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  63  

 夜、塾からの帰り道が大分涼しいと感じるようになった。カレンダーは九月から十月へと変わり、季節も秋らしくなってきた。
 メールを読んでいた瑞穂はホッとして顔を挙げる。
「狩屋。お母さんから。受験料、払ってくれたって」
「そっか」
 聞いた良臣も僅かに安堵の表情を浮かべた。
 センター試験の申し込み期日が中旬に迫っている。学校で要項を配布したのはつい先日。学校でまとめて申し込みをするかららしいが、思いの外時間のないように感じられて瑞穂達受験生にはほんの少し焦りが生まれていた。
 今日は志帆に検定料の払い込みを頼んでいた。志帆はお昼に銀行に足を運ぶと言って、当然のように良臣の分も引き受けてくれた。
「帰ったらすぐ書類をチェックしないとな」
「うん。明日にでも持ってってすっきりしたい。いつまでも家にあるの怖いし」
 面倒なものはさっさと片づけてしまいたい。そう言う瑞穂に良臣も頷いた。
「面倒って言えば、最近あいつ落ち着いてるみたいだな」
「うん。宏樹から聞いた?」
「ああ」
 あいつというのは光二のことだ。良臣のことで瑞穂に疑心を抱いていたが、今はなりを潜めている。茜が牽制したのは先週のこと。それとは別に宏樹も個人的に釘を刺してくれたらしい。お陰で光二はいつも何か言いたそうにしながらそれを飲み込んでいる。もどかしいし居心地も悪いが、胸の内をぶつけられても困るので瑞穂としては助かっていた。
 学校ではなるべく良臣と一緒にならないように注意している。一緒になった時も軽い挨拶だけに留める。以前と同じようにしているのに、気苦労が以前の比ではないのがきつい。近頃はそれでも慣れてきた。それでも光二の目を意識するのは疲れる。
 疲れが顔に出てしまったのだろうか。良臣が瑞穂の頭に手を置いた。
「あまり考えるな。ここは学校じゃないんだ。こういう時に解放されなくてどうするんだよ」
 目を丸くした瑞穂だったが、すぐに表情を和らげた。
「うん、そうだね」
 良臣の言う通りだ。瑞穂が笑うと良臣は手をどけた。離れ際、髪の一房を指に絡ませて。軽く引っ張られた瑞穂は「なに」と良臣を見上げるが、当の本人の視線は絡めた瑞穂の髪に注がれていた。
「ん、自分の髪がこの距離にあるのがすごいと思って」
 良臣は名残惜しそうに指を離す。時々、こんなふうに瑞穂の髪に興味を示すから不思議だ。自分の感覚では有り得ない長い髪がどうしても気になるらしい。瑞穂はその度に自分の髪の長さを再認識させられる。普段は乾かす時に面倒くさい思うくらいなのに。
「狩屋だって何年もほっとけばこうなるよ」
「冗談だろ?俺、男の長髪は本能的に無理」
「世にはヴィジュアル系って人達がいるのに」
「あれは別人種だと思ってるから。それに俺、ああいうの聴かないし」
「はいはい」
 瑞穂だって良臣がヴィジュアル系を好んで聴くような人間には見えない。イメージ通りでいてくれてよかったと思う。
 自分のイメージはと考えて瑞穂は口を結んだ。今更考えるまでもない。ヤマトナデシコだ。長い黒髪だけで勝手につけられたあだ名は今日も陰で飛び交っていた。
「そろそろ切ろうかな」
 ふと口をついた言葉に隣から「え」と声が零れる。ふと見上げれば良臣が僅かに動揺している。瑞穂も思わず目を丸くする。 
 え、この反応は一体なに?
 解釈に困っていると良臣が困惑顔で再び瑞穂の髪を一房手に取った。
「そんな簡単に切っていいのか?」
「別に伸ばす理由もないんだけど。今はこだわりないし」
「そういうもんか?」
「私はそうだけど」
 どうしてか瑞穂がしどろもどろになりながら答えると良臣は掴んだ髪に指を通した。真っ直ぐな髪はするりと抜けていく。瑞穂はそちらの方には構わず良臣に視線を置いたまま。良臣は何やら気難しい顔をしたまま空洞になった手をポケットにつっこんでいつの間にか止めていた足を前に運んだ。数歩遅れて瑞穂もついていく。
 なんなんだと少々面食らいながらも瑞穂は思う。
 もしかして、良臣は長い髪が好きなんじゃないか。



 その夜、瑞穂は横になりながらベッドに広がった自分の髪を眺めていた。
 良臣には突然のことのように思えたかもしれないが、瑞穂が髪を切ろうかと考え出したのは今に始まったこじゃない。
 特に受験生になってから髪を乾かす手間が勿体なくてそう思うことが多くなった。
 元々はテニスから離れようと伸ばし始めたのがきっかけだ。ショートカットだけは絶対に嫌だと、テニスをしていた頃の瑞穂とは違うものになろうと必死だった。今考えるとろくな理由じゃない。
 あれから三年。いつの間にか髪が腰まで届いていた。三年の月日がそのままつまったようだと考えると、余計に自分の中での印象が悪くなった。テニスから、光二から、自分の気持ちから逃げ続けた三年。この長さの分だけ逃げてきた。今、志望校合格の為に攻め続けている瑞穂としてはいただけない。
 他の誰がこの髪を気に入ろうとも、瑞穂が気に入らなかった。
 ヤマトナデシコと言われるのが嫌になったなんて可愛い理由じゃない。
 逃げたくない。
 逃げてきた自分とさよならしたい。
 それに、もうすぐ瑞穂の誕生日だ。どうせなら、新しい気持ちでその日を迎えたい。
 眠りに就く頃には心を決めていた。



 翌日の夜、瑞穂は夜食を食べ終わった良臣の前にドライヤーを持って立ちはだかった。
「なんだよ」
 これから入浴するつもりだった良臣は軽く目を細める。風呂上がりの瑞穂は「ん」と仏頂面でドライヤーを差し出した。
「髪乾かすの手伝って」
「おい、明日も学校あるんだぞ」
 俺の貴重な時間を奪うのかと不満が返ってくるが、瑞穂はリビングのソファにどかっと座り込む。
「明日、髪切ることにしたの。結構ばっさりいくから、これで狩屋に頼むのは最後」
 ぶっきらぼうな言い方になってしまうのは仕方がない、と思う。本当は明日じゃなくて今日切るつもりだった。
 放課後になると、塾の無い日なのをいいことに勢いよく街に足を向けた。これまでだったら学校帰りに美容室なんて考えられない。長い髪は整えるだけでも時間がかかる。でも今日はばっさり切るだけだから今からでも大丈夫だろう。これから切るというのに、気持ちは既に明るかった。行きつけの店が見えてきて、いざ、と意気込んだ。それなのに足が怯んだ。髪を切るのが惜しくなったからじゃない。昨夜見た良臣の微妙な顔が浮かんできた。
 瑞穂は瑞穂で、良臣は良臣だ。
 そう思ったものの、一度気になり出したらそれ以上足が進まなかった。結局、予約もしていなかったし、と今日切るのをやめた。
 そのせいで今こんなことをしている。
 よくわからないけれど、良臣が気に入っているなら、一言言っておくのが優しさかもしれない。でも「明日髪切るから」とわざわざ断るように言うのもおかしな感じがする。それであんな言い方になった。
 どうせ好きなら短くなる前に思い切り触っておけば?嫌だと拒否するならそれはそれで構わなかった。瑞穂はただ良臣に事実さえ伝えられればそれでいい。あくまで自分の方の気持ちだ。
 ドライヤーを強引に渡された良臣はドライヤーに視線を注ぎながら少しの間無言でいたが、小さなため息をついてコンセントにプラグを差した。
「俺の三十分は高いぞ」
 カチ、とスイッチを入れる音。その後にドライヤー独特のゴォーという風が瑞穂の頭頂部に近づいた。熱気と共にやってきた良臣の片方の手が瑞穂の髪に触れる。
「昨日切ろうかとか言って明日には切りに行くって、決断早いな」
「んー、いきなりじゃないよ。結構長い間、そろそろ切ろうかなって漠然と思ってて。何となく切らないできてただけだから」
「だったらこのまま何となく伸ばしてもいいんじゃないか?」
 良臣がそう言うのは名残惜しいと思っているからだろうか。でもその声を聞いても瑞穂の気持ちは揺るがない。
「もう予約入れちゃったし。それに、気分転換にもなるかなって」
「気分転換ね」
「そう。女ってのは前髪を少し切っただけでも気持ちが変わるんだから」
「そこまで行くと逆に面倒だな」
「狩屋はそう思うかもね」
 良臣らしい発言につい笑ってしまう。肩を振るわせれば、「おい、動くな」と咎められる。
 口は悪いけれど触れる指は優しい。いや、口の方だって、始めのことを思えば随分と変わってきたと思う。良臣だけでなくて瑞穂もそうに違いない。
「気分転換って言えば」
 良臣が指を下の方に移していく。その動きを気にしながら瑞穂は「ん?」と反応をする。
「最近こもってばかりだよな。出かけるっても学校か塾だし」
 良臣の言う通りだと瑞穂は頷く。でもそれも仕方ない。自分ではとっくに割り切っていたつもりだ。
「たまには出かけたらどうだ?」
「いつ?」
「模試のない土日とか。半日くらいならいいんじゃねえの?」
「うーん。狩屋が勉強してるのに、私がのんきに遊びに行けるわけないよ。焦るもん。狩屋ですら勉強してるんだから、余裕のない私はもっと頑張らないとって」
 息抜きなら学校帰りに茜とお茶をするくらいで丁度いい。それに、塾帰りに良臣と交わす会話。受験への気持ちが切れない程度に気を紛らわせられればそれで十分だ。瑞穂はそう思うのに良臣は怪訝な顔だ。
「冬になったらもっと大変だぞ。今の内にちょっとずつガス抜きしとけよ。俺だって、土日はゲームの時間入れたり、DVD観たりしてる」
「それなら私だって料理したりしてる」
 言い返すと、良臣ががっくりと肩を落とす。
「……それ、家事だろ」
「趣味と実益を兼ねてる」
 単なる家事じゃないと言い張ると、良臣はもう追及してこなくなった。ただ、黙って髪を乾かす作業に専念する。
 良臣が触れている部分は明日にはもうないんだと考えると妙な感じがする。今頃になって惜しいような気分になってくる。でも、位置からして光二といろいろあった頃からある部分だと思えば早く切って軽くしてしまいたい気持ちが強くなる。
 明日が待ち遠しい。
 ただ、長い髪でなくなった瑞穂を見て良臣はどんな顔をするだろう?
 それを想像すると胸の中にほんの少し苦いものが広がった。
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