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モクジ

  りんごのうさぎ  

 少しずつ夏に近づいているこの時期は体調管理が難しい。蒸し暑いけれど薄着をするにはまだ少し早く、かと言って下手な組み合わせで服を選ぶと少しでも涼しいところに行きたくなる。
 暑がりの茜は既に半袖になっているけれど、瑞穂はまだ長袖シャツで生活している。暑くなったら袖を折る。家ではその日その日で考えて調節しているので今のところ体調を崩してはいない。
 今年の夏はこのまま健康で過ごしたい。そんなことを思っていた矢先、意外な人物が風邪をひいた。
 同居人、狩屋良臣。
 それは瑞穂にとって晴天の霹靂だった。



 ざくり、と林檎を真っ二つにする。
 たった今買ってきたばかりの新鮮な林檎の中では蜜がいい具合に自己主張をしていて食欲をそそる。まな板の横に出した皿の上には既にカットしたイチゴとキウイフルーツが乗っている。良臣には申し訳ないが既に味見済みだ。どちらもみずみずしくてさっぱりしていた。これなら病人でも喉を通ると思う。
 珍しく自分から思い立って良臣の為に何かをしている状況は少し違和感がある。ただ、今朝起きてきた良臣があまりにふらふらしていて、食事にほとんど手をつけなかったことに驚いた。当然両親も心配したが、良臣は済まなそうに「食欲がない」と言って部屋に戻っていった。その様子がとても辛そうで瑞穂は目から鱗が落ちた気分になった。
 あの狩屋が弱っている。しかもかなり大変そうだ。
 まさか、と思ったのは、良臣は割と何でもそつなくこなすタイプだから体調管理も問題なさそうに見えていたせいだ。そりゃあ、いくら対策をしていても風邪をひく時はひくに決まっている。それでも、何であろうと全てで瑞穂に勝っているあの良臣が、強気で勝気でちょっと傲慢でそこそこ自分勝手なあの良臣が弱々しい姿をさらしていることはかなりの衝撃だった。
 今日は土曜なので学校はない。しかし両親は今日も仕事だった。そこで瑞穂はスーパーの開店時間を狙って買い物に行き、いろいろ仕入れてきたのである。
「風邪人にはさっさと回復してもらわないとねー。……よし、っと」
 準備はこれで終わり。果物はまだあるけれど、あまり多すぎても病人には負担になる。取り敢えずはこれくらいにしておいて、後は様子を見よう。
 瑞穂はトレイに皿や他に必要なあれこれを乗せてキッチンを出た。
 一番奥にある狩屋の部屋でノックをすると、くぐもった声が僅かに聞こえてきた。「入るよ」と断って中に進むとベッドの上で丸くなっていた良臣が視線で誰かを確認する。
「調子はどう?」
「……見てわかんねーのか」
「だよね」
 熱で上気した顔、覇気の感じられない表情、細々とした声。尋ねるまでもないが、それでも聞くのが人間というものだろう。
「狩屋、フルーツ剥いてきたよ。食べる?」
「何がある?」
「イチゴとリンゴとキウイ」
「……食べる」
 良臣はむくりと身体を起こした。
 やっぱりイチゴを入れて正解だった。実は良臣がイチゴを好きなことを瑞穂は知っている。三ヶ月以上も食を共にしていると嫌でも相手の嗜好がわかってくるものだ。それが食にうるさい良臣となれば尚更のこと。
 緩慢な動作を見ながら瑞穂はベッドの傍に座った。
「そうだ、食べる前にこれ」
 瑞穂はトレイの上に乗せていた箱から冷えピタを取り出した。シートを強制的に良臣の額に貼り付ける。
「冷たっ」
「アイスノンだけだと上の熱がなかなかひかないからね。それやった方が早く下がるよ。それに気持ちいいでしょ?」
「……けどお前、」
「はい、それから熱も測ってね」
 反論しようとする良臣を遮って体温計を渡す。良臣は瑞穂のペースになっていることに眉を顰めつつも、体温計をセットした。
 うん、病人はこうでなくちゃ。
 風邪をひいてまであれこれ文句をつけられてはたまらない。
 大人しい良臣に満足した瑞穂はにっこり笑う。
「じゃあ狩屋、最初はどれがいい?」
 皿とフォークを持ったまま尋ねると良臣は「は?」と渋い顔でじろりと睨んだ。
「どういう意味だよ」
「どうって、狩屋が大変そうだから食べさせてあげるって言ってるんだけど」
「そんなにじゃねーよ。病人に嫌がらせするつもりかよ」
「なんだ、思ったより元気じゃん」
 減らず口を叩く余裕はまだあるらしい。
 別に嫌がらせのつもりはなかったんだけどな。そう思いながら皿ごと良臣に渡す。瑞穂にしては珍しく好意でした行動だったのにこんな扱いをされるとは。回復したら恨み言をぶつけてやる。瑞穂はひっそりとそんなことを考える。
 良臣は手に取った皿を見てため息をついた。顔も微妙な表情だ。
「なに、どうしたの」
「どうしたのって、お前、なんでいちいちうさぎにするんだよ」
 良臣がフォークで指したのは林檎のウサギだった。八等分した林檎の内、四つがウサギにカットされている。勿論それをやったのは瑞穂だ。
「ああ、それ」
 実はそれに関してはちょっとした嫌がらせも入っていたのだけれど、勿論そんなことは口にしない。でも、それ以外にもちゃんと理由がある。
「だって、風邪の時はリンゴのウサギじゃない?」
「そうでもないと思うけど」
「え、でもうちはいつもそうだったよ」
 小さい頃から、瑞穂が風邪をひくと母は林檎でウサギを作ってくれた。だから風邪の時にはこれ、という図式が自然に出来上がっていた。世間では桃の缶詰を食べるらしい、と聞いてもあまりぴんと来ない。
「狩屋、嫌い?」
「……いや、リンゴはリンゴだしな」
 食べるよ、と言った声はどこか拍子抜けしているようだった。倉橋家の習慣なら仕方ないと思ったのかもしれない。
 意外にも、良臣が一番最初に口に運んだのは林檎のウサギだった。話の流れでそうなったのだろうか。瑞穂はてっきりイチゴから食べると思っていたのに。
「……うまい」
 良臣からポツリと漏れた声に瑞穂は思わず瞬きを繰り返した。
 良臣から「うまい」を引き出すのは特に難しいことではない。それに関しては率直に伝えてくれるから瑞穂も食事の作りがいがあるというものだ。しかし、今、この状況。冷えピタを額に貼り、ボーッとした表情で林檎のウサギをかじっている狩屋良臣。これは、なんというか――。
「かわいいとこあるんだね」
「あぁ?」
 気がついたら口から出ていた。良臣がジロリと睨むが気だるさの方が強く出ていてちっとも怖くない。
 瑞穂は自分が言ったことにびっくりしながらもその意味を噛み締めていた。
 狩屋なのに、かわいい。
 風邪をひいているこの時限定とはいえ、普段は到底イコールでは結びつかないこの二つが、今はしっくりくる。すごいミラクルだ。
「お前、ふざけんなよ」
「……やっぱ違うかも」
 口を開かなければいいのに。そうすれば幻とはいえ、やっぱり可愛いのに。とてつもなく残念な気分になりながら、瑞穂はカーペットに足を伸ばした。
「いいから食べなよ。新鮮な内が美味しいんだから」
 ほらほら、と手を払うと良臣はムッとしながらも他の果物に手をつけた。
「お昼はお粥作るからね。梅干を入れるからきっと食べられるよ」
「……悪い」
 小さく謝った良臣に、やっぱりかわいいかも、と思いながら瑞穂はピースサインを向けた。
「いいってことよ」



 ちなみに。
 エアコンをつけたままうっかり寝てしまい、翌朝目が覚めた時には既に酷い寒気と鼻水に襲われていた、という風邪の真相を聞いたのは熱がすっかり下がった日曜の夜のことだった。
「……馬鹿じゃない?」
「…………」
 呆れた瑞穂に言い返す言葉が出ない良臣というのもまた珍しい光景だった。
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