小さな村の診療所

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  夏 3  

 翌日、出勤してきたサリーを見てディーンは驚いた。寝不足なのか、酷い顔に沈んだ表情。肌荒れがまた酷くなっているのは気のせいじゃない。一体何があったのかと目を瞠った。
「おはようございます」
「おはよう。サリー、どうしたんだ。そんな顔で」
「放っておいてください……」
 気を落とした顔が気になってディーンは距離を詰めようとする。しかし、イオネがやってきた為足を止めた。
「おはよう、サリー」
「お、おはようございます」
 挨拶をするサリーの肩が一瞬びくんと跳ねたのをディーンは見逃さなかった。きょとんとするイオネを置き去り、ディーンはサリーを引っ張って診療室に入り込む。
「え、先生?」
「どうした?」
「え?」
「イオネと何かあった?」
 イオネがやってきたのは昨夜だ。二人の会話にはディーンもずっと同席していたし、今朝だってさっきのが初めての挨拶だ。二人の間に何か起こるはずがないが、サリーの様子からは何かあったとしか思えない。
 二人しかいない診療室の、それも逃げ場のない隅に置かれたサリーは複雑な顔で首を振った。
「そんなわけないだろ。イオネに過剰反応してたじゃないか」
「そんなことないです。あったとしても、いつもいない人がいたからびっくりしただけです。先生に心配されるようなことはありません」
 それよりも、とサリーは腕を組んでディーンを半ば睨みつけるようにした。
「先生こそ、自分の心配をしたらどうですか」
「何が」
 ディーンにはサリーに言われるような心当たりはない。自分が気づかない重大な欠点があったのだろうか。
「あの方、結婚してるんですよね」
「ああ。まだ新婚だな。旦那とはうまくいってるみたいだ」
「……だったら、もっとしっかり考えた方がいいと思います」
「……どういうことだ?」
 妹が結婚していい家庭を築いているのだから兄であるディーンにもそれを見習えと言いたいのだろうか。サリーとは結婚のことに関して似たような境遇だと思っていただけにこんな言い方をされるのは心外だ。しかしサリーはこれ以上ディーンにつきあう気はないと言うようにディーンと壁の間をするりと抜けて診療室を出ていってしまった。
「……なんだっていうんだ」
 呟いたところで答えが返ってくるはずもなく、ディーンは頭を掻きむしりながら椅子に腰を下ろした。



 今日も今日とて夏風邪に悩まされる患者がたくさん訪れる。診療所はお陰で大盛況。頼むから勘弁してくれと言わんばかりの忙しさに流石のディーンもばててしまいそうだ。昨日イオネがやってこなければ一体どうなっていたか。想像しただけで恐ろしくなる。イオネが調合した薬を処方した患者はそう日もかからずによくなるだろう。それだけを頼みにディーンは午前中の診察を終えた。しかし、診療室を出ようとすると待合室が騒がしい。ディーンは扉に手をかけたまま耳を澄ませた。
「まったく、先生ってばサリーちゃんがいるのに何を考えてるんだろうねえ」
「大丈夫だよサリーちゃん。気を落とすんじゃないよ。あんたが一番近くにいるんだからどーんと構えてりゃいいんだよ」
「いや、あまり油断しててもいかん。あの顔は前にも見たことがあるからのう。つきあいは結構長いと見た」
「でも結婚してまでってのは感心せんな。先生がいい男だからかもしれんが。ここはがつんと言ってやりなさい」
 聞こえてくる内容にディーンは大きなため息をついた。
 なんだこれは。
 答えは人に聞くまでもない。嫌でもわかる。
 今日はイオネが診療所の一室を使って調合をしている。出たり入ったりしているので患者とも顔を合わせたのは想像に難くない。そして患者達はディーンとイオネがそういう関係だと誤解しているようだ。世間でいうところの不倫。
 なんでそうなるんだ。つっこみどころが満載で頭が痛くなる。このまま待合室に出て行ったら酷いことになることは目に見えている。ディーンは扉にもたれかかって彼らが帰るのを待つことにした。しかし、耳に入ってきたサリーの声にぎょっとする。
「そんなに前から先生とあの人は……?」
「長いねえ。先生がこの村にやってきたばかりの時に手伝いだって顔を見せてたから」
「ばあさん、あんたそういうことはよく覚えとるの」
「うるさいね。年寄りを馬鹿にするんじゃないよ」
 後に続く老人達の話はもうどうでもよかった。
「そういうことか」
 ディーンはやっと納得がいった。
 サリーの不可解な表情。今朝の発言。その理由がわかった。
 サリーも患者達と同様にディーンとイオネの仲を誤解していたのだ。
 ディーンにやましいところはないがこのままではやはり気まずい。そもそも誤解されるようなことをしただろうか――と考えてイオネを薬師としてしか紹介していないことに思い当たった。つまりサリーは知らないのだ。ディーンとイオネの血が繋がっていることを。
 すぐにでも出て行きたかった。しかし今出て行くと上手く話せないような気がする。口を挟む老人達の存在がある。せめてサリーと二人にならければ。
 サリーをこちらに呼び寄せようか。そう考えて扉を開こうとしたが、先に別の扉が開く音がした。待合室が急に静かになる。
「お話、聞こえてますよ」
 イオネが聞くに堪えかねて薬の調合をやめて出てきたようだ。待合室の気まずい空気が診療室にまで伝わってくる。
 早く言ってしまえ。
 ディーンの願いは呆気なく天に通じた。
「みなさん勘違いされてるようなので言わせて下さい。私の名前はイオネ・クラーツ・ハワード。ディーンの妹です。雇い主はエンイストン領主オリヴァー・ロレンス。婚家はエンイストン議員のハワード家。夫との関係はこれ以上ないくらい良好です。みなさんが想像されてるようなことは絶対に起こりえませんのでご安心下さい」
 にこり。ディーンの頭の中のイオネが笑った。
 しんと静まりかえった待合室に気をそがれた老人の声が響く。
「なんだ、あんた先生の妹だったのか」
「はい」
 作ったように明るいイオネの声にディーンは目を閉じた。後で文句を言われることを覚悟しなければならない。でもこの際そんなことはどうでもいい。サリーの誤解が解けたことに安心したディーンは待合室に続く扉を勢いよく開いた。
 人々の視線が一斉に注がれる。けれどもディーンには驚いたサリーの顔しか目に入らなかった。
「サリー、昼食にしよう」
 呼びかけるとサリーは呆然としたまま「はい」と返事をした。それを合図に待合室に残っていた患者達が散っていく。イオネが「私は別に食べた方が良さそうかしら」と呟いた。
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