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  50  

 あと1日で帰省が終わる土曜日。塾から帰ってきた良臣は玄関を開けた瞬間不穏な空気を察して表情を強張らせた。
「ただいま」
 気のせいならいい。そう思いながら帰宅を知らせると、荒い足音を立ててリビングから玲子が出てきた。
「お帰りなさい」
 引き攣った顔で一言投げかけると玲子はそのまま自分の部屋に入っていった。バン!と強く閉められたドアの音が家の中にこだまする。
 続いて出てきた孝良も険しい顔つきで良臣を一瞥し「お帰り」と言うと書斎に入っていった。
 嫌な静けさが残る中、良臣は靴を脱ぐ。一体何が有ったのか。知りたくもないが気にならないと言えば嘘だ。取り敢えず夜食を取ろうとリビングに入ればそこに広がった惨状に良臣は息を飲んだ。
「ああ、帰ったか」
 最初からそこにいた孝臣がやや気の抜けた声をかけたが良臣は答えることができなかった。割れたグラスやボトルが散乱しているリビング。酒が零れているところもある。良臣にはまだ慣れないむせかえるようなにおいがリビングを支配している。そんな場所で孝臣は割れたグラスを拾っていた。
「お前も手伝え。足下には気をつけろ」
 孝臣の指示に良臣は何も考えられないまま従った。
 リビングが一通り片付いたところで良臣と孝臣はソファに腰を下ろした。良臣はすっかり食欲を無くしてしまった。空腹は感じているがこんな異様な空気の中で食べる気がしない。
 良臣が黙っていると孝臣がソファに両腕を乗せながら息をついた。
「俺が帰ってきた時は丁度親父がウィスキーを床に投げつけたところだった。既に母さんが投げつけたと思わしきボトルも割れてたけど。2人とも酒入ってたから落ち着かせるのに時間がかかったよ」
「そっか」
「原因は俺にもさっぱり。取り敢えず、もうすぐ良臣が帰ってくる時間だって何回か言ったら2人とも収まってくれた。お前が受験生でよかったよ」
 一応あの2人、お前のことはまだ気にしてるんだな。
 孝臣に言われたところで喜べない。ただただ気だけが重くなっていく。孝臣も流石に疲れたのか眼鏡の奥がどこか虚ろになっている。
「良かったな。明日向こうに戻れて。この家は確かに受験生向けじゃない」
「兄貴は」
「俺も明日戻るさ。ここじゃ仕事の疲れが取れない」
 今日のようなことは滅多にないこととはいえ、いざ起こってみるとかなりの負担になる。家にいることすら珍しい2人だがその2人が揃った時の心臓の悪さといったら。
 これならいっそ家に寄りつかないでいてもらった方がどんなに楽か。――それはそれでとても味気ない生活だと良臣はよく知っているけれど。
 孝臣ももう両親の話をしたくないのか、思い出したように瑞穂の話題を振った。
「あの女の子の料理は確かに美味かったな」
「瑞穂?」
「そんな名前だったか。あの短い時間であれだけ作れたら苦労しないだろう」
「俺にはわからないけど。いろいろ作れるよ。おばさんも料理上手いし」
「それは良かったじゃないか。お前には大事なことらしいからな」
 美味い食事の保証がないからと言って孝臣のところに行くのを断ったことをまだ根に持っているようだ。高慢で粘着質な男なんて最低だなと思いながら良臣は無言で受け止めた。こんな日は孝臣と話をするのも億劫だ。しかし、次に孝臣が言い出した内容に嫌でも頭が動く。
「お前料理が出来ない女とは結婚できないだろ、きっと」
「……あ、兄貴?」
「今から楽しみだな。どんな料理上手を連れてくるのか。いっそのこと料理研究家とかがいいんじゃないか?」
「兄貴の方が先だろ。俺の心配はいいよ」
 つきあってられるかと良臣は立ち上がる。大体この部屋は酒臭くてたまらない。頭がくらくらしてくる。さっさとシャワーを浴びて寝てしまおう。
「明日、模試だから」
「そうか。多分酒のにおいがついてるからしっかり落とせよ。現役受験生がアルコール臭かったら問題だぞ」
「わかってるよ」
 適当に言い捨てて良臣は自分の部屋に入る。机を見れば見覚えのない紙袋が置いてあった。傍にあるメモには玲子から志帆に渡すように書いてあった。先日頼まれた土産だ。明日は模試の後そのまま向こうに行くから忘れないようにしないといけない。ここに戻ってくるのはごめんだ。
 先程孝臣と話したばかりだからか、瑞穂の顔が浮かんでくる。食事のリクエストをすると言ったら任せろと胸を張っていたのは一昨日の夜のことだ。結局メールは一度も送っていない。食べたいものならいくらでもある。ただ、今思うのは。
 リクエストするならばこれしかないと考えて携帯電話を開くが結局閉じた。これはメールで伝えるよりも直接会って言った方がいい。
 代わりに良臣は着替えを出して浴室へと向かった。



 翌朝、模試に行く良臣を玄関で玲子が引き留めた。
 まだ化粧をしていない玲子は目の下に酷い隈を作っていた。昨夜は満足に眠れなかったのだろう。
「志帆によろしく言っておいて」
「うん」
「それから、今度ここに来るのは良臣がどうしても必要と思った時にしなさい。私も卒業まではあなたをここに呼んだりしないから」
「母さん?」
 どういう意味かと見上げると、玲子は強張った顔を近づけてきた。そして良臣の両肩に手を置く。
「勘違いしないでね。家族なんだから一緒にいた方がいいわ。本当はね。でも、受験生のあなたにとってこの家は害にしかならない。だから無理に帰省させたりしない。でも帰ってきた時は心から歓迎するから、その時はあなたの意思で帰ってらっしゃい」
 玲子はこの1週間良臣の環境について改めて考え直していたのだろうか。良臣にはわからないが、玲子が倉橋家で過ごす方がいいと判断して良臣に結論を告げたことは理解できた。そしてそれは良臣にとってもいい判断だ。反発するわけがない。
「母さんの言う通りにさせてもらうよ。時々、メールはするから」
「しっかり勉強してくるのよ」
 玲子の言う勉強が単なる受験勉強でないのは良臣にも察せられた。この家では感じることのできない、家族の温かさ。家族同士の接し方。玲子は良臣にそういうものも倉橋家から吸収させたいと思っている。志帆とは違うが、玲子もれっきとした母親なのだと認識させられる。
「模試、頑張ってらっしゃい」
 それが合図だった。
「行ってきます」
 この1週間で一番穏やかな気持ちを抱きながら良臣は狩屋家を後にした。



 模試が終わった後、良臣はいつものコンビニに向かおうとしてそのまま足を止めた。塾の玄関を出てすぐのところに陣取り、待つこと3分弱。瑞穂の姿を確認した良臣は地面に置いていた荷物を持ち上げた。視線を送ると、瑞穂はすぐに気づいた。目が一瞬大きくなったのは良臣がコンビニではなくここにいたことに対する驚きだ。周囲にはまだ人がいる。同じ学校の生徒だって。でもそんなものは構わなかった。
「お疲れ」
 戸惑っている瑞穂に先に声を掛ける。
「狩屋こそ」
 瑞穂はすぐにその先が続かない。良臣は先に歩き出した。当然、瑞穂もついてくる。
「今日はこの後バイキングだったよな」
「うん。向こうで合流することになってるから」
 美味しいと評判のバイキングで食事をすることにしたと誠吾からメールが入ったのは昨日のことだった。約束していた倉橋家と行く食事に自然と胸が弾む。
「楽しみだな。行った奴はみんな美味いって言ってたからな。なんてったって食べ放題だし」
「頼むから恥ずかしい食べ方はしないでよ。あと食べ過ぎてお腹痛くならないようにね」
「わかってるって。そうだ、お前への食事のリクエストだけど」
「あ、結局メール来なかったね。決まらなかった?」
「まあ。でも昨日決めた」
「なになに?」
 距離を縮めて尋ねる瑞穂に良臣は苦笑する。いざ言おうとするとなんとなく恥ずかしい気もする。でも本心だからいいじゃないかと自分で自分を励ました。
「久しぶりだからお前の作る物ならなんでもいいよ。ただ、美味いことが絶対条件な」
「なんでもいいってのが一番困るんだけどね。……まあ、でも頑張って考えてあげる」
 約束だからね。
 そう言って瑞穂は歩きながらぶつぶつとメニューを呟きだした。頭の中では凄まじい勢いで選別が行われているのだろう。月曜の夜の食事は期待できそうだ。
 取り敢えず、今目指すべき場所は某有名バイキング店。
 久しぶりに味だけではなく本当に美味しい食事ができることに良臣は知らず笑みを浮かべていた。
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