではまだ状況整理ができておらず、一からルイスが調査しなければならなくなってしまった。
 既に1時間が経過している。状況は大分理解できた。何をすべきかもわかった。けれど、2時までに役所に戻るのは確実に無理だ。それでも、出来る限りのことはしようと思った。運が良ければ、帰り際のイオネの顔を見るくらいは叶うかもしれない。
 そう自分を奮い立たせながら業者に指示を出す。
 建築工事は人の命にも関わる。ミスは許されない。慎重に事を運ばなければならない。
 頭は酷く冷静だった。
 けれども心が焦る。
 イオネが帰る前に戻らないと。

 役所に戻る馬車の中で、ルイスは進む秒針に苛立ちを募らせていた。
 急がせているものの、既に3時。イオネはもう帰ってしまっているだろうか。
 どれくらい時間のかかる仕事だったのか聞いておくべきだった。
 音楽堂の件は完全に片付いたわけじゃない。一度、役所に戻って上に報告し、許可を取らなければならないことができただけだ。それが終わったらすぐに現場に戻らなければならない。
 イオネに会いたかった。普段とは違う場所で、彼女の顔を見るのを本当に楽しみにしていた。
 家に帰ればイオネに会える。一瞬の触れ合いなんて比べものにならない愛しい時間が過ごせる。それは毎日のことで、今となっては当たり前になってしまったけれど、ふとした瞬間にとてもすごいことだと思う。イオネを好きになって、毎日が楽しくなった。イオネを愛して、いつも心が温かくなった。小さな幸せが一つずつ増えていって、気づけばルイスは幸福の中にいた。イオネがいなかったら、なんて考えたくもない。今更彼女がいない人生を想像することなんてできない。猫は好きだ。大好きだ。愛している。でも、もし、一つしか選べないとしたら。躊躇いなくイオネを選ぶ。例え他のものを全て失ってしまったとしても、彼女を失うことに比べたら些細なことでしかない。
 イオネの一挙一動がルイスを喜ばせ、不安にさせる。自分には全く無縁だと思っていたこの感情に、26歳にもなって振り回されるなんて。
 どうしようもないなと自分でも思う。
 それでもまだ、職場でイオネと会うことを諦めきれなかった。
 馬車が役所に着くと、全力疾走して自分の部署に戻った。大きな音を立てて開かれた扉に、中にいた同僚達が目を丸くする。その主がルイスだったことを知り、音楽堂の件がそんなに大変なことになっているのかと不安を抱いたが。
「イオネは?」
「…………は?」
「妻を見ませんでしたか?」
 強張った表情で尋ねるルイスに、周囲はぽかんとしていたが、いち早く正気を取り戻したヤニックが「それなら」と答えた。
「15分くらい前にきたよ。仕事のついでに寄ったそうだが、お前がいなかったから。今頃、ロレンス邸じゃないか」
「……そうですか。じゃあ、報告をします」
 やっぱり遅かった。気分は真っ逆さま、最悪だったが、それでもイオネのことだけにかまけている場合じゃない。こうなったら一分一秒でも早く家に帰れるように仕事を片づけるしかない。完全に仕事モードに切り替えたルイスは上司に淡々と状況を説明し始めた。

 定時は無理でも、残業はせめて1時間。そう意気込んで頑張ったのに、結局3時間もかかってしまった。急なトラブルだったから仕方がない。いつも、とは言えなくとも、時々あることだった。その時はイオネの顔を見る時間が遅くなることに落ち込んでしまう。けれども今日はそれに加えて会えるはずだったのに会えなかったというのもあるから気分も沈みに沈んでいた。
 とぼとぼと歩く道は普段よりも長く感じる。辺りはすっかり暗く、空の星がやけに綺麗だ。月に至ってはほとんど満月に近く、せっかくならイオネと一緒に眺めたいと思う。それが無理なら、せめて猫でもいればいいのに、こんな日に限ってどこにも姿がない。
 ついてないな。
 楽しい一日になるとちょっと期待していただけだ。それなのに、なんでこんな一日になってしまったんだろう。元はと言えば、全部音楽堂のトラブルが悪いのだが、誰かを責めるような件でもないだけに、気持ちの行き場がない。
 イオネは一体どう思っただろう。
 少しは残念に思ってくれたに違いない。けれど、ルイスほどその衝撃は大きくないだろう。彼女は自分の仕事が好きだし、やりがいを感じているからルイスほど今日のことを大きく受け止めていないはずだ。恨めしいし、彼女の仕事に嫉妬しそうだ。けれどもそれはおかどちがいもいいところで、不機嫌な気持ちをイオネにぶつけるのは馬鹿なことだと思う。イオネの笑顔を曇らせることはしたくない。
 イオネの笑顔を思い浮かべたら、いてもたってもいられなくなった。重かった足が地面を蹴る。走り出してしばらくすればすぐに息が乱れる。足も疲れるが、家に着くまではもう止める気がなかった。
 会いたい。
 一緒に暮らしている相手でも。毎日顔を見ている相手でも。会いたくてたまらない。
 こんな思いをするのはイオネだけだ。
「ただいま!」
 駆け込んだ家の中は暖かかった。
 大きな音を立てて開かれた扉に驚いたのか、イオネが慌てて出てきた。階段の手すりを歩いていたアンジェラも鋭い目でこちらに振り返る。
「お帰りなさい、ルイス。どうしました?仕事で何か?」
 心配そうに聞いてくるイオネに首を振って、その体を引き寄せた。腕の中にすっぽり収め、やっと安心する。今日一日の不満が、そっと引いていく。
「せっかく君がきてくれたのに、会えなかった」
「急なお仕事だったんですもの、仕方ないですよ」
「すごくがっかりしたよ。お陰でその後の仕事がすごくつまらなかった」
「私も。思いの外、期待してたみたいで。早く帰ってルイスに会いたいって、仕事中に考えてました」
 イオネの言葉が指す意味に気づいて、一瞬呆然とした。
 あのイオネが、仕事中にそんなことを考えただなんて。信じられない。けれど、間違いなく彼女の言葉だ。同じだったと知り、じわじわと喜びが溢れてくる。
 本当に、イオネの存在の大きさときたら。
 こんな小さなことで一喜一憂しているなんて、昔の自分が知ったらきっと呆れるだろう。理解できないと言って猫と戯れていたに違いない。それはそれで楽しく、幸せではあった。でも、その生活に戻りたいとは思わない。今のこの生活がいい。イオネが傍にいる、この瞬間ほど愛しいものはないと知ってしまったから。
モクジ
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