days

モドル | ススム | モクジ

  37  

 窓を閉め切った部屋の中、ガラスがあることなどなんのお構いなしに響いてくる蝉の声。何匹いるのだろうか、何十匹というわけではないようだが、マンションの周りに適度に植えられた木にくっついているらしい。難問マークのついた世界史の記述式問題を解こうとする集中力が切れる。
 大体、世界史でこんなに難しい記述をさせるようなところなんて受けないっての。
 イライラしながら去年使った塾のテキストを広げる。多分その辺をまとめればそれらしい答えができるはずだ。塾の世界史の先生は解答欄の空白にとてもうるさい。間違っていてもいいから何か残しておかなければいけない。かといってあまりに見当違いだとそれはそれでまた嫌味を言われる。
 難関国公立・私立コースならともかく、国公立・中堅私立コースでなんでそこまで言われなければならないのか。でも他のコースに移っても意味がない。センター試験対策講座は来週だけれどそちらのテキストは既に終わっている。こっちのテキストに飽き飽きしながらランクを落としてみようとやってみたら意外にスラスラ解けた。合っているかどうかは知らない。でも比較的苦手な世界史が思いの外埋まったのは気分が良かった。それなのに明日の授業の分の予習が終わらない。
 聞いてみようかな。
 隣の部屋で勉強しているだろう良臣の顔を思い浮かべる。けれども、この後に数学を教えてもらう約束をしている立場では、やればそれなりに何とかなる世界史をわざわざ聞くなんて迷惑だと思う。向こうも同じ受験生。しかも目標の大学だって段違いだ。この夏が重要なのは二人とも同じだった。
 学校は夏休みに入り、二人とも塾に通い詰める日が始まった。夏季講習は毎週、しかも毎日のようにある。午前中から缶詰めになる日もあるが、今週は瑞穂も良臣も午前中は空いている。それでも良臣は朝から塾の自習室を利用するのかと思っていたら、「昼飯食ってから行く」とそれを否定した。一日中塾にいると満足な昼食が食べられないのが嫌らしい。確かに良臣はよく食べるし、味にはうるさい。ちゃんとした昼食にありつけるチャンスを棒に振らないのは良臣らしかった。
「今日は冷やし中華だよね……」
 冷蔵庫の中身を思い出す。
 勿論、普通の冷やし中華で良臣の腹が膨れるわけがない。大盛り具だくさん、ついでに杏仁豆腐のデザートつきだ。手間はそんなにかからないから、数学を教えてもらった後に取りかかればいい。この時期は、夕飯の支度は母がしてくれるから考えなくてもいいし、楽と言えば楽だ。でも受験生だからそんなことで喜んでもいられない。来月はほぼ毎週模試がある。それを考えるだけで頭が痛い。
 でも、先週行ったオープンキャンパス。そこで実際に感じた大学の雰囲気。先生から受けた説明。――やっぱりあの大学に行きたいと強く思った。
 だったら勉強するしかない。テニスだってできたんだから。こっちだって。
「あと25分」
 瑞穂は自分に言い聞かせながらテキストに目を走らせた。



 塾までの道のりを良臣と歩く。最近、それが増えてきた。
「数学の白井がさ、結構腹立つ奴なんだよ」
「ふーん。こっちの高村先生は割といい人だけど」
「あいつ、自分がT大出なんだと。だから『お前らこんなんが解けなきゃT大は無理だぞ』とか『やる気がない奴は他のクラスに行け』とかそんな感じ。小言はいいから数学教えろってんだよな」
「それは確かにやだね。でも、頭にきたならT大に合格して見返せってことなんじゃない?」
「俺はいいけど、それが出来ないやつもいるって」
 夜にこの道を2人で歩くのはとっくに慣れた。でも、明るい内にこんなふうに並んでいるのは違和感がある。塾の近くになると自然と会話はなくなる。距離も空く。同じ学校の人が目に見える範囲にいる場合もそうだ。そこだけは気をつけている。挨拶や軽い会話くらいは当たり前だけれど、それ以上はどこで止めるべきか判断に困る。下手に失敗する危険があるなら最初からしない。きっと良臣も同じ考えのはずだ。ただ、向こうは止めるべきラインをわかっているのかもしれない。瑞穂にはあずかり知らぬことだ。
 どうせ、来週はまた家を出る時間が違うし、あまり深く考えても意味がない。
「そういやお前、古典の予習した?」
「うん。一応終わらせたよ」
 古典だけはいつでもやる気が起きる。同じ勉強なのに数学とは大違いだ。夏季講習のテキストを受け取った後、一番最初に手をつけたのが古典だった。実は今回、古典だけ良臣と同じ講座を取っている。瑞穂が古典を大学で専攻する希望を持っている関係で、そのレベルに合わせた講座を勧められたのだ。迷ったが、センター対策の古典は別に取っている為、チャレンジするつもりで一番上の講座を取った。当然、良臣にはそのことを伝えてある。
「俺、ちょっと気になってるところがあるんだ。明日の午前中、数学のついでに古典持ってこいよ」
「いいけど。でも役に立たないかも」
「いや、古典だけはお前が一番信用できる。先生以外では俺が知ってる中で一番だから自信持てよ」
 良臣の思わぬ発言に瑞穂はぽかんとした。
 まさか、こいつがこんなことを言うなんて。
 意味のない嘘は絶対に言わない。だから、今のも本心なんだろうけれど、それにしても誉めすぎじゃないか。呆れると同時に嬉しくもある。勉強のことで良臣に認められて喜ばないはずがない。
「これで数UBが足引っ張ってなかったらいいんだけどな。あれだけは本当に壊滅的だからな……」
「そういうことを言うな!」
 ため息をつく良臣に、暑い中大きな声で反発する。
 勉強を見てもらっているから流石に余計なお世話だとは言えず、それが精一杯だった。ぷっくり頬を膨らませてそっぽを向く。そこに良臣の笑い声が聞こえてくる。
「すねるなよ」
「無理っ」
 こうなったら行きはもう口を聞いてやるもんか。
 瑞穂は早足で歩き出した。良臣は意地の悪い笑いを堪えながらその後ろをついていった。



 今週は珍しく瑞穂の方が授業が終わるのが遅かった。しかし良臣は自分の授業がない時間も自習室にこもっている。そして、瑞穂の授業が終わる少し前に切り上げて待ち合わせ先のコンビニに向かうのだ。二人の立場が違う場合も同様だった。
 今日の授業が終わり、瑞穂はすぐ近くのコンビニに向かいながら携帯を開く。メールが一通届いていた。光二からだ。さっと読んだ内容に瑞穂は僅かに目を細めた。
<From 中西光二
  Sub 4人で
 本文 勉強会しない?みんなそれぞれ塾に行ってるけど、たまには環境変えた方がいいと思うよ。数学見てあげられると思うし、俺も古典教えてもらえると助かる。>
 長い休みに入ると、何回か4人で集まって勉強会を開いていた。いつものメンバーとわいわいしながら苦手なものを教え合うのはなかなか楽しいのだけれど、今回はそういう気分じゃなかった。二人きりじゃないと言っても、光二と顔を合わせるのはなんとなく気が進まない。大体、勉強なら良臣に見てもらっている。意外と面倒見がよくて教えるのも上手な良臣と毎日時間を決めて勉強しているのに、今更他の人となんて。でも、そのことは誰も知らない。断りたいけれど、大丈夫かと心配されるのがおちだ。それであれこれ誘ってくるんだろう。それを考えるだけでほんの少し嫌になる。
 そうこうしている内に、コンビニの前にきてしまった。丁度コンビニから出てきた良臣が横に並んだ。
「お疲れ」
「そっちも」
 軽い挨拶を交わして、その後は良臣が瑞穂より少し後ろを歩いて行く。駅に着くまでは基本的にこの位置と決まっている。同じ塾の人目が無ければ話しながら歩くが、この時間帯は大体誰かいる。良臣とまともに話すのは電車に乗ってからか、地元の駅に降りてからだ。
 良臣の足音を聞きながら、瑞穂は携帯を片手にメールの返信内容を考えた。
 正直に言うわけにはいかない。でも、行くつもりはない。こういう時は無理して行った方がストレスが溜まる。この夏は大事な時期だ。そんなことに気を遣いたくない。
<To  中西光二
 Sub Re:4人で
 本文 そういえば夏休みは全然計画してなかったね。でも、今年は塾一本にしぼって頑張るって決めたから、誘惑を振り払って塾に引きこもりたいと思います(笑)せっかく声かけてくれたのにごめんね>
 本文を打った後も少し悩んだ。でも他に言いようがないと思い、瑞穂は送信ボタンを押して携帯をしまった。その時、既に電車に乗った後で、顔を上げると良臣が瑞穂に視線を向けた。メールについて聞かれるのかな。一瞬不安になったけれど、良臣が口を開いたのは違う内容だった。
「行くときに話した白井」
「数学の」
「そう。あいつ、今日も絶好調だった。『この程度の問題、僕が教えるまでもないですね。狩屋君、前に出て説明して』ってさ。学校かよ。塾でやることじゃないだろ。むかついたからすっげー汚い字で書いてやった。説明は完璧にしてやったさ。馬鹿にされると余計にむかつくからな。でもあいつのお陰で最高に最悪だな。あと2日もあるとか、何の冗談だよ」
「うわ……」
 話を聞きながら瑞穂はひいた。その場にいなかったのに、話を聞いただけで最悪と思えるのはなかなか凄い。しかも良臣の怒りのど真ん中をぶち抜いてくれたらしい。それで誰かに八つ当たりする良臣ではないが、文句を抑えることはできなかったようだ。
「もうさ、それでずっと腹立って自習室でも気が散ってしょうがなかった。俺の貴重な時間を返せっての」
「私、高村先生で本当に良かったー」
「同じ金払ってこの違いはなんだよ。講座のレベルが高くてもこう気分悪くさせられたら意味ないだろ。なあ?」
「う、うん……」
 すごい。
 光二のことなんてどうでもよくなるくらいのインパクトだ。あと2日、良臣は白井先生の愚痴を止められないに違いない。でもそれにつきあうくらいなら構わない。光二からのメールに少し嫌な気分になるよりは良臣と一緒に嫌な思いを共有する方が全然いい。 
 取りあえず、明日はカルシウム多めにしておこうか。気休めかもしれないけれど。
モドル | ススム | モクジ
Copyright (c) ring ring rhapsody All rights reserved.
  inserted by FC2 system