猫と毒草

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  薬師、毒にやられる  

 つんと鼻をつく臭いが広まった。
 頭に直接響くようなこれには覚えがある。
「いけない」
 イオネは慌てて火を消し、鍋に蓋をした。
 頭がくらくらする。空気の入れ替えをしなければ。
 イオネはふらふらと窓に寄り、開けようとする。しかしうまく開けられない。指がうまく使えない。どうやら麻痺しているようだ。
 立っているのも辛い。手が震える。それでも、とイオネはなんとか窓を開けることに成功する。外から入ってきた空気を吸うと少しだけ楽になった。そこで気が緩んだ。
 イオネは激しい痛みに襲われる頭を抱えて意識を失った。


 目を開けると、そこにあったのは白い天井だった。
 ここはどこ?
 思い出そうとした瞬間、頭痛が走る。
「……っ」
 痛みに顔を顰める。そして少し前もこれと同じことがあったなと痛みの中で考えた。
「気がついたか」
 聞き親しんだ声にイオネは瞼を開ける。すると五十代半ばの男がイオネを覗き込んでいた。ロレンス家顧問医師のブルックだ。
「先生」
「覚えているか、調合室で倒れていたんだ。どうやら失敗したらしいな」
 そうだ、毒草から毒の成分を抽出しようとして失敗したのだ。どうやら火の強さが足りなかったらしい。その為に本来鍋の底に固形化して溜まる毒素が気体となって部屋に充満してしまった。身体で異変を察して慌てて部屋の換気をしたところまでは覚えている。今さっき痛みに覚えがあると思ったのは意識を失う前に感じていた痛みだ。
「お前がこういう失敗をするのは久しぶりだな」
 短い付き合いではないこの医師に呆れたように言われてはイオネは何も言い返せない。注意が足りなかったのは事実だ。
「薬をもらいに使いをやったらお前が倒れていると慌てて帰ってきたから驚いたよ。余分な仕事を増やしてくれたな」
「すみません」
 それしか言葉が見つからない。まだ頭痛が強く、あまり物事を考えられなかった。
「具合は」
「頭痛が酷い。それから、まだ少し指先を動かすのが辛い」
「それなら解毒剤が一番だな。番号は?」
「六十四番」
「わかった。すぐに取ってこさせよう」
 それがわかるようなら大丈夫だなとブルックが淡々と言う。少々ものぐさなところがあるが、それでもロレンス家顧問医師を務める男だ。腕の良さはイオネも存分に知っている。彼がそう言うのなら面倒な状況にはなっていないはずだ。毒が引き起こした症状さえ引けばまた普通に生活できる。
「しばらく仕事は休むんだな。その間反省しろ。俺はオリヴァー様にお前が起きたことを知らせてくる」
 ブルックはイオネを一人部屋に残して出て行った。
 毒にやられるのはいつ以来だろう。考えようとするが、細かいことを考えると頭が痛い。倒れる程のものはここ二、三年はなかったような気がする。毎回思うが、最悪な気分だ。それにしても頭痛が酷い。イオネは考えることを放棄した。


 仕事の手を休めてやってきたオリヴァーはイオネと目が合うなり厳しい顔で告げた。
「完全に回復するまで屋敷に出入り禁止」
 雇い主にそう命令されては断ることはできない。それに今は休息が必要なことをイオネはわかっていた。少なくとも二、三日は安静にしていなければならない。
「あまり驚かせないでくれ。医師と薬師に倒れられるのは心臓に悪い。私に何かあった時、君達が動けないようでは話にならない。ブルックが大丈夫だと言うまで仕事は休みだ」
 イオネは大人しく頷いた。オリヴァーは物足りなそうに首を振った。
「だめだな。普段の君ならそんな不吉な仮定をするなと言い返してくるところなのに。調子が狂う」
 早く元気になれという意味のこめられた言葉にイオネは視線で応じた。本当は笑えればいいのだが、まだそれは無理そうだ。
「まだ動くのは辛いかい?大丈夫そうなら馬車の手配を」
「イオネ!」
 オリヴァーが言い終わらない内に扉が開けられ人が入ってくる。視線を動かすと、そこにいたのはルイスだった。
「……ルイス」
 どうして、ルイスがここに。彼は今役所にいるはずだ。
 戸惑うイオネをよそに、ルイスはイオネの枕元までやってくる。
「薬を作っていて失敗して倒れたって……」
 イオネの顔を覗き込んでくるルイスの強張った表情が目についた。苦しいような、焦っているような、見ている方も胸をしめつけられるような表情をイオネは初めて見た。
「私が役所に遣いをやったんだ。迎えに来いとは言っていないが、慌てて駆けつけてきたようだね」
 穏やかさを取り戻したオリヴァーは興味深そうな視線をルイスに向けた。けれどもルイスもイオネもそれには気づかなかった。仕事を放り出してきてくれたのだと知ったイオネはルイスから目が離せなくなる。
「ルイス。イオネは今酷い頭痛に襲われているらしい。大きな声を出さないように。それからまだ身体の痺れが少し残っているそうだ。薬を飲んで安静にしていれば治るそうだから完全に元気になるまでは休みを出した。家でゆっくりと休ませるといい」
「……はい。ご連絡ありがとうございました」
「礼を言われるようなことじゃない。それよりもイオネに無理をさせるな」
「心得ました」
 ルイスはオリヴァーと会話をしながらもずっとイオネを見ている。二人の視線は絡まったままだ。オリヴァーは帰る時には使用人に声をかけるように言うと仕事に戻った。二人きりになった部屋の中、イオネは何か言わなくてはという焦燥に駆られる。
「ルイス、あの」
「何も言うな」
 ルイスに声を遮られて、イオネは口を噤む。どうすればいいのか分からないでいると、ルイスが手を伸ばしてきてイオネの顔に触れた。 
「酷い顔色だ」
 イオネは目を瞠った。イオネに触れているルイスの手が震えている。
「ルイス」
「……報せを聞いて、心臓が止まるかと思った」
 ルイスが瞼を伏せる。その時のことを思い浮かべているのだろうか、苦悩したような表情にイオネの胸が痛みを訴える。
 この人にこんな顔をさせてしまうなんて。
「ここに向かう間、ずっと気が気じゃなかった。君に何かあったら、なんて考えたくもないのに悪い想像ばかりしてしまって」
 ルイスにも心配をかけてしまった。とても酷い心配を。自己嫌悪がイオネの頭痛を酷くする。全く最悪の気分だった。
「辛そうな君を見ていると僕も辛い」
 ルイスだって充分辛そうだ。そうさせたのはイオネだ。わかっているから目を逸らさずに視線をしっかりと受け止める。そして思う。ルイスの辛そうな顔を見ているとイオネも苦しくなる。ルイスと同じだ。
「心配かけてごめんなさい」
「そう思うならしっかり休んで少しでも早く良くなって」
「ええ」
 イオネは頷いた。そう、ルイスの為にも一日でも早く治さなければ。彼にいつまでもこんな顔をさせられない。
 イオネの返事を聞いたルイスはようやく口元を緩めた。それでも表情の硬さは消えない。 
「イオネ、早く元気になって」 
 祈るようにかけられた声。そして、イオネの額にルイスの唇が触れる。あ、と思った時にはもうルイスは離れていた。
「起きれそうか?」
「あ、まだ、もう少し」
「そうか。それならもう少し横になっているといい」
 今度はイオネの頭にルイスの手が触れる。眠りを促すように優しく頭を撫でる感触は頭痛も和らげてくれるような気がした。
「眠ってもいいよ」
「ここにいてくれますか」
 尋ねながら、こんなことを言うなんて、と自分で驚いた。しかし意識せずに出たお願いは紛れもなく今のイオネの正直な気持ちだ。
「ああ、ずっとここにいるから」
 ルイスの言葉を聞いてイオネは安心して瞳を閉じる。掌から伝わってくるルイスの温度が心地良い。次に目覚めた時はきっと頭痛も少しはよくなっているはずだ。そうしたらルイスと共に家に帰ろう。この人と、一緒に。
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