約束の続き

ススム | モクジ

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 ネルフェスカ王国のアティエット王女がツァルク帝国第一皇子妃になってから早二ヶ月。
 一ヶ月半前に始まった国内視察を兼ねた長い新婚旅行は終盤に差し掛かりつつあった。次の目的地はアティエットが一番楽しみにしている場所――故郷ネルフェスカだった。ツァルク帝国に行ってから実に八年ぶりの帰国である。
 侍女として当然ながら帯同したコーテアは珍しく浮かれているアティエットを微笑ましく見つめていた。
「大丈夫かしら?旅行中の食事で太ってしまってない?それとも疲れが顔に出てたらどうしましょう。明後日にはネルフェスカに入るのだもの、直せるところは今の内に直さなくちゃ」
「何も心配することは無いぞ、アティ。アティは今日も綺麗で最高な私の妻だ」
「まあ、殿下ったら」
 皇室専用馬車とはいえ、部屋に比べたら決して広くはない場所の目と鼻の先でいちゃつく主夫妻――主にユルトディン殿下の方に生温い視線を向けながらコーテアは胸中で呟く。
 今のは私に話しかけたのに横取りするのはやめていただけません?
 勿論、実際に口に出しはしない。
 一応優秀な侍女を自負しているコーテアは向かいに座る主夫妻――おまけだが今となっては殿下も主人だ――にあからさまに無礼な態度を取ったりしない。しかも今回はアティエットがとてもとても楽しみにしているのだから。その気分を損ねるなんてとんでもない。
 だから目の前のやりとりは見ないに限る。
 コーテアは退屈しのぎに隣に座る殿下の侍従オブシェルに話しかけることにした。
「オブシェル殿はネルフェスカに行ったことはありますか」
「いえ、初めてです。知識しかありません」
「しがない小国ですわ。でも気に入っていただけるものもきっとあるでしょう」
「楽しみにしています。興味深い話もいろいろ耳にしているので」
 それは政治の話か、嗜好の話か。
 気になるけれどそんな興味は即座に捨ててしまう。
 どうせ取るに足らない話だとコーテアの直感が告げていた。
「ところで、コーテア殿はどれくらい実家にお戻りに?」
「……一泊すれば充分です」
「あら、私は三日休みを与えたつもりだったのだけど」
 アティエットが咎めるように言う。それは予想されたことだったのでコーテアはいつものおっとりした笑顔を返した。
「別にすることもありませんもの。どうせ客人扱いでしょうし、二度食事をするくらいでいいでしょう」
「次は無いかもしれないのよ。最後の親孝行だと思ってしっかり過ごしていらっしゃい。侯爵だって老い先長くないでしょうし」
「お金の心配をかけさせないことが一番の親孝行ですわ」
「流石の侯爵でもそこまでいかないと思うわ」
 会話を聞いていたユルトディンが驚いたように瞬きをする。
「なんだ、コーテアの父は侯爵だったのか」
「ええ。コーテアはれっきとした侯爵令嬢ですのよ」
「初耳だぞ、オブシェル」
 ユルトディンは責めるようにオブシェルを振り返る。
「貴族のご令嬢だと聞いてはいましたが侯爵家の方だということまで記憶していませんでした」
「なんだ、オブシェルも覚えていないことなら私が知らなくても問題ないな」
 奇妙な安心の仕方をしたユルトディンはにこやかにアティエットに微笑んだ。アティエットも笑みを返す。そうしてしまえばまたもやそこは二人の世界で、コーテアの出自の話題は綺麗に流れてしまう。
 下手に突っ込まれるよりいいと思い、しかしコーテアは瞳を閉じてあの日々を回想するのだった。


*        *        *

 

 エドバリ侯爵家の一員で一、二を争う時間に目が覚めるのは末娘のコーテアだった。十五歳になったばかりのコーテアは二人の兄よりも、もしかしたら父よりも朝が早いかもしれなかった。何故ならば八時までに城へ行かなければならないからだ。
 ネルフェスカ王国には二人の姫がいる。
 長女アティエットはコーテアの二歳年下で、コーテアが物心つく頃にはご学友という立場で彼女の遊び相手をしていた。
 奇妙なことだが、幼少の頃からコーテアは侯爵家よりも城にいることの方が多かった。ご学友としてアティエット姫と一緒に学問を習い、礼儀作法を学び、様々な教養を身につけていった。一日のほとんどを城でアティエットと過ごし、家には寝る為と朝食を取る為に帰るだけ――そんな生活をしていたものだから気づいた時には家族と疎遠になっていた。
 普通、末っ子は可愛がられるものらしい。コーテアの一番の趣味である読書から得た知識でもそうだったし、聞こえてくる噂話からしても間違いはなかった。しかしコーテアは例外らしい。
 考えてみれば、二人の兄、三人の姉がいる中での四女で、しかも一番下の姉とは一歳違いときている。悲しいことにエドバリ侯爵家は家名と歴史はあるものの経済難に陥りつつあった。コーテアを姫のご学友に推薦した父侯爵の思惑は一に自分の足元を固める為、二に一人分の養育費を浮かす為、というのが今でこそ目に見えてくる。だからと言ってコーテアがそれを嘆くというわけでもなく、ちっぽけな同情心が一瞬芽生えるだけだった。
 自室で取る一人きりの朝食にはもう違和感も抱かない。
 手際よく支度をしたら馬車に乗り込みいざ城へ。
 清々しい青空を眺めながら今日はどんな一日になるのだろうと目を細めた。

「今日はね、リリカはお母様と観劇に行くんですって。羨ましいわ。私なんて従兄弟とお茶会なのに」
 朝食を終えたばかりのアティエットと今日初めて顔を合わせると、小さく溜息をつかれた。
 コーテアは今日明日くらいのアティエットの予定は控えている。当然、今日のお茶会のことも知っていた。
「あら、ライマー様とマルク様と羽を伸ばせると楽しみになさっていたでしょう?」
 少なくとも昨日は笑顔だった筈だ。そう指摘するとアティエットは頬を膨らめた。
「そりゃライマーとマルクに会えるのは楽しみよ。でも、私だってお芝居を観たいわ。大体、リリカが行って良さがわかるものかしら?できれば代わりたいものね」
 アティエットの言うことも一理ある。第二王女リリカはまだ五歳。最初から最後まで行儀よく椅子に座っているのも難しい。それにアティエットは最近劇場に足を運んでいないから余計に悔しく思うのだろう。
「そうですねえ。リリカ様にはまだ退屈かもしれませんが、やはり小さい頃から良いものにたくさん触れるのがお勉強かと。姫様だってそうでしたでしょう」
「そうだけど……。いいわ、おもてなしも大切なお勉強。夕飯の時にお母様からたくさんお話しを聞かせてもらうわ。でも気分が変わったからお茶を違うのにするわよ。コーテア、一緒に考えてくれる?」
「勿論ですわ」
 コーテアはお茶を淹れるのが苦手だ。ほとんどできないと言ってもいい。そもそもそれに関しては別の侍女の仕事だし、そもそもどんな侍女よりもアティエットの方が美味しいお茶を淹れるのだった。その上を行くのが王妃で、ネルフェスカではお茶の知識と技術は貴婦人の必須教養だ。技術はともかく知識ならアティエットと互角だと自負しているコーテアは他の侍女に茶葉を持ってくるよう命じた。
 最初はご学友という立場だったが、コーテアが十二歳になった時に侍女に上がることを決めた。アティエットが成長し、段々友人として傍にいられる時間が短くなっていくことに気づいたのと、侯爵家の経済難を考えてのことだった。
 アティエットのことは妹のように思っている。その感情は実の兄姉に対するものとは比べものにならない。アティエットのことを一番理解しているのはコーテアだったし、同時にコーテアのことを一番理解してくれたのはアティエットだった。
 実の姉妹のように仲がよかっただけに、アティエットはコーテアが侍女という立場になることを嫌がった。けれども、ずっと傍にいる為に、と説き伏せたのはコーテアだ。お陰でアティエットから引き離されることもなく、ついでに収入も得ている。
 普通の貴族の娘よりかなり自立している自分をコーテアは気に入っていた。
 そうは言っても、四六時中一緒に居られるわけではない。
 残念にも思いつつ、その状況がアティエットにとって良くないこともわかっていた。だからアティエットから離れている時間はコーテアも自分だけの時間だと割り切ることにした。
 暇さえあれば訪れる城内の図書館。
 お堅い内容のものばかりかと思えば、意外に流行作家の新作もどんどん取り入れられている。コーテアが好きな恋愛小説もしっかりと図書館の一角を占めていて、空き時間を過ごすにはもってこいの場所だった。
 しかもこの図書館の良いところはテラスがあり、おしゃれなテーブルやベンチが幾つも置かれている。天気の良い日は日向ぼっこをしながらのんびりと小説の世界に浸るのがコーテアの一番の楽しみだった。
 コーテアはお気に入りの席に腰を下ろし、読みかけの本を開いた。前回の続きから読み始め、主人公の令嬢が片思いの貴族の青年とすれ違う切なさにコーテアの胸も痛くなる。
 こんなことでこの令嬢は両思いになれるのかしら。
 ああ、相手の方ももっと積極的に行動すればいいのに……!
 もどかしい思いをしながら読み進めていると、ガタンと音がした。
 顔を上げると最近顔見知りになった青年がテーブルの向かいに座っている。一言の断りもない青年に、高まっていたコーテアの胸は一気に醒めていった。
「普通、座る前に声をかけるものではありません?」
「別に君の席ではないだろう?」
「最低限の礼儀だと思いますが?」
「疲れた。面倒だ」
「……また訓練をサボったんですか」
「そうとも言う」
 他にどんな言い方があるのだろうか。
 コーテアは呆れながら本に栞を挟んで表紙を閉じた。
 目の前で退屈そうにあくびをしているのはマルクルンド侯爵家の三男スヴェンだ。家を継げるのは長男であり、そうでない男子は騎士になるのが最近流行りだ。スヴェンも例に漏れず騎士であり、ある騎士団に所属もしているのだが、これがいたく不真面目だった。隙を見つけては訓練を抜け出している。
「どうもああいうのは苦手なんだ。運動神経も人並みだし」
 じゃあどうして騎士になったんだ、なんて不躾な質問は流石にできない。しかしサボるのは感心できない。
「私、貴重な休憩時間なんです。邪魔しないでください」
「邪魔?してないだろう?好きなようにすればいい」
「一人で読みたいんです」
「どうせまた陳腐な恋愛小説だろう?勝手に読んで夢中になっていれば僕のことも忘れるさ。さあ、読むといい」
「陳腐って言わないで下さい!私は好きなんだから!」
 そんなふうに言われればカッとなってしまう。しかしスヴェンは全く悪いと思っていない顔をする。
「好きならいいじゃないか。でももっといろいろ分野を広げるべきだな。例えば政治書とか」
「どうして貴重な休憩時間にそんなもの読まなきゃいけないんですか。私、まだ十五歳なんですけど」
「いいじゃないか、政治書。この先役立つぞ」
「姫様のお勉強のお時間に一緒に読ませてもらいますからお構いなく」
「だからと言ってそんな夢物語……いや、妄想か?そんなものばかり読んでいると頭が沸くぞ」
「少なくとも仕事をサボる方よりマシです。それよりもう話しかけないでくださいね」
 視界に入れたくもない。
 そっぽを向いて再び読書を始めたコーテアの耳にくくっと笑う声が入ってきたがそこで反応したら負けだ。振り向きたくなったのをぐっと我慢して小説を読む。
 しかし、残念ながら続きは全然頭に入ってこなかった。
 それから数十分後、コーテアはそろそろ戻らなければならない時間になったのを見計らって本を閉じた。顔を上げるとスヴェンはテーブルの上に置いた肘を枕にして眠っていた。
 起こそうか迷ったが結局声をかけるのをやめた。
 どうせ仕事をサボっているのだ。そこまでしてやる義理はない。
 こんなサボり癖がついている上に、人の本の趣味にあれこれ文句をつける人が婚約者なんて世も末だ。
 そう思いながらコーテアは図書館を後にした。


*        *        *

 

 知らない内に眠っていたようだ。
 コーテアは覚醒していく脳で馬車の揺れを感じながらゆっくりと室内を見渡した。
 アティエットとユルトディンは仲睦まじく寄り添って眠っている。コーテアの隣のオブシェルだけが起きていたようだ。
「起きましたか」
「ええ、いつの間に……」
「長旅ですから疲れも溜まっているでしょう。失礼ながら、とても穏やかな寝顔でしたよ。いい夢でも見ましたか」
 夢、と言われて困った。
 夢は夢でも、あれは過去だ。戦争が起こる前の、コーテアとアティエットがネルフェスカで幸せに暮らしていた頃の出来事だった。
 あの頃はそれが幸せだなんてわからなかったけれど、今考えれば――。
「ええ、いい夢を――見ていたようです――」
 もう二度と帰ってこないあの日々。
 今頃になって夢に出てきたのはこれからネルフェスカに向かうからに違いない。
 コーテアはそう確信していた。
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