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 十一月も終わりに近づいてくると、塾の先生達の熱気がますます上がってきた。センター試験まであと二ヶ月を切ったとだけあって受験生の危機感も大きくなり、授業に今まで以上に集中するようになる。中にはそれについていけない様子の生徒もいたけれど、幸い瑞穂はそちら側にはいかないでいられた。
 今日最後の授業が終わって、帰ろうと立ち上がると「お疲れ」と声が掛かる。今、隣の席に座っている他校の男子だ。この間席替えがあってからちょっとした会話を交わすようになった。昨年くらいまでは他校の人ともそういうやりとりがあったのに受験生になってからはほとんどなくなっていたなと思う。余裕がないのはみんな一緒。そんな中、相手のことをよく知らないまでも気軽に挨拶ができるのは貴重だ。瑞穂も声を返すと、そのまま教室を出て行く。
 塾を出ると、ひんやりとした空気が首筋にまとわりついた。去年までにはなかったことだ。誕生日に髪を切っておいてよかった。今だったら、突然の変化に体がついていけなかったかもしれない。薄手のマフラーを巻きながらいつものコンビニに向かおうとすると、待ち合わせの予定だった良臣がすっと隣に並んだ。
「早かったね」
「今日はさくっと話が終わった。奇跡だな」
 良臣の今日の最後の授業は数学だ。名物教師白井はなかなか強烈なキャラクターだが、その中にはまとめの話が中途半端に長いというものがある。お陰で瑞穂はいつも木曜はコンビニで五分くらい待つ羽目になっている。
「いつもこうならいいのに。金払って不快な思いをするなんて訳わかんねえ」
 そう言う声があまりに感情がこもっていて、良臣が心底うんざりしているのが伝わってくる。
「でもさ、力はある先生なんでしょ?」
「最近はわからなくなってきた。とんでもなくイライラさせられるだけだし。数学っつーか自制心を身につける修行をさせられてるみたいだ」
「うわー……」
 良臣は基本辛口だ。他人に対する評価も厳しい。でも、それが不当なことはほとんどない。
 こっちはいい先生で良かったと瑞穂がホッとすると、頭にコツンと拳をぶつけられた。
「ちょっと、何なの」
「なんか腹立った」
「横暴!暴力反対!」
 拳を握って反発すると、「うるせー」と面倒くさそうに言いながら優しく頭に手を乗せられる。ポンポンと触れられて離れていったそれに、今度は瑞穂の腹が立った。
「なにその子ども扱い!」
「あーうるせーうるせー。ちょっとは黙れよ」
「騒ぎたくもなるって。なにこの仕打ち!普段頑張ってご飯作ってる私を蔑ろにしていいの?明日は狩屋のスープだけ真っ赤にしてもいいんだよ」
「それならトマトにしろよ。唐辛子とかは程々にな」
「誰が言う通りになんてするもんか!」
 言い合っている内に寒気も感じなくなっていく。
 言葉で突っかかる瑞穂を、良臣は面倒くさそうにあしらった。途中からはそれがお互いに楽しくなってきて、家に着く頃には全くわけのわからないことを言い合っていた。



 帰ってきた模試の結果を見て瑞穂は小さな溜息をついた。その様子を見ていた茜が肩を寄せてくる。
「なに、よくなかった?」
「んー、下がったわけじゃないけど。なかなかC判定を脱出できないなーって」
 がっかりしながら紙を茜に渡せば、茜は「えー」と不満げな声を上げる。
「点数だって偏差値だって上がってるよ。私立はA判定ついてるのだってあるのに。瑞穂贅沢言いすぎじゃない?」
 そうかもしれない。点数や偏差値を表すグラフは右肩上がりを保っているし、同じC判定でも前よりはずっとBに近づいている。この模試を受けたのは先月のことだから、この間の模試の結果はB判定になっているかもしれない。でも。
「ちょっとでも安心したかったんだけどな」
「……あたしはまたBだったよ。これで三度目。先週返ってきたのはAでホッとしたのに」
「でも茜、この間の学校のテストの方はかなり取り戻してたでしょ。そっちこそ気にしちゃだめだよ。大体、CよりBの方がいいに決まってるんだから」
 自虐的だと思いながらも他に言葉がない。意味のない慰めはしたくないけど、茜は先週くらいから少しイライラが収まってきていたところだからまた波風を立てたくない。そんな瑞穂の願いが通じたのか、茜は瑞穂に結果を返しながら「ずっと気になってたんだけど」と話を変えた。
「瑞穂の快進撃の裏側には、もしかしてK君がいたりするの?」
「……っ」 
 驚いた瑞穂は紙を床に落としてしまう。そうですと言っているようなものじゃない。紙を拾いながら瑞穂は考える。
 瑞穂は別にいい。でも正直に言うのを良臣は嫌うんじゃないだろうか。
「嫌いな教科なんてなかなか自力で勉強できないよね。塾の先生に教えてもらうっていったって、瑞穂毎日行ってる様子もないし。でも、あの人がそういうことするとも思えなくて、どうなのかなって疑問はあるんだけど」
 茜は責めてるわけじゃない。でも、瑞穂としては追い詰められた気分になってしまう。
「……勉強の仕方教えてもらったり、わからない問題教えてもらうことはあるんだけど。これ、内緒ね」
 毎日一緒に勉強してます、なんて言えるわけがない。でも白を切ることもできなくて、結局こんな言い方しかできない。
 お願いだから、狩屋の耳に入った時に狩屋の機嫌が悪くなりませんように。
 胸の中で両手を合わせる。不機嫌全開で仁王立ちする良臣のイメージに向かって瑞穂はペコペコと頭を下げた――あくまで胸の中で。
 茜は疑いもしないのか、やっぱりねと肩を竦めた。
「意外といいヤツだよね。もっとツンツンしててあたしみたいなバカは目に入りませーんって感じかと思ってたけど、メールしたら一言だけでも返してくれるし、挨拶くらいはしてくれるし」
 名前を出さないのはここが教室だからだろう。でも、聞く人が聞けばわかりそうだ。でも下手にこそこそ話すよりは堂々と話していた方が周りも気にしない。それでもこの話題はあまり続けたくなくて、瑞穂はこれで終わりにしようと苦笑した。
「確かに、最初の印象に比べると少しは――大分良くなったけどね」



 塾の帰りに瑞穂が模試の結果を見せると、良臣は「へえ」と感心した声を上げた。
「順調に結果が出てきてるな。俺のやり方が最高なのが一目瞭然だ。第一回の結果が嘘のようだ」
 四月に行った模試はD判定だった。確かに、点数や偏差値のグラフを見ても夏休み前まではどうしようもなかったと思う。
「これもひとえに俺のお陰だな」
 わかってるよな?と暗に含んだ視線に気づき、瑞穂も視線だけで答える。
 はいはいそーですね。そうだけど、とても感謝してるけど。
 せめてもう少しだけでも謙虚だったらもっと大っぴらにお礼を言うんだけどな。
 そう思うものの、良臣にそれを言うのはとんでもなく無駄なことだとわかっているので、いつものように明日の食事に好きなものを一品入れる程度のお礼の仕方で済ませてしまおうと瑞穂は考えた。
「俺も満足いく結果だったし、この調子でいこうぜ」
「いつも通り、A判定?」
「当然だろ。でもまあ、センターより二次の方が問題だからさ」
 確かに、良臣は最近ほとんど二次試験対策に時間を費やしている。
 ふと、光二の顔が浮かんできた。光二がT大志望だというのを聞いたのは十一月に入ったばかりの頃だった。もう十一月が終わろうとしているが、良臣には話していなかった。単純に忘れていたのときっかけがなかっただけだ。もしかしたら宏樹からもう聞いているかもしれない。それに、光二がT大を受けようがきっと興味は持たないだろうけど。
「ねえ、知ってる?光二もT大志望なんだって」
「は?」
「私もこの間聞いたばかりなんだけど。どこの理学部行くのかなーって思ってたらT大だって言うから」
「一類?二類?理学部のつもりなら一類か。いや、二類も考えられるな」
「そこまでは聞いてない。なんていうか、あんな身近にT大受ける人がいるとは思わなかったんだよね。びっくりしたよ」
「お前、現にここに一人いるだろうが」
「狩屋は寧ろ別のところ受ける方が驚くってば」
「なるほど」
 それで納得していいのだろうか?疑問は抱くものの、気分を損ねているわけではないのでそのままでいいか、と瑞穂は話を進める。
「でも、光二がどこ行っても狩屋には関係ないよね」
「まあな。俺、ゆくゆくは工学やるつもりだし。それ以前にあいつが受かるかどうか」
 素っ気なく言う良臣の言葉に、瑞穂の足が止まった。
「工学部?」
「なに、お前知らなかった?俺、技術者志望なんだよ」
 良臣は少し意外な顔をしている。 
 知らないも何も、そんなの初耳だ。大体、将来の話をしたことがあっただろうか?瑞穂は目の前のことでいっぱいいっぱいで、そこまで頭が回らなかったこともある。
 ショックだったわけじゃない。
 ただ。
「イメージだけで理学部かなって思ってた」
「ふうん」
 特に気を悪くしたわけでもない良臣は先に進んでいく。瑞穂も慌てて後を追う。
「一応、俺も家業は手伝うつもりでいるんだ。でも兄貴とは住み分けしたくてさ。兄貴はいずれ会社の顔になってくだろうけど、俺はそういうのはちょっとな。っつーか兄貴のいいように使われそうだし」
 そうだった。狩屋の家は会社があったんだ。瑞穂は思い出す。
 祖父が今尚社長で、父が専務、兄の孝臣は既に社員として働いている。会社は違うが母の玲子は人気のジュエリーデザイナー。その中で良臣もいろいろ考えて技術者になる目標を持ったのだろう。
「狩屋はちゃんと考えてるんだね」
「まあな」
 瑞穂の気持ちが沈みそうになる。しかし、良臣がそれを制した。
「余分なこと考えるんじゃねーぞ。お前は勉強したいことがあってA大行きたいんだろ。その先のことはまだいいから、今のことだけ考えとけ。いちいち落ち込んでる暇あったらやるべきことをやれ」
 確かにそうだ。
 将来がまだ漠然としていることを悩むなら、もっと勉強した方がいい。
 今は前向きでひたすら突き進めばいい。大丈夫。一緒に走ってくれる人もいる。
「うん、そうする」
 余分なことは考えない。ただ良臣を信じて残り三ヶ月乗り越えて行こう。
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