約束の続き
4
戦場に行くのはとても嫌だった。
しかし自分で騎士になった身だ。どんなにやる気が無かろうが恐ろしかろうが行かなければならなかった。そこで逃げ出さない程度には良識はあったつもりだ。
戦争は想像以上に恐ろしかったよ。帝国の圧倒的な兵力に敵うわけがない。一目見て分かるのに、それでも戦わなければならなかった。誰もが疲れていた。精神が限界まで削られて、心を病んでいるような状態だった。
そんな中で僕は致命傷を負った。あの時のことはほとんど覚えていない。でも、凄まじい痛みと薄れ行く意識の中でこれで終わりかと思ったことは覚えている。いろんな人の顔が浮かんだよ。コーテア、君の顔もね。
目が覚めた時、僕は家に戻っていた。身体は全然思ったように動かないしあちこち痛くてたまらないし意識も朦朧としていた。状況を把握するまでに結構時間がかかったよ。
戦争で重症を負い、生死の間をずっとさまよっていたこと。その間にネルフェスカは降伏したこと。アティエット姫が帝国の後宮に入ったこと。君が着いていったこと。この身体が以前のようには動かせないこと。少し動かせるようになるのに長い時間がかかること。
悪夢だった。
国に戻って来たというのに、以前とはあまりに違いすぎて、世界一不幸な男だと思っていた。
どれだけ良くなっても普通に歩くことすら困難だと言われて絶望した。ましてやその時は指すらまともに動かせなかった時だ。何もかも失ったと思った。いっそ死ねば良かったとすら考えた。
家族ですら腫れ物に触るように扱った。友人が見舞に来ても自分の有様を見られたくなくて部屋に通せないでいた。
そんな日々がどれだけ続いただろうか。
ある日、医師が教えてくれたんだ。
何故国で一、二を争う医師が僕についていたか――コーテア、君が帝国行きに際して国から賜った謝礼のほとんどを僕の為に費やしてくれたことを。何としても僕を生かしたいと国王に掛け合って環境を整えてくれたことを。――家族が半ば僕のことを諦めていたことも聞いた。
どうしてそんなことをしたのかと恨む気持ちもあった。
でもそれ以上に僕のことをそれだけ心配してくれる人間がいたことに気持ちが動いた。
君がどれだけ必死に掛け合ってくれたか聞いたよ。自分のこともエドバリ侯爵家のことも構わず、僕のことだけを国王に頼んだと。
医師は言った。
僕のことだけがコーテアの一番の未練だったと。あの時、僕は確かに救われたんだ。
あまりにたくさんのものを失った気でいた。君も離れていったと思った。アティエット様の侍女だからと言っても帝国まで着いていかなくてもよかったんじゃないかと思っていた。でも、残ったところで婚約解消は避けられなかっただろう。どちらにせよ、いなくなってしまっていたと思った君が実はずっと見えないところで僕に寄り添っていてくれたんだ。それに気づいて涙を止めることが出来なかった。
僕が生きることを君が望んでいるのなら、もう少し頑張って生きてみようと初めて思えた。
そこからリハビリをする気になった。とても辛かったし、何度も投げだそうとした。でも、やめることもできなかった。
お陰で少しずつ身体を自分の意思で動かせるようになった。手がある程度動かせるようになった時、君に手紙を書きたいと思った。感謝の言葉を伝えたいと――そこから手紙を書き始めたんだ。最初はとても時間がかかったよ。字も上手く書けないし、少し書いただけで凄く手が疲れてしまっていた。それでもなんとか書き上げることが出来て久しぶりに嬉しくなった。でも出したら出したで返事が来るか不安になって。だから返事が来た時には本当に嬉しくてたまらなかった。
手紙からは君が元気そうなのが伝わってきて安心した。僕が命を取り留めたことをとても喜んでくれていて……生きていて良かったと初めてちゃんと思えたんだ。そして、もっと頑張らなければと思った。もっと努力していろんなことができるようになれば君は安心するだろう、君の気持ちに報いることができるだろうと。
僕は時々手紙を送って良い報告を君に出来ればいい。しばらくはそれが目標だった。
目標があると不思議と人間は頑張れるものだね。うまくいかないこともたくさんあった。とても時間がかかった。でも努力は実って、自力で起き上がれるようになって、手すりがあれば歩けるようになって、それが杖になって、今は少しの距離なら杖がなくても大丈夫になった。字は速くは書けないけれど、一定時間書き続けるのは問題ない。あの頃から考えれば奇跡だ。でもそれは一人では起こせなかった。環境を整えてくれたのは君だ、コーテア。
ただ、大きくなる不安もあった。
僕はいつか君にきちんとこれまでの援助の分は返そうと思っているのに、何度それを手紙に書いても君はそれには触れない。やめるつもりがないのだと伝わってきたよ。現に、金額に動きはあるけれど毎年小切手が届けられている。
男としては情けないことだ。女性に養ってもらっているわけだからね。それも元婚約者だ。僕がコーテアにあげられる見返りは何もない。それなのに援助は続く。このままでは駄目だと思った。
君には君の人生がある。いつまでも僕に関わっていていい筈がない。
結婚した時、夫となる人が快く思う訳がない。そもそも、君が未だに結婚の報せを寄越さないのは僕のせいじゃないか。僕が君の将来を邪魔しているのではないか――そう思うと心苦しかった。
だったら僕から縁を切るべきじゃないか。
自分の生活に不具合が出ても身体が大変になっても援助を受け取らず突き返して、手紙もやめた方がいい。そうも思った。
でも踏ん切りがつかなかった。
金のことはまだしも、今の僕の生活は君との文通に心を慰められていて、寂しい生活の唯一の楽しみだった。君が紹介してくれた本を読んで、その感想を交わしたり、君がどんな気持ちでその本を読んだのかとか、どうしてこの本を選んだのかとか、想像するだけでも楽しかった。
君の好意に甘えすぎだという自覚はある。
でも、それでも僕は自分から君との繋がりを断つことは出来ないんだ。
五つも年下の女性に命を救われ、生活を助けてもらい、挙げ句の果てに頼り切っているなんて本当に情けない生き方だ。
それでも、僕が君の人生の妨げになっているなら、僕は喜んで君の人生から消えるよ。君を苦しめたくはない。ましてや、これ以上はもう負担になりたくないんだ。
長い告白が終わった時には、コーテアの目から涙がひっきりなしに溢れていた。
スヴェンがそんなふうに思ってくれていただなんて。
彼を悩ませておきながら歓喜に胸が震える自分はとんでもない女かもしれない。それでも、自分の悪い想像とはかけ離れた真実にコーテアは安堵した。
コーテアの身勝手な振る舞いとをスヴェンは受け入れてくれていた。
それどころか、コーテアのことまで心配してくれていた。
「私のしたことは、スヴェン様の迷惑ではなかったのですね」
「君はずっと僕を救い続けてくれていた。迷惑なんて死んでも思う筈がない」
死んでも、なんて言葉はスヴェンの口から聞きたくない。
「私……帝国行きを決めてからスヴェン様が大変なことになったと知って、お見舞いをして……。姫様に着いていく気持ちは変わりませんでした。心は揺れました。でも残ってしまったら姫様のことが心配でいてもたってもいられない。それに医師でもない私はスヴェン様に何ができるわけでもない。それでも生きて欲しかった。二度と会えなくても、それがあなたにとって過酷なことでも、私は…………」
動かなくなった身体を動かせるようにするにはとてつもない時間と根気が必要だという。長い間苦しみの中に身を置かなければならないと医師は出立前のコーテアに説明した。それがスヴェンにとって残酷な現実になると頭では理解しながらも、スヴェンにそれを課すことを望んだ。
「いいんだ。お陰でこうしてまた君に会えたから。それだけで今までの全てが報われた気がする。それに、実は目覚めてしばらくしてからアティエット様に手紙を頂いたんだ」
「姫様が?」
「自分の我が儘で君を奪って済まないと。君は僕のことを心から心配していると。だから恨むなら自分を恨んで欲しいと書かれていた」
「姫様……」
肝心のコーテアには内緒でそんなことをしていたなんて。
年下なのに、妹のような存在なのに、どうしても敵わないところがある。あの皇帝陛下にいたく気に入られるのも当然だ。
どこまでいっても自慢のアティエットだ。姫様から、皇子妃様になっても。
ところで、とスヴェンが言葉を切り出した。重い声にそれがいい話ではないことを知る。
「援助の件だが……僕の方はもう大丈夫だ。今は家の仕事を手伝っているからそれなりに使える金も出てきた。君の援助で作らせてもらったこの離れはとても快適だし、以前のことを思えば困ることも本当に少なくなったんだ。後は少しずつになるだろうけれど、君に返していくだけだと思う」
避けては通れない話題にコーテアはゆっくり瞬きをした。
どう考えても、これはスヴェンの方が正しいのだろう。これ以上彼の意思を無視するのは酷だ。せっかく解けた誤解も、何の意味も無くなってしまう。
でも、先にコーテアも話すべきことは話さなければと思った。彼が話してくれたように。
「私も怖かったのです」
「コーテア」
「スヴェン様は一命を取り留めた。けれども、今日までには生き地獄のような日々もあったでしょう。それを強いた私を恨んでいるのではないかと、先程もおっしゃったように殿方の誇りを踏みにじるような状況に怒っているのではないかと。手紙ではそんな様子はなかった。でもそれは、私を恩人扱いする以上匂わせないだけで、本当はもう関わりたくないと考えていたらどうしようと……そんなことばかり考えていました」
「とんでもない!そんなことあるものか」
「ええ。今はわかります。でも、ずっとそう思っていた私は、援助をしている限り、スヴェン様との繋がりは切れないとどこかで考えていました。単なる文通ではいつ途絶えてしまうかわからない。でも、お金が絡めばスヴェン様は私を無視出来なくなる。……醜い女です。自分の勝手な願いであなたを縛り付けておいて、逃がさないようにしようとしていた。でも私もあなたを失いたくなかったのです。もう婚約者でもなんでもないのに」
失って初めて自分にとっての存在の大きさがわかるなんてよくある話だ。
コーテアもスヴェンを失いかけた時に彼が大切だったことに気づいた。そこから必死になったのは、大切な存在を失いたくない、その思いだけだった。
「でも、こうしてスヴェン様にお会いして、そんな醜い手段を使わなくてもいいのだと。今はそう思います。今までの援助のことは捨て置き下さい。返そうなんて考えず、これからのご自分の為にお使い下さい。私はスヴェン様が生きているだけでもう充分なのですから」
「しかし」
スヴェンは納得のいかない表情だ。無理もない。しかしコーテアもこれ以上は譲歩するつもりはなかった。それを笑顔で伝えるとスヴェンは押し黙った。
「文通は今まで通り続けて下さいますか?」
「勿論。僕もそれだけは変えないでいて欲しい。何も無い日々の、ささやかな楽しみなんだ」
「光栄ですわ」
気づけば長い時間が経っていた。
そろそろ帰らなければ日が暮れる。
名残惜しいが、この辺りが潮時だとコーテアは思った。スヴェンにもそれが伝わったのだろう、彼も寂しそうな顔をした。
コーテアは長椅子から立ち上がり、後に続こうとしたスヴェンを仕草でそのまま押し留める。
「二度と顔を合わせることはないと思っていたスヴェン様にこうしてお会いできました。こんな良き日に恵まれたことを心から嬉しく思います。本当に、もう一度お姿を見れてよかった」
「僕もだ。君は一生アティエット様から離れるつもりは無いんだろう?」
「ええ。私の生きる場所は姫様のお傍ですから。……きっともう、二度とお目にかかれないと思います」
「元々二度と会えないと思っていたんだ。今こうして会えただけで神に深く感謝している。でも、もう会えなくても手紙を書くから」
「楽しみにしています」
これ以上ここに居ると離れたくなくなってしまいそうだった。
コーテアはそっと目を伏せる。
これが本当の今生の別れだと思うと辛かった。
でも、動けるようになったスヴェンに会えて、長年のわだかまりを消せただけでも良かったのだ。
型通りの別れを告げると、コーテアは書斎を出た。フランツは客間で本を読んでいた。その本が以前スヴェンに紹介した物であることに気づいてコーテアは嬉しいようなもの悲しいような気持ちになる。
「ちゃんと話せたのか」
「はい。強引でしたけど、お兄様には感謝しています。ここに来れて良かった」
「このまま帰るのか?」
「当然でしょう?これでも私、未婚なんです。それに、明日には姫様のところに戻りますから」
「そうか」
フランツは苦い顔をしたが、コーテアは見て見ぬ振りをした。
帰りの馬車では一言の会話もなかった。
それでも行きよりはコーテアの心は軽くなっていた。
これでよかったのだと自分に言い聞かせた。
* * *
「ただいま戻りました」
翌日、予定より早く帰省を切り上げて戻って来たコーテアにアティエットは静かな眼差しを向けた。
「まだ休みはあるのよ」
「充分です。姫様がいないと物足りなくてたまりませんわ」
「聞いたわよ。マルクンド侯爵家の領地に行ったのでしょう」
「流石姫様。耳が早いことで」
コーテアのことが気になって動向を探らせたのだろう。しかしコーテアは悪い気はしなかった。
「ええ、お会いしてきました。とんだ不意打ちでしたけど、でも、もう思い残すことはありません。また日常に戻るだけですわ」
「コーテア。私は、あなたに暇を出す覚悟も決めていたのよ」
深刻な顔でアティエットが告げたことはコーテアにとって衝撃的だった。
アティエットにとってコーテアが大切でなくなったという意味でないことはわかっている。八年も帝国に居るが、それでもアティエットの腹心の侍女はコーテアだけだ。コーテアが居なくなってアティエットが困ることも沢山ある。
それでもそんな決心をさせてしまったのは自分の不甲斐なさだ。
コーテアは申し訳なくなったが、精一杯の笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます。姫様にもいろいろとご心配をお掛けしましたけれど、でも私は一生姫様にお仕えするんですから、そんな寂しいことをおっしゃらないで下さいませ」
コーテアがきっぱり言えば、アティエットはもうそれ以上話そうとはしなかった。気分を害したのだろうか、ユルトディンがやってくるとコーテアを下げて二人で部屋に引き籠もってしまった。
しばらくはアティエットの機嫌は直らないかもしれない。
それも仕方ないことだと思い、コーテアはアティエットの声が掛かるまでそこで待機することにした。
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