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 夏休みもあと僅かとなった頃、瑞穂の生活は恐ろしいまでに受験勉強の四字を中心に回っていた。朝起きたら塾に行くまで勉強。塾に行ったら授業が始まるまで自習室で勉強。授業と授業の間が空けばまた同様。良臣より早くその日の授業が終わればやはり自習室にこもって勉強。帰宅後は良臣と一緒に最低でも1時間は勉強。その後、余裕があれば寝るまでに勉強。窒息しそうなスケジュールだが受験生は皆似たような生活をしている。瑞穂も辛い時があったが良臣についていくと宣言したからには負けられない。何より、憧れのA大に合格したい気持ちが強かった。
「おい、そこで使う公式違うだろ。この間も教えたぞ」
「これとどう違うのか教えてよ。どういう時に使うのかもセットで」
「それもこの間説明したじゃないか」
「ごめん理解できなかった。今から絶対に覚えるからしっかり教えて。死ぬ気で覚える」
「覚えるじゃなくて理解しろよ。例題類題使って完全マスターさせるからな」
「お願い」
 瑞穂と良臣の勉強は以前に比べると言い合いが増えた。しかしそれが喧嘩になることはない。瑞穂が問題を解いている間良臣が自分のことをやっているのは今まで通りだが、しっかり見るべきところでの口数が増えた。口調はきついがそんなのは元々だから瑞穂は気にしていない。それに対して、瑞穂もわからないところは食い下がってわかるまで良臣に説明を求めた。 むやみにたくさんの問題を解こうとするな。1日1つしっかり覚える方が価値がある。
 瑞穂にそう言ったのは良臣だった。勿論これは苦手な数学UBに関する話で、他の教科は他の教科でうまくやっている。
 公式の説明を受け、例題、類題、と解いていった瑞穂に良臣は満足な顔を見せた。
「よし。今日はいいぞ」
「……ありがとうございました」
 終わる頃にはへとへとだ。苦手なものを頑張ること程辛いこともない。しかも先の長さを思うと大変だ。それでもやるしかなかった。



 それは塾がない日だった。朝から良臣の部屋のミニテーブルを陣取った瑞穂はいつものように必死に勉強していた。11時を少し過ぎた頃、ピンポーンとチャイムが鳴った。
「なんだろう、押し売りかな」
 残念ながら今日も両親は仕事だ。取りあえず回覧板だったら出なければいけない。リビングまで音を立てずに移動してモニターで相手を確かめる。
 玄関の向こうにいるのはストライプの入ったシャツを着た青年だった。二十代後半といったところだろうか。瑞穂の記憶にはない。押し売りには見えないが、家を間違えたのだろうか。
 瑞穂は一度良臣の部屋に戻ることにした。
「あのさ、若い男の人がいるんだけど。見たことないんだよね。私服だから押し売りじゃなさそうなんだけど」
「私服の押し売りかもしれないぞ」
「じゃあ、狩屋見てよ。それで怪しかったら出ない」
「わかったよ」
 そんなやりとりをしている間にもチャイムがまた鳴らされる。
 良臣がリビングに入り、モニターを覗き込む。瑞穂はやや遅れてその後についていき、様子を窺ったのだが。
「……兄貴?」
「え?」
 良臣から零れた呟きに瑞穂は目を丸くした。
「兄貴だ……」
 振り返った良臣はなんで兄貴がここにいるんだと尋ねている。しかし瑞穂がそれに答えられる筈がない。取り敢えず玄関を開けないことには始まらないと瑞穂が玄関に行きロックを解除してドアを開いた。青年――良臣の兄はなかなか反応がないことに苛ついていたようだったが、瑞穂と良臣が揃って顔を出すと少し驚いた顔を見せた。
「どうしたんだ?兄貴」
「久しぶりだな。それから、そちらは初めましてだね。良臣の兄の孝臣です」
 孝臣は良臣から瑞穂に視線を移して挨拶をした。瑞穂は慌てて頭を下げる。
「倉橋瑞穂です。お世話になっています」
「いや、こちらこそ。今日は突然来て申し訳ない。上がってもいいかな?」
「あ、はい。どうぞ」
 瑞穂は言われるままに孝臣を家に上げる。既に孝臣のペースになっていることに良臣は僅かに眉を上げた。
 瑞穂は孝臣をリビングに通すともてなしの準備をする為にキッチンに入る。手持ちぶさたになった良臣はソファに座った孝臣の向かいに腰を下ろした。
「どうしたんだよ、兄貴」
「どうしてるのか気になってね。丁度休みだし様子を見にきた」
「勉強していたところだったんだよ」
「それは悪かったな」
 そう言いつつも孝臣の顔にそれらしい感情は全く見えない。良臣が次の言葉を探しているところに瑞穂がやってきて麦茶を置いた。孝臣は礼を述べつつ、瑞穂にも座るように勧める。瑞穂は少し考えてから良臣と孝臣の間にあるソファに座った。兄弟の間に入るのはどうかと思ったが、良臣の隣に座るのもあらぬ勘違いを呼びそうだ。
「いつも弟が迷惑をかけているようですまないね。瑞穂さんも受験生のようだから邪魔をしていないといいんだが」
「邪魔だなんてとんでもないです。狩屋君にはさっきも勉強を教えてもらっていたところで。すごく助かります」
「勉強を?良臣が?」
 孝臣が疑いの目を良臣に向ける。居心地の悪さに良臣は舌打ちしたくなる衝動を抑えた。
「いつも食事を作ってもらってるから、その代わりに」
「食事?君が作ってるのかい?」
 孝臣の視線が今度は瑞穂に向けられる。眼鏡越しのどこか冷たい視線に瑞穂は萎縮しながら「はい」と答えた。   
「料理が得意なのかな」
「はい。小さい頃から作っていたので」
「……とすると、この間言っていたのは瑞穂さんのことなのか。俺はてっきりこちらの奥さんのことだと思っていたんだが」
 孝臣は険しくなった目を良臣に注ぐ。端から見ている瑞穂は冷や冷やするが良臣は全く意に介さない。
「そうだよ。もしかして兄貴疑ってる?本当に美味いよ、こいつの飯」
「いや。料理が得意な女の子。いいんじゃないか?」
「じゃあなんだよ。何が言いたい?この間の話なら俺は聞かないよ。母さんが決めたことを覆すのは兄貴でも難しいと思うけど」
 孝臣のところに来いという話なら受け付けない。良臣は半ば孝臣を睨みつけながら言い放つ。孝臣の周りの温度が一気に下がったような気がした。
 自分の存在を場違いのように感じていた瑞穂はとうとう耐えきれず口を開く。
「あ、あの、狩屋の部屋で話したらどうかな。私がいたらなんかよくなさそうだし。その間に私、ご飯作るから。お兄さんの分も作るから、食べていって下さい。そんなに時間はかからないので」
「いや、俺は――」
「いいよ瑞穂。兄貴にはすぐに帰ってもらうから」
 だから孝臣の分はいらないと良臣が言えば、孝臣が首を振る。
「いいや、瑞穂さんの言葉に甘えて昼食もいただくよ。その間、良臣の部屋で話させてもらおう。良臣、お前の部屋は?」
「……こっち」
 良臣はぞんざいに答えながらリビングを出る。孝臣の姿が視界からなくなったところで瑞穂は大きく息をついた。
 2人の仲がよくなさそうなのが伝わってきて疲れてしまった。どうやら良臣の方が孝臣を嫌っているようだ。こうなったら早めに昼食を作り、孝臣に食べてもらってさっさと帰ってもらうしかない。その為のメニューを考えて、瑞穂は冷蔵庫から具材を取り出した。
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