殿下に愛をこめて
第二皇子殿下には温かく
ツァルク帝国は世界一の領土を誇る。
故に、城に附属する帝国図書館は恐ろしく広く、尋常でない数の本が収められている。
あまりに広すぎて知り合いがいても姿すら見えないこともある。
だから、見慣れた後ろ姿が視界に映った時、一瞬目を疑った。
「アティエット」
こちらが振り返ると同時に、向こうも気がついたのか声をかけて下さった。
私よりもまだまだ背が低い。でも顔つきは凜としていて、身なりもかなり上等。大きな本を持つ従者を背後に控えさせるその人は。
「これはご機嫌うるわしゅうございます。クディナス殿下」
御年9歳でありながら早くも帝国の宝と誉れ高い第二皇子。
私が教師の1人として剣を教えている方でもあり、恐れ多いことに義理の弟になられる方でもある。
「こんなところで貴女と会うとは。こちらは政治書の棚であるが、そういったものも読まれるのか」
「皇子妃修行の一環でございます。陛下や王妃殿下のご指示で、今様々な勉強をしているところでございます」
「そうか。女性であっても兄上の妃となられる方はそのような勉強もするのだな」
クディナス殿下は真顔で考え込む。
兄殿下と顔立ちは似ているのに、こちらの方が聡明さが表れているわよね。なんて悲しいことを考えてしまう。7歳年の離れた兄弟だけど、中身は弟殿下の方がよっぽど立派。これはもう、正常に頭が動いている人なら100人中100人が認める事実。兄殿下がああだから、弟殿下にかかる期待が並々ならないところはかわいそうでもあるのだけれど。
「せっかく会ったのだ。休憩にしないか」
クディナス殿下の誘いに笑顔で応える。帝国図書館には当然のことながら貴人の為の部屋が幾つもある。
「でしたら、私がお茶を淹れましょう」
「おお。兄上だけでなく、父上にも評価の高いあれか」
殿下が年相応に顔を明るくする。ああ、とってもかわいいじゃない。この笑顔だけで胸がほくほくしてくるわ。
考えてみれば、殿下にお茶を淹れたことはなかったのね。
こういうことで実感する。
私、確かにユルトディン殿下の側室だったのね。
* * *
お茶を一口飲んだ殿下の動きが一瞬止まる。
「これは…………すごいな。茶がこんなにも美味だとは」
「恐れ入ります」
気に入ってもらえたみたいでよかったわ。
「これだけの味を出せるようになるのにどれくらいかかるのだ?」
「そうですね……殿下と同じ歳の頃には母の教授を受けておりました。そこから研究に研究を重ねて一定の成果が出るようになった頃にこちらに参りました。こちらでもユルトディン殿下のご理解をいただきまして、細々と研究を続けてレパートリーを増やしてきました」
「それこそ、10年以上か。立派な研究者だな」
「勿体ないお言葉でございます」
お茶を誉められるのは嬉しい。こだわってあれこれ試してきて、これはと思うものを人に出しているから、それを評価されるのは素直に誇れる。
今は剣も振るっているけれど、いつか体がきつくなる日は来る。そしたら終わり。散歩とかもっと普通の運動に変えることになる。
でもお茶は違う。一生続けていけるものだし、一生かけて味をつきつめていきたい。そんなふうに思っているから。
「もう一杯もらえないか?」
「勿論です」
お代わりしたいと思ってもらえるなんて光栄ね。
二杯目を渡すと、殿下はすぐに半分近く喉に流しこんだ。
「このお茶があれば多くの者を骨抜きにできそうだな」
「まあ、殿下ったら」
「実際、私はこれで貴女を尊敬したぞ。アティエット。……待てよ、兄上の妃となられる方を呼び捨てるのはよくないな」
「とんでもございません。どうぞこれまで通りに」
そんな気遣いされたらどうしていいかわからないわ。
実際、私は帝国に戦争で負けた小国の王族でしかないのだから。わけがわからないことに、何故か第一皇子殿下の婚約者になんかなってしまったけれど、立場の差は天と地ほどにも明確なのに。
「いや、兄上に対して礼を払うのは当然。そうであれば、兄上の妃となる貴女に礼を払うのも当然。アティエット殿と呼ぶのが正しいだろう」
すごく真面目な顔をして言う殿下は、なんだろう、とても年相応な気がする。
でもアティエット殿なんて恐れ多い上に違和感が拭えないわ。
「……そういうところを兄上は気に入られたのかもしれないな」
呟き、にしては大きい。
聞かなかったことにしたいけれど、失礼よね。不敬罪よね。
これについては僅かに苦笑してみせるしかない。
「殿下の気持ちは、私には」
わかっていたらもう少し苦労しなかったかもしれないわ。――ううん、やっぱり苦労したかしら。なんたって殿下だもの。
こちらとしては理解できなくて当然なのに、目の前にいる弟殿下ときたらがっかりした顔をする。
「貴女でもわからないのか」
買い被り過ぎです、殿下。
かと言って、このままにしておくのもかわいそう。
フォローは臣下の役目だわ。
「殿下はユルトディン殿下のことをもっと知りたいのですね」
「……そういうことになるだろうか。なにせ、兄上とは滅多に会えないのでよく分からないのだ。兄上のことは勿論、私が兄上に対してどうしたいだとか」
「それは気にしているということですよ」
「でも、貴女の前でこう言うのは失礼だが……耳に入る兄上の話は理解できないことばかりなのだ。兄上とお話ししていてどうしていいかわからなくなることも多い。私は兄上を前にすると自分の未熟さを思い知らされてなんだかいてもたってもいられなくなってしまう」
辛そうな表情が殿下に広がっていく。
ギリ、と奥歯を噛む様子は本当に悔しそう。
でも殿下。
その感情は色々間違ってます。
殿下が未熟なら、あちらの殿下は何と表現したらいいものか。
「ユルトディン殿下は特殊な方なのです。僭越ながら、皇帝陛下でさえわからないところが多いとのお話でした。あの方のことがわからないからといって、それを悲しまないで下さい。殿下は間違っていません。わからなくても当然のこともあるのです」
「よいのだろうか」
「ええ、良いのです」
殿下はその言葉を噛みしめるように少しの間無言でいた。
お茶を飲んで殿下の次の言葉を待つ。
けれども、それがあまりに長い気がして顔を窺えば、殿下の表情が優しくなっていた。
「少しはお気持ちが晴れました?」
「うむ」
こくんと頷いた殿下と目が合う。
ああ、すごく癒される。
ユルトディン殿下がこれくらいの時も可愛くはあったけれど、あの時にあった頭痛が無いだけでこんなにも違うなんて。
この殿下は大切に、でもびしばし教育しなきゃいけないわ。
帝国の未来はクディナス殿下にかかっている。
どうか殿下が変な方向に行きませんように。
間違ってもユルトディン殿下にほんの少しも似ませんように。
* * *
「今日、図書館でクディナス殿下にお会いしました」
「なに?クディナスと?」
ユルトディン殿下と夕食を取っていて、今日のことを報告すると殿下の目が僅かに細められる。
最近、夕食を殿下と取る習慣が出来つつある。日に1度は顔を合わせたいという殿下の希望から始まったことだけれど、殿下もこれで結構公務があるので週に3、4回実現できるのがせいぜいだ。その分、夕食に同席できない日は別に時間を作っているので、なんだかんだで毎日何らかの形で会ってはいる。時にはわけのわからない我が儘を押し切って後宮に来る時もあるからオブシェルが大変な思いをしているのだけれど――本当にごめんなさい。彼には折りを見て労ってあげないといけないわ。
「お茶をご一緒しました。クディナス殿下にお茶を振る舞うのは初めてでしたが、お気に召していただけました」
「それはそうだろう。また1人、アティのお茶の崇拝者が増えたな。良いことだ。その勢いで家臣どもをいちころにしてしまえ」
「まあ」
帝国を支える重臣の方々に気に入られるに越したことはない。ただ、たかだかお茶でそれができるわけないわよね。そもそも、ユルトディン殿下関連のことは既に諦めてしまった方々が多いらしい。呆れ半分で相手をしている者が大半だと教えてくれたのはオブシェルだ。陛下もそれでいいみたい。だから、多分私があまりそれについて気にする必要はないということのようだけど。
「クディナスとは最近全然会っていないな。元気だったか?」
「はい。健やかに勉学に励まれておいでの様子でした」
「流石だな。いずれは帝国を導く身、そうでなくては困るが……」
弟殿下を憂う顔はいかにも兄らしい。
でも殿下、ご自分が帝国を導く身ではないとサラッと言うのはいかがなものかと。
周知の事実とはいえ、本人もそのつもり――しかもそれを嘆く様子は全くない――とはいえ。
「クディナス殿下は殿下ともう少しご一緒の時間をお望みのようでした」
「そうか。考えておこう」
「お2人の都合が合いましたら、お茶会などいかがでしょう?いつでもご協力しますわ」
「それは良いな」
お茶会と聞いて殿下は嬉しそうに笑う。
「丁度、勉強の方がはかどらなくなっていたところなのだ。クディナスとの絆を深めるという名目でそこに時間をあてよう」
…………殿下、それじゃ困りますって。
晴れやかにそんなこと言ってどうするんですか。
「殿下、それはいけません。そもそも、陛下の定めた基準に達しなかった時は地下牢に入れられてしまうのではなかったのですか」
「はっ…………!!」
殿下が息を飲んで固まる。
忘れていたのね。
「地下牢は嫌だ。しかし、勉強は難しい。あれを覚えるなんて、皆の頭の中はどうなっているのだ。皆はおかしいのではないか」
おかしいのはあなたの方です。
はっきり言うわけにもいかず、けれども放っておいて殿下の地下牢行きを見送るわけにもいかず、思案する。
「そうおっしゃられても、陛下のお考えは変わらないでしょうから……」
「そうだ、アティ。その際はアティも一緒に来てくれれば寂しくないぞ!」
名案だとばかりに晴れやかな顔で人差し指を立てる殿下に体から力が抜ける。
どうしてそういう方向に考えが行くの?
「私、地下牢は嫌です」
これくらいのことは言えるようになっていてよかった。
黙っていたら同意したともとられないもの。
しかし、殿下は寂しそうに見つめてくる。
「私達は人生を共にしようというのに、アティ、それは冷たいのではないか」
「恐れながら殿下、普通好きな相手を地下牢に入れたいとは思いません。私も好かれている方からされる仕打ちには思えません」
「アティは我が儘だな」
やれやれと溜息をつく殿下を一発殴りたくなる。
でも我慢。我慢よアティエット。
「もし殿下が地下牢に行かれても、私はご一緒しません。夕食もお一人で取って下さいませ。それがお嫌でしたが頑張って勉強して下さい」
突き放すような言い方をしながら、何とかして殿下の地下牢行きを止めるべく、殿下にしっかり勉強させる方法はないか――そんなことに頭を一生懸命使いながら、食事の時間は過ぎていった。
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