約束の続き

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 多くの令嬢が政略結婚を課せられるように、コーテアも父侯爵に決められた婚約者がいた。マルクンド侯爵家の三男スヴェンはコーテアより五歳年上の騎士だった。
 嫡男ではないし、手に職を持っていた方が将来困らないかもしれない。最初に聞いた時はそんなふうにコーテアは思ったものだが、実際に会ってみるとこれがなかなか仕事に不真面目な人間で呆れかえった。
 人としては問題無い――と言いたいところだが、やたらとコーテアの恋愛小説好きに口を挟んでくる。辞めろとは言わないものの、他のものも読めといろいろ勧めてくる。コーテアとしては一番の趣味にあれこれ言われるのは面白くない。自然と喧嘩腰になってしまうのはある意味仕方のないことだった。
「あら、コーテア。珍しいものを持っているわね。推理小説にはまったの?」
 アティエットがコーテアの抱えている本を見て笑った。題名は最近人気の推理小説作家の最新作だ。アティエットに指摘されたコーテアは渋い顔になる。
「いえ、読めと押しつけられました」
「誰に?」
「マルクンド侯爵家のスヴェン様です」
「ああ、コーテアの婚約者ね。いいじゃない。お勧めの本を紹介し合えるなんて楽しそう」
 楽しそう!?
 廊下ですれ違いざまに「たまにはこういうのも読め」といきなり渡されたのだ。コーテアが拒否する時間もなかった。妙に軽い足取りで振り返った時には遥か彼方に姿が消えつつあった。あの素早い歩行でいつも訓練から抜け出しているのだろうか、きっとそうに違いない。
「興味のないものを読めと言われても気が進みません。姫様、突然哲学書をぽんと渡されたら読みますか?」
「それは嫌ね。でもそれは哲学書じゃなくて推理小説じゃない。楽しそうだわ」
「だったらお先にどうぞ。私は後で充分ですから」
「だめよ。コーテアに貸したものなんでしょう?それよりもコーテア、次は剣の時間なんだから、早く支度を手伝ってちょうだい。あなたと試合するの、楽しみにしてるんだから」
「そうでしたわね。私も姫様と剣を交えるのが一番楽しみですわ」
 国王一家では護身と健康な身体づくりを兼ねて王妃や姫達も剣を習っている。男子のそれとは違って、完全に最低限のレベルだが、身体を動かすのが好きなコーテアとアティエットにとってとても楽しみな時間になっていた。おかげで二人とも肥満とは無縁の体型を保っている。王妃もなかなかのものだ。
 出会い頭に渡された本のことは一時忘れよう。
 そう思ったのに、こともあろうか今日の剣の訓練にはスヴェンの顔もあった。
「……どうしてあなたがここに?」
「当番だったんだ」
「サボればいいのに」
「流石にこれをサボるなんて畏れ多い真似はできない」
「今更変わりません」
 そんなやりとりをしているとアティエットがクスクスと笑った。
「仲がいいのね。羨ましいわ」
「なっ……姫様!それは目がく、おかしいですわ!」
「おい、今、目が腐ってるって言おうとしなかったか?」
「誰がそんな畏れ多い!スヴェン様、姫様にそのような暴言、許されませんよ!」
「なんで俺が言ったことになってるんだ」
 そんな二人の姿を見てアティエットはますます笑うのだった。

 時間は穏やかに流れていく。
 けれど、ある時急に加速してしまった。
 戦争が起こったのだ。

「出征することになった。来週旅立つ」
 珍しくスヴェンから呼び出されたコーテアは、図書館のテラスで突然告げられた言葉をすぐには理解できなかった。
「……ろくに訓練もしていない騎士が行って役に立つのですか」
「立たないだろうな。でも行くしかない。相手は帝国だ。降伏するのも時間の問題だが、最初からそうは出来ないんだろうな。僕達は上に従うだけだ」
 コーテアの辛口に、スヴェンは苦笑しながら、けれどもはっきりと言った。
 あちこちで戦争し、方々の国を手中に収めてきたツァルク帝国の魔手がついにネルフェスカ王国にまで伸びようとしていた。帝国に比べればなんてことない小国だ。しかし、この国の宝石の質は周辺諸国の中で群を抜いている。
 軍事力は圧倒的大差でネルフェスカが太刀打ちできる訳がない。最初から誰もがわかっていた。しかし、国王はなんとか国に被害が少ない条件で戦争を終わらせるよう奔走している。
 降伏の条件を整えるまでの出征だと知っていてのうのうと戦場に人を送り出せるほどコーテアは残酷にはなれなかった。
 いけすかないところもたくさんある婚約者だ。
 でも、あまりにも身近な人だ。
 戦場に行ったら二度と帰って来ないかもしれない。侯爵家の三男とはいえ、どんな状況が待ち受けているかわからないのだから。
 普段は暢気な顔でサボっているスヴェンもこの時ばかりは真剣な面持ちだった。
「どうなるかわからない。でも、しばらく会えなくなるのは確かだから――」
 テーブルの上に置いてあった分厚い本を手に取り、コーテアに差し出した。
「次に会った時、暗唱できるくらいにはなっておけ」
 おずおずと受け取ったコーテアの両腕に本にしては慣れない重みがのし掛かる。表紙に名前だけは有名な政治学者の名前が書かれていて、こんな時なのにコーテアはむっとした。
「レディーにこーんな政治書を読ませるなんてデリカシーの無い人ですね」
「将来役に立つと思って」
「…………仕方ないですね」
 本を抱え直したコーテアは真っ直ぐにスヴェンを見上げた。
「ご武運をお祈りします。お帰りの際は『つまらなかった』とこの本の角で頭を打って差し上げますので心構えをお忘れ無く」
「それは怖いな。兜をずっと外せない。せいぜい反射神経を鍛えてくるよ」
「是非そうしてください」
 本当に帰ってこれるかわからない。
 そんな状況でのコーテアの精一杯の言葉だった。
 行かないで、と言えるような関係ではないしそれを言える立場でもない。そもそもコーテア自身そう思っているかどうかもわからなかった。
 でも一つだけ確かな気持ちがあった。
 どうか無事に帰ってきて欲しい。
 何事もなく、また元気な姿で前に現れたら、渡された政治書で思い切り頭を殴るのだ。

 スヴェンが出征して一ヶ月後、呆気なくネルフェスカ王国は降伏した。
 国王を始めとする中枢機関の必死の交渉で出来うる限り条件を軽くしたが、それでもネルフェスカ王国がツァルク帝国の統治下に入ること、毎年税を納めること、そしてアティエットを側室として献上することは避けられなかった。
 最初にコーテアがそれを知った時、アティエット以上に動揺した。
 十四歳になったばかりの姫様になんて惨いことを――――。
 けれども年下のアティエットはコーテアと共に育っていながら、生まれながらにして王女だった。
「これも国の為、民の為」
 嫌だとは一言も口にしなかった。
 重苦しい雰囲気はどうしても拭えなかったが、それでも自分の役割だと引き受けた。
 姫様だけに背負わせてはいけない。帝国のありとあらゆる苦行からアティエットを守り抜いてみせる。それが自分の役割だ。
 そう思っていたコーテアに、アティエットは逡巡しながら帝国に着いてきてくれないかと尋ねた。コーテアが拒む理由はない。
「姫様、地の果てまでも一緒に参りますからね」
 この時、スヴェンのことはすっかり頭から抜け落ちていた。
 アティエットの帝国行きの準備期間は短く、従ってコーテアも急いで準備をしなければならなかった。父侯爵はコーテアの決断に怒りを見せたがコーテアの琴線には全く触れなかった。それでもそれまで疎遠だった兄姉がコーテアのことを多少気にするようになり、ほんの少しだけ家族の繋がりを意識し始めた時、その報せはやってきた。

 スヴェン帰還の報せは、彼が意識不明の重症だという衝撃的な事実も載せられていた。マルクンド侯爵家からの連絡を受けてコーテアは急いで侯爵家に駆けつけた。
 なんでもスヴェンは帝国軍と交戦し、そこで深手を負い、それ以来意識が戻っていないという。今も尚生死の間をさまよい続けているスヴェンを目の前にして、コーテアは愕然とした。
 スヴェンは真っ青な顔色で苦悶の表情を浮かべていた。傍には医師が付き添い、額の汗を拭ったり世話をしている。
「どうして、こんな……」
 それ以上は言葉にならなかった。
 膝から崩れ落ちたコーテアの目から涙が出てくる。それでも顔は覆わずにスヴェンから視線を逸らさなかった。
「万が一助かったとしても、身体には不自由が残るそうだ。特に足は……」
 スヴェンの兄の説明に胸が引き裂かれるようだった。
 コーテアがアティエットについていくことが決まった時点でスヴェンとの婚約は実質白紙になっていた。それでもマルクンド侯爵家が連絡をくれるくらいにはコーテアとスヴェンは近かった。
 せっかく帰ってきても、今にも死にそうな人にあんな分厚い本の角をぶつけられるわけないじゃない――。
 見当違いなことを考えながら、コーテアはふらふらと立ち上がった。
「こう言うのも変だが、あなたが姫様と一緒に行かれることになってよかったのかもしれない。どのみち、婚約は破談だっただろう」
「そうでしょうか」
 それは自分に対する問いかけだった。
 もし前後が入れ替わっていたら、自分は帝国行きを引き受けなかっただろうか?――いや、それだけは絶対に無かった。
 どんな状況でも、こんな時でさえ、コーテアの一番はアティエットだった。
 姫様を見捨てることは出来ない。
 でもこの人を見捨てて行けない。
 
「本当に良かったの?残ってもよかったのよ」
 城を出発した馬車の中で、アティエットが苦しそうな顔でコーテアに尋ねた。
 スヴェンのことを知るなり、アティエットはコーテアに残るように言った。頑なに頷かなかったのはコーテアの方だった。
「大丈夫です。私は一生姫様の侍女として生きると決めたのです。それに、後のことは国王様にお願いしましたから」
 切羽詰まったコーテアは国王と面会し、多額の謝礼を手に入れた。そのほとんどを今後しばらくのスヴェンの治療費に充て、国で一、二を争う名医を雇った。スヴェンの様子については帝国に定期的に連絡を寄越すように国王に頼んだ。マルクンド侯爵家に直接頼むよりは、そちらの方が正確な情報を手に入れられると踏んだからだ。
 スヴェンを救いたい。
 それだけの思いで動いていた。
 スヴェンを見舞った時、マルクンド侯爵家は彼をもう諦めてしまっているように感じた。嫡男でもなんでもないスヴェンに何かあったとしても仕方ないと。
 コーテアの思い違いかもしれない。でもあの時感じた不安を無視することも出来なかった。
 だからと言ってコーテアがネルフェスカに残ったとしても、何の役にも立たない。だったら、スヴェンが彼の人生を再び送れるように最善を尽くそうと思った。
 彼には生きていて欲しい。
 戦場で命を散らすような生き方をするべき人じゃない。
 そして自分は彼をあんなふうに苦しめた帝国でアティエットを支えよう。
 姫様が少しでも困らないように。幸せになれるように。
 それがコーテアの出した結論だった。 


*        *        *

 

 コーテアが帝国に着いて少しした頃、スヴェンが意識を取り戻したと手紙が来た。
 その後も定期的に報告を受けたが、回復の様子は芳しくなく、結局スヴェンは身体に不自由が残ってしまった。一時期は起き上がるのも困難だったそうだが、長年のリハビリによって最近では杖があればある程度自分で動けるらしい。しかしそれも一定時間だという。
 コーテアは帝国から給料が支給されるようになっても、毎年、助けになるだろう金額をスヴェンの元に贈り続けている。
 スヴェンの腕が動けるようになった頃から時々手紙が来るようになった。
 ぎこちなさを隠し切れない文字からは彼がまだまだ大変な状態だということが伝わってきた。
 内容はコーテアのお陰で一命を取り留めたことへの感謝、近況報告、そしてコーテアの出した金はいつか必ず返すというものだった。
 コーテアは最後の部分を無視して返事を書いた。スヴェンが少しずつ回復していることを喜び、自分の近況報告をした。
 それを気にスヴェンと年に数回の文通が始まったが、コーテアは一切資金援助のことについては触れなかった。
 金額は少しずつ減らした。けれども決して少ない金額ではなかった。
 実家のエドバリ侯爵家に何も贈らず、元婚約者のスヴェンに贈り続けるのはおかしいと自分でも思いながら、それでもやめられなかった。
 けれども良かったのだと思う。
 ネルフェスカからの報告では、マルクンド侯爵家はスヴェンが回復して以降、できるだけ干渉しないでいるようだったから。
 ここ数年は領地に引っ込み、孤独に執務の手伝いをしているという。それを知った頃から、コーテアは手紙に最近読んだ本のリストを付け加え、適当な本を一、二冊選んで送るようになった。
 スヴェンは本を贈られることは負担に思わないらしく、毎回、贈った本について律儀に感想を書いてくれている。それについて更にコーテアが話を続ける時もある。
 けれどもやはり資金援助の停止を求める声は毎回消えなかったし、コーテアがそれを無視するのも毎回のことだった。
 本当は怒っているのではないかと思う。
 スヴェンはコーテアが余分なことをしたと思っているかもしれない。そもそも普通に考えて、男が女に養ってもらうのはいい気分ではないに決まっている。
 丁寧な文面の裏に恨み言が隠されているのではないか。もう関わらないで欲しいと思われているのではないか。そもそも、自分の身体を不自由にした帝国に行った元婚約者のことを許せないのではないか。
 帝国でのあまりに意外な平穏の中でコーテアがずっと抱いてきた恐れだった。
 それに目を瞑っての文通はとても神経を使った。
 アティエットの新婚旅行先にネルフェスカが含まれていたのは素直に喜ばしかった。けれども、スヴェンのことが頭を掠めて複雑な気持ちになった。
 会いたい。
 けれども怖い。
 会いたくない。
 文通で充分な筈だ。
 そもそも自分はもう婚約者ではないのだからと言い聞かせ、スヴェンのことを頭から必死で離そうとした。
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