約束の続き

モドル | ススム | モクジ

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 コーテアは鬱々とした気持ちを持て余している内に一行はネルフェスカに着いてしまった。初日は城に泊まったコーテアだが、翌日には実家に戻った。短い暇をアティエットに告げた時、彼女はユルトディンに届かないよう声を潜めた。
「三日が五日になっても構わないわ。やり残しがあるまま戻ってきてはだめよ」
 その表情を見てアティエットはコーテアとスヴェンの現状を知っているのだと察した。コーテアはスヴェンの意識が回復し、しかし身体に不自由が残るというところまでは自分の口から報告したが、それ以降はアティエットにすら何も言わなかった。
 けれどもアティエットは知っていたのだ。
 コーテアがネルフェスカに調査を頼んでいる以上当然のことだったかもしれない。
「いいえ、姫様。すぐに戻ります」
 暗に会う気は無いのだと告げるとアティエットは苦しそうな顔をした。
 姫様に余分な心を砕かせてしまったと落ちこみながら帰ったエドバリ侯爵家には両親と兄姉達、初めて会う甥姪達がコーテアを待っていた。
 帰省と言ってもほとんど客人扱いだ。ツァルク帝国で仕立ててきた為、その場にいる誰よりも上等のドレスを着ていることにコーテアは居心地の悪さを覚えた。けれども八年ぶりともあって家族は全く気にしない。
「よく帰ってきたな」
「立派になって……」
 温かく抱擁する母は記憶よりも小さくなっているような気がした。
 屋敷は相変わらず経済難を匂わせており、彼らよりもコーテアの方が余程待遇が良かったのだろうと思わせる。
 時々手紙のやりとりはしていたものの、初めて会う甥姪達との食事は妙に緊張した。叔母様と一人の甥に呼ばれて軽くショックだったが、考えてみればコーテアももう二十三歳だ。立派に嫁ぎ遅れだが、そもそも結婚するつもりもない。それでもやはり叔母様呼びは辛かった。
 食事が終わると下の兄ハインツが寄ってきた。
「どうだ、久しぶりに街でも。いろいろ変わったぞ」
 出歩く気分でも無かったが、これ以上「叔母様」と呼ばれると無駄にへこみそうで、それならばとハインツの誘いに乗った。甥姪達はついてきたがったが、ハインツが「子どもは留守番だ」と制して馬車を閉めてしまった。
 昼下がりの街並みは美しく、コーテアの記憶には無い風景もたくさんあった。
「八年は本当に大きいのですね。まるで知らないところのよう」
「そうだな。コーテアも私達が知らない令嬢のようだ。正直、見違えた」
「普段はもっと落ち着いた格好ですよ。見違えたのは姫様です」
「そうか。明日あたりお姿を拝見できるかもしれない。その時に目に焼き付けておこう」
「失礼な真似はなさらないでくださいませ」
「勿論だ」
 冗談を言い合って笑っていると、コーテアはいつの間にか城下を離れていることに気づいた。
「兄様、この馬車はどこへ?」
「マルクンド侯爵領」
 名前を聞いた途端、コーテアの背筋が凍りついた。
「やめて!」
 叫んだのなんていつ以来だろう?
 コーテアはハインツの方に身を乗り出して訴えるが、ハインツは落ち着くように手で指示するだけだ。とても冷静な様子の兄に、コーテアは「どうして」と呟く。
「私とスヴェンは同い年の友人だと忘れていたかな?」
 言われてみればそうだった。ハインツもスヴェンもコーテアより五歳年上だ。
「私も忙しいから滅多に会えないが、手紙だけはよく行き来しているんだ。スヴェンはずっとコーテアのことを気に掛けている。文通もしているのだろう?しかし肝心の部分は全く相手にしてもらえないとスヴェンは困っていた」
「それは」
「コーテアにも思うところはあるだろう。しかし、スヴェンも悩んでいるんだ」
 胸を抉られたようだった。
 ずっと辛かった。悩んできた。けれどもそれはコーテアだけではない。コーテアはスヴェンの怒りや嫌悪こそ想像したが、彼の悩みを増してしまっていることまでは考えていなかった。
「今のままではスヴェンが前に進めない」
 ハインツはそっとコーテアの肩に触れた。
「コーテアはそんなつもりではないかもしれない。実際、コーテアがしたことは彼を助けているよ。コーテアの援助がなければスヴェンはここまで回復しなかっただろうし、もっと生活に困っていただろう。でも、スヴェンも大分自分でどうにかできることが増えてきた。そろそろ次の段階に行くべきだ。その為に、だからどうかスヴェンと会ってやってくれ」
 諭すように紡がれたハインツの声だったが、それでもコーテアは頷くことができなかった。
「……時間を。時間をください」
 突然のことで頭の中がぐちゃぐちゃだ。
 自分がスヴェンを悩ませている。苦しめている。
 スヴェンが次に進むのを妨げてしまっていたのだろうか。彼が次の段階に行くというのはどういうことだろう?
 コーテアがもうスヴェンに関わらないということ。スヴェンとの繋がりを断つということ。そうだとしたならば、考えただけで心が壊れてしまいそうだった。
 せめて自分の気持ちを整理したい。そう思ったけれど、ハインツはゆっくり首を振った。
「残念だが、もう着いてしまったよ」
 馬車は、マルクンド侯爵家領館の玄関に駐められていた。


*        *        *

 

 コーテアがハインツと共に案内されたのは侯爵家の本館ではなく離れだった。離れなどあっただろうかと首を傾げたコーテアに、ハインツはスヴェンの不自由を減らす為に作られたものだと説明した。一階建てのまだ新しい離れは廊下が広く、あちらこちらに手すりがつけられている。過度な装飾が無く、それでいて洗練された感じがした。
 ここが今のスヴェンの生活の場だと思うと胸が苦しくなった。
 身体は完全には治らなかった。特に足が悪くて未だに引きずっているという。
 そんな彼を見て平気でいられるだろうか。
 いや、それよりも彼がコーテアに向ける瞳がどんなものか想像するだけで怖かった。手紙の文言からは決して知り得ることのないスヴェンの気持ちなんて。
「スヴェン様、エドバリ侯爵家のハインツ様がお見えです」
 コーテアの名前が出なかったことに少しだけホッとした。この使用人はコーテアのことを知らないのだろう。
 ほんの少しだけ余裕が出来たような気がする。
 先に入ると言ってハインツは扉を開いた。コーテアは中から姿が見えないように慌てて身を隠す。
「やあ、スヴェン。調子はどうだい」
「変わらないよ。書き仕事にはあまり影響ない」
 記憶の中に眠っていた声に、コーテアの胸が締め付けられる。
「そうか、相変わらずか。残念だな。うちの悪戯ボウズを連れてくるにはまだ早いかもしれない」
「賢くしつけておいてくれよ。取り敢えずかくれんぼと鬼ごっこは無理だな。チェスなら何時間でも相手をしよう」
「それじゃああと十年は無理だな」
 笑い合うスヴェンとハインツの声にコーテアは涙が出そうだった。
 ネルフェスカを去る時にはまだスヴェンは意識不明の重体だった。意識が戻る可能性は低かった。それに加えてコーテアは二度とここには戻れないと思っていた。いずれにせよ生きてスヴェンに会うことなど叶わないと思っていたのに。こうしてまた声が聞けるなんて。
「しかし今日はどうしたんだ?奥方と喧嘩でもしたのか?それとも仕事から逃げたのか?」
「いや、そうじゃない。スヴェン、最近、アティエット様が帝国の皇子妃になられただろう」
「最近と言うか数ヶ月前の話じゃないか?この領地は都に近い。情報は普通に入ってくるぞ」
「姫様が新婚旅行でこちらに寄られているのは?」
「聞いていたが、今なのか。それは知らなかったな」
「コーテアも帰ってきているぞ」
「コーテアが?」
 八年ぶりに彼が自分の名前を呼ぶのを聞いてコーテアの心臓は速く脈打ち始める。その後に降りた沈黙がそれをいっそう加速させた。
 スヴェンはどう思っているのだろう?
 やはり快く思っていないのだろうか。
 こんな状況で出て行くことなんて出来ない。
 怖じ気づくコーテアの腕を、いつの間にか部屋から出てきていたハインツが捉えた。もう片方の手で背を押され、あっという間に部屋の中に足を踏み入れていた。後ろで軽い音がした。ハインツが出て行って扉が閉まったのだがコーテアは最早そんなことを考えてはいられなかった。
 まるで時が止まったようだった。
 部屋の中には大きな書斎机があり、その向こうにスヴェンが座っていた。
 以前より大人びて、そして線が細くなっただろうか。
 驚愕の表情でコーテアを見つめているスヴェンはコーテアの八年前の祈りが叶ったことを実感させた。
 ああ、本当に生きている。
 疑っていたわけではない。それでも自分の目で初めて見て、ようやく安心できた。
 でも忘れてはならない。スヴェンは以前のように生活するのは困難な身体になってしまったのだ。
「……コーテア?」
 確かめるような声だった。まるで幻でも見ているかのような。
「はい、スヴェン様」
 やっとコーテアも声を出すことが出来た。
「……夢かと思った。君があまりに綺麗になっているから」
 スヴェンらしくないお世辞だ。
 以前の彼ならば――と考えかけてコーテアはやめた。八年の月日は人が変わるには充分だ。コーテアだって、スヴェンの知るコーテアではないのかもしれない。
「……長い間、ご無沙汰しておりました。お許し下さい」
 頭を深く下げるとスヴェンの困惑したような声がかかる。
「やめてくれ。君が頭を下げるようなことなど何もない。それどころか頭を下げなければならないのは僕の方だ」
 コーテアが驚いて顔を上げると、今度はスヴェンの方が頭を下げた。
「君には感謝してもしきれない。同時に一生返しきれない恩を受けた……本当に何と言えばいいのか……」
「やめてください」
 頭を上げるように言ってもスヴェンは動かなかった。
「僕は君にも家にも世話になってる身だ。君が贈ってくれた援助は一生かかっても返しきれないかもしれない。でも、出来る限り何とかする」
「お願いだから頭を上げて下さい。違う、私、そんなつもりじゃ…………」
 スヴェンを直視出来なくてコーテアは顔を背けた。
「私はただスヴェン様に生きてもらいたかっただけ。でもそれが負担になっているのね……」
「負担だなんて!」
 たまらずスヴェンが顔を上げた。
「負担をかけているのは僕の方だ。僕はもう散々君に助けてもらった。これ以上、君に迷惑をかけるわけにはいかない」
 散々手紙で言われ続けてきたことだった。その度に無視したコーテアだったが、実際に言葉で言われるとどうしようもない悲しみに襲われた。
 逃げ続けてきた結果がこれだろうか。
 どれだけ逃げても泣いてもスヴェンとはこれが最後になるのだろう。
 それならば、彼の負担を少しでも軽くして去るのが自分の最後の役割なのかもしれない。
 決心はつかなかった。納得も出来ない。それでも、無言で居続けるよりは楽だった。
「スヴェン様、本当のことをおっしゃって下さい。本当は怒っていらっしゃるのでしょう?私は姫様を選んであなたを苦しめたツァルク帝国に行きました。あなたを見捨ててあちらに行ったのに、いつまで経っても勝手なことをする身勝手な女だと思っているのでは?度重なる要求も無視して、女の癖に出しゃばったことをして……」
 言っている内に嗚咽が込み上げてきた。涙を抑えることが出来なくて、それでもコーテアは顔を両手で覆って俯いた。
 こんなに惨めな気持ちになるなんて。
 でもどうしようもなく切なくて悲しくて胸が苦しくて、心細くてたまらない。
「コーテア、そんなことはない」
「私は自己満足の為にあなたをずっと傷つけ続けてきたのかもしれない。今日、やっとその考えに至りました」
 自分のことで精一杯で何も見えていなかった。
 情けない。恥ずかしい。本当にどうしようもない。いっそ消えてしまいたいと考えてしまう程に。
 ガタンと音がした。
 スヴェンがゆっくりと立ち上がり、ぎこちない動作で机の向こうからコーテアの方にやってきた。その歩行は誰が見ても足が不自由なのだと一目でわかるものだった。
「コーテア、座ってくれないか。頼む」
 傍に来てそう言われれば頷くより他にない。コーテアは近くの長椅子に腰を下ろす。隣にスヴェンが座った。
「きっと君は勘違いをしている。恐らく、僕も。この際だから何もかも話すべきじゃないだろうか。そうでなければ一生平行線のままだろう」
 スヴェンがそう言うのならばそうかもしれない。何もかも、というのは怖かったがそれでも他ならぬスヴェンの希望だから聞かなければならないとコーテアは思った。
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