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  35  

 ボールがラインの上をなぞって外に跳ねていく。必死で追いかけた紗枝も追いつかず、コートの周りでどよめきが起こる。ボールが2回バウンドしたのを見届けた瑞穂は澄ました顔で反対側のベースラインにつき、ポケットからボールを取り出した。2、3度バウンドさせ、ボールの感触を確かめる。
 目がよくて良かった。悔しそうな紗枝の顔がしっかり見える。
 ゲームカウントは現在5−4。瑞穂がリードしている。瑞穂の怒濤の追い返しが始まったのはかれこれ30分前。きっかけをくれたのは良臣と他でもない紗枝だ。特に彼女の一言は瑞穂を現実に引き戻すには十分すぎた。彼女の発言できれた瑞穂はそこから動きが変わった。自分でもはっきりわかる。足が前の試合のようによく動いている。狙ったコースも気持ちいいくらいに入っている。どうしても3年前と比べたらまだまだ足りなさすぎるけれど、でも、昨日からの中で一番いいテニスだ。ついでにさっきから、サーブの回転がよくかかるようになってきている。それが紗枝にとってはかなり辛い状況になっているらしい。
 自分の余計な一言がこっちの調子を上げたこと、気づいてるだろうか。
 ちょっとだけそんなことを思ったが、答えはどうでもよかった。すぐに気持ちを切り替え、次の狙いを定める。審判のコールが終わったところで即座に狙い打った。

 瑞穂の放ったサーブはまたもや的確にラインギリギリをなぞって行った。先ほどとは正反対の方向にボールが転がっていく。一歩踏み出したものの、それ以上追うことのできなかった紗枝が悔しげに地面を踏みつけた。
「うわ、まただよ。すげー、瑞穂」
「あったりまえだって!言ったでしょ、瑞穂強いって!」
 素直に驚く宏樹に茜が上機嫌で肩をたたく。既に何度も繰り返されたやりとりだが彼らは気にしないらしい。良臣は最初から変わらず彼らから一、二歩下がったところから試合を眺めている。
 良臣からボールを受け取った後から瑞穂の雰囲気ががらりと変わった。最初は気のせいかと思ったが、試合が再開されるとこれまでの劣勢を挽回しはじめた。それどころか、いつの間にか状況をひっくり返していた。今や優位に立っているのは瑞穂だ。それはこの場にいる人間誰もが感じている。先ほどから瑞穂の一挙一動に目が離せない。プレーが決まる度に起こるざわめきがコート中を取り囲んでいた。決勝は気づかない内に終わっていた。テニスコートに集まった人々はみんな瑞穂と紗枝の試合に注目している。一瞬でもよそ見をしてはいけないような気にさせられるのは、それだけ今の瑞穂が人を惹きつけているということなのだろう。
 テニスにこれといって興味はない。球技大会程度で騒ぐのは脳天気だと思う。
 でもこの一戦だけはちゃんと見届けたい。
 良臣は足を踏み出し宏樹達との距離を縮めた。

 

『お前、誰と試合してんの?』
 あの一言で目が覚めた。
 良臣に言われるまで気づかなかった。あの時、瑞穂が戦っていたのは野島紗枝ではなく、紗枝を通して見ていた過去だった。紗枝の中にあの時味わった恐怖を、屈辱を、失望を、勝手に重ねて勝手に怯えていた。
 何やってるんだろう。そう思ったところに紗枝のあの一言がきた。
 あの一言で、紗枝に被せていた虚像は消え、完全に紗枝自信が瑞穂の対戦相手になった。
 攻めて攻めて攻めて――ポイントを重ねていく内に思った。
 私、今誰と戦ってるんだろう。
 紗枝と試合をしている。でも、本当の意味で戦っているのはもっと違う。
 試合をしながら、紗枝を追い詰めながら、さっきまでの弱い自分に打ち勝っていくのを感じた。いつまでも3年前の恐怖に捕らわれている自分。とっくに治った怪我を引きずっている自分。思い出しただけでまともに足が動けなくなる自分。
 でも今は違う。そんなものには負けないでこうして試合をしている。――そう考えてみるけれど、実のところそんなに難しいことではないのかもしれない。ただ目の前の相手とボールに集中したかった。他のことはどうでもよかった。あの怪我ですらどうでもよくなった。それを他でもない瑞穂が強さだと思いたいだけだ。
 過去は変えられない。あの夏に瑞穂が足の怪我で棄権負けした事実は一生そのままだ。随分傷ついた。なかなか立ち直れなかった。今だって辛くないといったら嘘になる。ただそれ以上に――勝ちたい。この試合に。これまでの自分に。テニスと向き合えなかった自分に。勝たなければいけない。
 この試合を通して変わりたい。
 それは願いであり、目標であり、今一番大切なことだった。
 だから集中する。ただひたすら、この一球、次の一球のことを考える。
 右に打つ。ストレートで返ってくる。ダッシュしてクロス、ネット際に落とせば紗枝が追いつく。ボレーの小気味良い音が耳に届いたと思った瞬間、慌ててダッシュする。前後の動きは得意だった。3年前だったら間違いなく捕らえていた距離。それなのにあと一歩半というところでボールはコートに転がった。紗枝に向けられた応援が盛り上がる。紗枝を見れば、してやったりと言わんばかりに目を輝かせていた。
 向こうも去年までテニス部だったから、瑞穂の守備範囲を見極めてその外を狙ってきている。
 そう簡単に勝たせてくれないか。
 苛立ちながらボールを拾う。もうずっと止まらない汗をタオルで拭ってから紗枝にボールを送る。
 これを知ったら紗枝は怒るかもしれないけれど、相手が彼女でよかった。ちゃんと試合になっている。紗枝が強すぎなかったおかげだ。彼女がもし一試合前に当たった一年生のように強かったらまともな試合にはならなかった。そうだったら、ここまで気持ちを引き戻すことはできなかったと思う。きっと傷ついたまま、試合が終わっていた。
 でもまだ残っている。
 ゲームカウントは5−5。少なくとも数字の上では互角だ。幸い、今の瑞穂の技術でも通じる。彼女の技術に圧倒される場面はほとんどない。気持ちの上でも負けているとは思わない。紗枝は3年前に対戦できなかった瑞穂に勝ちたい。瑞穂も紗枝に勝ちたい。勝って変わりたい。
 あとは一つ一つできることをやっていくだけだ。
 そして、絶対に勝つ。



 無心でやるつもりだったのに、いろいろなことを考えた。
 頭も身体も目の前のことでいっぱいいっぱいのはずなのに、それでも考えずにはいられなかった。
 この3年間はなんだったんだろう。
 あの夏から、たくさんの人に心配をかけた。両親、友達、部活の後輩、顧問、先生達。テニスとは関係のない生活をしたいと強く願って猛勉強し始めた瑞穂をみんな「変わったね」と言った。そして腫れ物に触るような扱いをした。松葉杖が必要なくなってからもそれは変わらなかった。そんな周囲が煩わしかった。この人達と一緒にいる限り、ずっと同じような目で見られる。そしてその度に、テニスのことを思い出す。それが嫌だった。だから余計にF学にこだわった。同じ中学から入れるのはせいぜい2、3人。とにかく大学進学に力を入れているF学では部活はおまけのようなものだ。そこでは誰も瑞穂とテニスを結びつけない。きっと、望んでいる高校生活を手に入れられるはず。
 その願いは叶った。
 でも結局こうしてラケットを握ってボールを追いかけている。
 それも嫌々ではなく、楽しくて楽しくて仕方なかった。
 自分がポイントを取れれば嬉しい。相手に取られれば悔しい。だから取り返す。そしてまた取り替えされて、取り返して――。
 最後は無我夢中だった。
 紗枝がネット際を狙ってボレーを放った。予測していた瑞穂は走った。流石に足が重くなっていた。それでも走った。ぎりぎりだと自分でもわかっていた。精一杯ラケットを伸ばす。中心を外したところに黄色いボールが当たるのが見えた。無理な体勢を取ったせいでバランスを崩す。視線はそのままボールを追う。
 ボールはネットを超えてすぐのところで落ちた。
 2度、3度バウンドするボールを何も考えられずに見つめていた。
「ゲームセット!」
 審判がコールすると、今日一番の歓声がわき起こった。
 瑞穂はよろよろと起き上がる。
「……勝った」
 ゲームカウント7−5。
 粘りに粘って自分のものにした勝利にさまざまな感情があふれ出す。汗を拭う振りをして隠した涙は分かる人には分かってしまったかもしれない。
 勝った。
 勝ったんだ。
 やっと長いトンネルから抜け出すことができた。
 審判に礼をした後、紗枝が悔しそうな顔で言った。
「ちょっと勉強に力入れすぎたかもしれない」
 1年前だったらこてんぱんにしてたのに、と。でも、と紗枝は更に憤った様子でつけ加えた。
「やっぱりテニス部やめてよかった。負けたけど、ずっとやりたかった試合はできたからね」
 それを聞いて瑞穂は困ったように笑った。
「うん。私も野島さんとできてよかった」
 紗枝と試合ができたからこんなにも心が晴れ晴れとしている。それを本当に嬉しく思った。
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