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 時計の秒針がカチカチと響く。瑞穂は良臣の部屋で正座をしながら数学の問題と戦っていた。この問題に取りかかって何分経っただろうか。10分以内でやれと言った良臣はまだ黙っている。尤も良臣の視線はずっと参考書に向いているから時間を確認するのを忘れているのかもしれない。しかしそれ以上に瑞穂はこの問題が解けないことに焦っていた。公式に当てはめてみたものの答えが出ない。公式は合っていると思うのに。計算ミスだろうか。それだってもう2、3回はやり直した。それなのに。背中を冷やりとした感覚が伝っていく。そこに良臣が冷たい声で時間切れを告げた。
「10分経ったぞ」
「……あー……」
 できなかった、とため息をつきながら一気に脱力してしまう。ついでに足も痺れて痛い。
 良臣は瑞穂のノートを取り上げて数式を一瞥する。そして深いため息をついた。
「お前さ、使う数字間違えてる」
「ええっ!?」
 反射的に身を起こしてノートを取り返す。10分間も問題が解けなかった理由が信じられない。問題を見つめている瑞穂に、良臣が横から解説を入れる。
「公式は合ってる。ただ、使う数字はここがこれ、こっちがこれ、で、ここにこれな。これ間違えたら解けないのは当たり前だろ。もっと問題をしっかり読め。仮にも国語得意なんだろうが」
「あー……」
 良臣の言う通りだ。正しすぎて言い返すことができない。でもどうしても数学の問題となると一気にわけがわからなくなる。最近はそれでもほんの少しはましになってきたけれど良臣にとっては許せないレベルなのかもしれない。大体、この部屋で正座して勉強させられるようになったのだって前回の模試の結果に良臣が納得しなかったからだ。
『そこに直れ。俺が一から叩き直してやる』
 一体何の時代劇ですか。そんなツッコミすらできなかったのは良臣の顔がちっとも笑っていなかったせいだ。二人で勉強する時間も30分から1時間に延びた。そうは言っても、瑞穂がじっくり問題を解く時間は良臣は自分のことをやっている。だからまるっきり良臣の邪魔をしているというわけではないが、それでも迷惑をかけている自覚はある。
「今日も美味いメシが食えそうだな」
「はい」
 ええ、腕によりをかけて作らせていただきます。
 瑞穂は頭を深く下げた。良臣は満足そうだ。勉強の見返りは今まで通りメシにしろと言ったのは良臣だ。しかし、時間が増えれば食事の質や内容を上げるのは当然のこと。もしくは、一品増やすか。そこまで手間ではないけれど、暑い中やるのはほんの少しだるい。でも自分にとってもしっかり食事を取るのは大事だから文句を言わずにやっている。
「さて、塾に行くか」
「あ、うん」
 傍に置いてあったバッグに筆記用具を放り込む。テキストがしっかり入っていることを確認して立ち上がった。その途端、足がふらつく。支えを求めて壁に張り付いた瑞穂を見て良臣が笑った。
「酷い!笑うんなら狩屋も正座してみなよ。絶対こうなるから!」
「かもな。でも俺はしないからそうならない」
「うわ、そういうのへりくつって言うんじゃないの?」
「ほら、ごたごた言ってないで行くぞ」
 良臣は自分の荷物を肩にかけるとスタスタと歩いて行ってしまう。瑞穂は痺れた足でふらふらしながらその後を追いかける。玄関を出る時、「行ってきまーす」と言ってから戸締まりをする。鍵を閉めた瑞穂が後ろを向くと良臣が軽く首を傾げていた。
「お前のそれ、習慣なんだな」
「前にも言ったよね、それ」
 仕事で両親が家にいない時でもそう言って出かける瑞穂に良臣が驚いた顔をしたのは夏休みに入ってすぐの頃だ。それまで二人揃って出るなんてことはなかったから良臣がそれに気づいたのは初めてだった。
『誰もいないのに言うんだな』
『だってそういうものでしょ?挨拶って』
 いただきますみたいなものだよ。その説明に良臣は頷いた。
「でも今日は帰って来ないんだぞ。おじさんもおばさんも」
「そんなこといちいち考えないよ。癖だもん」
 答えながら、今日の状況を再認識する。誠吾と志帆は一泊二日で熱海に旅行に出てしまった。帰ってくるのは明日の夜だ。つまり、今日は良臣と二人きり。でもそんなことを考えたところで何てこともない。自分と良臣で何かあるわけがないじゃないか。きっと良臣も同じことを考えている。ただ、普通の人がそれを聞いたらどう思うかくらいはわかる。元々良臣が倉橋家にいるのはほとんどの人間が知らない。ほとんどというのはマンションの隣近所くらいの人間は流石に倉橋家に誰が住んでいるのかを知っているからであって、ただ良臣のことは瑞穂の従兄弟だと説明してあり今のところ特に問題はない。それでも気をつけるべきところは気をつけなければいけない。
 


 塾から帰った後、良臣と二人並んで夜食を取るのはいつものことだ。でも、いつもは志帆や誠吾がやってくる。それなのに今日はその二人の気配がない。とても奇妙な空気の中、瑞穂は良臣よりも先に食べ終える。食べるのが早いのではない。量を少なめにしてある瑞穂と大盛りの良臣では自然と瑞穂の方が早く片づけに入るだけだ。
 瑞穂は自分の分を片づけるとそのままリビングのテレビをつけた。ソファに座ってバラエティ番組を見る。最近ブレイクした芸人が流行のギャグをやっていた。ここに志帆か誠吾がいたら一緒に見て笑うところだけれど今はそんな気分になれない。良臣がまだ無言で食べている中、一人で笑うことに躊躇いがあった。そんなふうにしているとテレビを見ていても面白くない。微妙な空気に耐えかねた瑞穂はテレビを消して立ち上がった。
「先、お風呂行くね」
 それだけ言ってリビングを後にする。一日の疲れをゆっくり流していれば気持ちも緩むだろう。そう思った。
 瑞穂が風呂に入っていたのは30分程。さっぱりした気分で出た瑞穂は良臣と入れ替わりにリビングに入り、ドライヤーを使い始める。タオルドライは十分にしたつもりだけれど、途中でもう少し水気を取った方がいいところはタオルを使っていく。面倒くさいけれど、ドライヤーだけに任せていると髪が傷んでしまう。救いなのは、地毛が真っ直ぐな瑞穂はストレートパーマをかけていないからその分の傷みは避けられることくらいだろうか。それでも毛先の方は結構酷い。多少整えたり、すいたりする為に美容室に行くが、その時にはトリートメントをしてもらう。効果は――少しはあるように思う。それでもこんなに長くなければ苦労はしない。
 中3の時、怪我を境に伸ばし始めた髪。テニスとの決別の現れであったはずのこれは、球技大会が無事終わった今、もう伸ばし続ける必要はないものだ。いきなり短くしたら首周りが落ち着かなくて寒く感じるかもしれない。でもこの時期ならそんなこともないのだろう。ただ、3年かけて慣れ親しんだこの長さに愛着もある。どうしようかな、と考え始めたところに良臣が現れた。瑞穂の髪はまだ半分程度しか乾いていない。
「早いね」
「女が長風呂なんだよ」
「私は長い方じゃないよ。それに、うちだとお父さんが一番長く入ってるし」
「確かに。いつも1時間くらい入ってるよな」
 良臣は苦笑しながら冷蔵庫からミネラルウォーターを出す。一口飲んだ後、冷蔵庫にはしまわずに
持ったままリビングにやってきて瑞穂の斜め右のソファに腰を下ろした。丁度二人が90度の位置になる。
「まだ乾かないんだな」
「うん。こればかりは面倒くさい」
「だろうな」
 良臣はテーブルにペットボトルを置くとそのまま瑞穂の髪に手を差し込んだ。そのまま上から下にすく。
「本当だ。下がまだ全然乾いてない。お前よくこんなの毎日やるよな」
 良臣が本心から同情する。その顔は気の毒だと言わんばかり。瑞穂は好きでやっているわけじゃないと態度で示しながら、ほんの少し反発してみたくなった。
「大変だとか思うなら口だけで終わらせるんじゃなくて手伝ってよ。交代するとかさ」
 口を尖らせて言えば良臣の目が細くなる。
 なんで俺がそんなことしなきゃならねーんだよ。
 そんな言い返しを予想していた瑞穂に、良臣は無言で動いた。立ち上がり、瑞穂の手からドライヤーを奪うと、先ほどまで瑞穂が当てていた辺りに位置を決める。
 思わぬ展開に無言になる瑞穂に良臣の意地の悪い声が降ってくる。
「俺を使うとはいい身分だな」
「サ、サービスってことで!」 
 反射的に言ったものの、完全に瑞穂の負けだった。
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