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  33  

 まただ。右のベースラインぎりぎり。さっきから相手はそこばかりを狙ってくる。かと思えば反対側をついたり。左右に振るのは初歩的な戦略だけれど、今の瑞穂には辛かった。
 足が悲鳴を上げていた二回戦はまだマシだった。だって、今はもう悲鳴どころか絶叫、阿鼻叫喚といってもいいくらいだ。普通に歩くのも辛いのに、短距離の全力ダッシュをもう何本、何十本もとせられている。負けじとコースや前後を狙って打ち返すけれど相手の反応は早い。悔しいけれどそう簡単に終わらせてはくれなさそうだった。
 それでも。
 いっそ取れてしまった方が楽じゃないかと常軌を逸した考えすら過ぎりながらも、なんとかあと2点で3−2になるところまで持ち込んだ。
 相手が肩で息をしている。こちらも全身で呼吸を整えながらサーブの位置を確かめる。足を前後に開いて右足を引けばまた激痛が走る。そこだけ別の生き物かと錯覚してしまいそうに、じんじんと異常を主張する足。重心をかければ、これ以上いたぶるなと足が怒っているような気さえする。
 部員の声はとっくの昔に耳に入らなくなっている。
 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――――。
 でも勝たなきゃいけない。絶対に負けたくない。やれるところまでやってみたい。いってみたい。
 足さえこうでなければ、もっとスムーズに勝てていたはずの相手だと思う。それがこんな足のせいで。
 右足に更に重心をかける。歯を食いしばっても、もう気休めにすらならなかった。三回戦が始まったすぐくらいから、もう顔をごまかすことはできなくなっていた。友達も様子がおかしいことに気づいていた。「大丈夫?」とかけられた言葉にはそれでも頷いた。
 大丈夫じゃなくてもやるしかない。
「――っあ!!」
 ボールを向こうのコートに打ち込む瞬間、痛みのあまり声が出た。顔だけじゃなくて、そっちまで止められないか。
 相手が何度かミスを見せたコースに打ち込んだボールは瑞穂の狙いとは多少ずれたところに落ちた。それでも悪いコースじゃない。けれど、相手も必死だ。何度も同じミスをするわけにはいかないと食らいついてきた。返されたボールの軌道を見て、ネットぎりぎりのところでバウンドすると判断する。そして反射的に足を踏み出したが、右足に力を入れすぎた。
「っ!!」
 そこにかけた力に耐えきれずに、その場で足を挫いてしまう。更なる激痛に襲われて、瑞穂は悲鳴を上げた。周囲の目なんて考えていられなかった。
 目から涙が出る。それでも何とか立ち上がろうとしたけれど、それすらできなかった。右足は普通に立って瑞穂の身体を支えることすら拒否していた。
「うそ、こんなの――」
 これじゃ試合にならない。
 焦りながら、何度も立とうとする。でも無理なものは無理だった。周りに人が集まってくる。一番最初に駆けつけた顧問に幾らかやりとりした後、顧問の手が肩に触れた。
「これじゃまともに歩くこともできない。倉橋、――棄権だ」
 すう、と血の気が引いた。一瞬足が痛いことも忘れた。頭の中が真っ白になった。
「き、けん」
「そうだ」
 そこでやっと「きけん」が「棄権」のことだと繋がった。
 棄権。
 そんな。
「やだ!最後までやります!お願い先生、やらせて下さい!!」
「馬鹿なことを言うな!!お前は今、試合どころの話じゃないんだぞ!!お前の足の方が大事なんだよ!!」
「でも棄権は嫌なんです!!嫌。絶対に嫌。途中で終わるなんて」
 立たなきゃ。立って、まだできるってことを見せなきゃ。
 再び力を入れて立とうとする。けれど足はやはり言うことを聞いてくれなかった。身体が崩れ落ちそうになるところを顧問が支える。
「おい!」
「だって、先生、こんな終わり方……」
 やだ。
 その一言は声にならなかった。代わりに、嗚咽が溢れだした。
 こんなところでこんなふうに終わらなければならないなんて。
 一年間頑張ってきた。全部、都大会に出るためだったのに。都大会でどこまでやれるか、それを試したかったのに。それがこんな形で台無しになるなんてひどい。この試合に勝って次の試合に出たいのに。なのに。
 その後のことはほとんど曖昧だった。
 ただ、顧問に肩を借りた状態でネットの前に行った。そこで試合終了のコールを聞いたことだけ覚えている。「棄権により……」その言葉がひどく悔しかった。

 足にはヒビが入っていた。
 骨折寸前だったと聞いてももう何の感情も出てこなかった。
 ギプスを巻いて、松葉杖生活になったところで学校は休み。不便には不便だったけれど、家でほとんどの時間をボーッと過ごしている瑞穂には大した問題ではなかった。
 何もする気が起きなかった。
 あんなに好きだったテニスのことも考えたくなくなった。ラケットは部屋の収納の一番奥に閉じ込めた。もう見たくなかった。
 携帯にはメールが溜まっている。差出人を見ていつもそこでやめてしまうのは、内容はどうせ決まっているからだった。どんな優しい言葉も心配もいらない。そういうものに触れるのも嫌だった。自分がどういう状況なのか、改めて知らされるから。
 ただ目を覚ましているだけでも胸が苦しいのに、これ以上棘が増えたら耐えられるわけがない。
 何をするでもなく、ベッドの上に座りながら、時折涙をこぼした。



 夏休みも後半にさしかかった頃、足の怪我のことで書類を渡したいと言われて学校に行った。体育館横のテニスコートには見向きもしないで真っ直ぐに職員室に向かった瑞穂を待っていたのは、保健室の先生ともう一人、部活の顧問だった。
 顔も見たくなかったけれどつかまってしまったからには仕方ない。呼び止められた瑞穂に顧問は近寄ってきて真顔を向けた。
「今回のことは残念だった。でも、都大会まで行ったんだ。幾つか高校のテニス部から誘いがくると思うぞ」
 中学3年生。嫌でも進路を考えなければならない時期だった。いや、ほとんどの人は今、猛勉強している。瑞穂はテニスが強いA高を志望していた。高校でもテニスを続けたい。もっと強くなりたい。その願いも都大会である程度の成績を残せば叶うはずだった。
 でも結果は三回戦棄権。なによりも、もうA高に行きたいとは思えなかった。
「……いいです」
 消え入りそうな声だった。顧問が怪訝な顔をする。だからはっきり意思表示をするべく瑞穂は顔を上げて、声を張った。
「もしきても断ってください。私、もうテニスはしません」
 今後一切テニスはしない。
 テニスとは関係のないところで生きるんだ。
 その決意は固かった。



 とにかく、テニスとは関係のないところへ。
 その思いで必死に勉強を始めた。
 難関のF学なんて無茶苦茶な進路目標を立てたのはひたすら勉強に没頭したかったから。F学なら入っても勉強でずっと忙しいだろうし、何よりも部活に力を入れていないところだから、テニスをやっていた瑞穂を知っている人はほとんどいないと思った。試合で何度も顔を合わせていた面々はきっとF学なんて目指さない。
 そう、F学に入ればテニスをしていた自分と完全に別れられると思っていた。
 それなのに、この状況はなんだろう。
 今、過去の瑞穂を知っている相手と試合をしている。球技大会とはいえ、相手は本気だ。去年までテニス部員だったこともあり強い。一つ前の試合で当たった一年生ほどではないけれど、それでもその他の相手とは比べものにならなかった。
 とはいえ、全く歯が立たないわけじゃない。つい数時間前までの瑞穂だったら難なく対応できていた。けれども今は身体がうまく動かない。
 特に足が強張ってしまって、どうしても反応が遅れてしまう。
 足下を通り過ぎていくボールを見送り、舌打ちをした。
「今の、とれたのに――」
 それなのに足が動かなかった。
 怪我はとっくに治っている。3年前のあれ以来、怪我とは無縁の生活を送ってきた。それなのに今、足までがあの時のことを思い出して怯えているようだ。痛くもなんともない。けれど、なぜだか痛いような気もする。気持ちの問題だ。
 あの時の恐怖が身体を、心を支配する。
 野島紗枝は十分勝てる相手だ。そうわかっていても、どうにもできないのが悔しかった。
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