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  27  

 一日の終わりにするのは明日の仕度。小学校から欠かさない習慣だ。
 宿題は一通りやった。学校のも、塾のも。
 後は明日必要なものをバックに詰め込んで寝るだけ。なのにさっきからずっと手に取ったラケットから目が離せずにいる。
 そんなところにノックの音が響く。
「はい?」
 反射的に顔を上げるとドアが開いた。顔を出したのは珍しいことに良臣だった。
 普段瑞穂が良臣の部屋を訪れることはあっても、良臣が瑞穂の部屋を訪れることは滅多にない。しかもその時の用件のほとんどが食事関係だ。だから今夜も何かつまめるものが欲しいのかと予想してみる。
「あのさ、英語の辞書貸してくんない?」
「いいよ」
 開口一番に出てきた内容に、食べ物じゃないのか、と胸の中で呟きながら立ち上がった。そして机の上にある英和辞典を取って良臣に渡した。
「サンキュ。どうも学校に忘れてきたみたいで」
「そっか。まだ寝ないの?」
「塾の宿題終わったら寝るよ。お前はもう寝んの?」
「そうだね。今明日の仕度してたとこ」
 バックをちらりと見ると良臣が「あれ」と声を上げた。
「ラケット?」
「ああ……私、球技大会でテニスになったから」
 明日体育が球技大会の練習なんだ。
 そう伝えると良臣は「へー」と相槌を打った。
「それ、お前の?」
「うん。昔やってたんだ。中学の時テニス部で」
 良臣と話しながらラケットをバックから取り出す。あちこちに傷がついているフレーム。それに対して真新しいガットとグリップ。それを見せつけるように良臣に向けた。
「このラケット持って、一年中コートを走り回ってたんだよ。お陰でかなり焼けたけどね」
「え、なに。お前黒かったの?」
 良臣が目を丸くする。
 色黒、というのは女にしてみればなかなか胸に刺さる単語だと思う。少なくとも当時の瑞穂は気にしていたし、今でもあの頃の日焼け具合は酷かったと思うから、余計に。
「そりゃずっと外にいたら誰だって焼けるでしょ」
 ラケットをバッグに閉まってそのまま本棚からアルバムを取り出す。適当に開いたページに写った3年前の自分の姿を見てため息をついた。
「ほら、これ。中3の夏」
 良臣にアルバムを渡すと、その表情が固まった。
「え、これ」
「元々あまり焼けないタイプなんだけどね、テニスやってると流石に焼けないわけないよね。今は大分ましになってきたと思うんだけど」
「いや、色もそうなんだけど、お前、髪短かったんだな」
 良臣が写真の瑞穂と目の前にいる瑞穂を見比べている。言われて気づく。良臣が驚くのも無理はなかった。写真の中でピースしている瑞穂はショートカットで今の瑞穂とは似ても似つかない。
「スポーツするのに長い髪って邪魔でしょ。それにショートって楽でよかったんだよね。洗うのも乾かすのも楽で」
「今はめんどくさいってことかよ」
「時間かかるのは本当のことだから否定はしない」
「つーか、それいつから伸ばしてんの?」
「中3の夏」
 その時からずっと伸ばし続けている。
「部活終わってから?」
「そ」
「なに、反動かなんか?」
「ううん。ショートじゃなくても良くなっただけ。それまではほとんどテニスのことだけ考えてたんだけど、今度は受験のことで頭がいっぱいいっぱいで」
 まさか、ここまで伸ばすことになるとは思ってなかったけれど。
「そりゃあ、外部からうちを受験するって言ったら大変だよな」
「うん、相当勉強した」
 朝から夜まで空いた時間を全て勉強につぎ込んだ。そうでもしないと耐えられなかった。何かしないと。胸にできたぽっかりした空間を埋めようとすることに必死だった。それまでの自分から方向転換せざるを得なくて、志望校を変えた。難関のF学を受けるなんて誰も考えていなかった。瑞穂自身でさえ。あのことが無ければ、今頃茜や光二達と一緒にF学に通ってはいなかったはずだ。
「なんで、うち受けようと思ったの?」
「んー、勉強して、色々考えた結果、かな」
 答えながら、瑞穂は自分に対して意外に思った。あの途方もなく辛く苦しく悩んだ時間を、今ではたった一言で終わらせてしまえるなんて。
 立ち直った――まだそう言える段階ではないと思っていた。その考えに変わりはなくて、どれだけ強がってみても、やはり怖いものは怖い。けれど、あのボロボロだった瑞穂はもういない。少しずつ、けれど確実に、あの頃の自分に向かい合えるようになってきている。
 ガットも張り替えた。グリップも巻き直した。
 大丈夫。
 きっと。



 太陽が真上に昇った午後のコート。
 ゼーゼーと息を切らしながら屈めた膝に手を当てる。
 向こうのコートに転がった黄色いボール。
 なんとか入れたものの、あまりにも無様な自分の姿に苦笑する。
 でも。
「倉橋さん、いいじゃん!」
 傍に駆け寄ってきた森本は目を輝かせている。こんがりと日焼けした手が肩をポンと叩いた。
「3年ぶりにやってこれならいけるよ!現役はいないんだし、もうちょっと練習すれば優勝狙えちゃうかも!」
「そんな、大げさだよ」
「もー、謙遜しないでよ。全然やったことない人よりもそれなりに形になる人の方がって思って無理やり倉橋さんに押しつけて悪いなあって思ってたけど、こんなに打てるなんて。すごいよ、ほんとに」
 バレー抜けてきてよかった、と興奮気味に話しかけてくる森本に曖昧な笑顔で応える。そしてネットに立てかけていたラケットを手に取った。赤と黒を基調としたカラーリングのフレームが光を反射している。
 3年越しにやったテニスは体が全然動かなくて。手も足も反応がいまいちで。狙ったコースだって思い通りにならなくて。ボールのスピードも記憶の中のものと違っていた。
 最初は怖かった。でも、ボールが動けば体が自然と動く。
 黄色い軌跡を追わずにはいられない自分に気づいて少し戸惑った。雑念があったのは最初の内だけ。あっという間にプレーのことだけしか考えられなくなって、ふと我に返ると、またいろいろな感情がせめぎ合う。さっきまでは消えていたはずの怖さもまた甦ってくる。
 けれど、怖いだけじゃない。
 うまくいかなかった悔しさが胸に残っている。
 あれはああしたかったのに。あんな甘いコース、とても許せない。もっと反応が速ければ。
 それは、間違っても嫌な感情じゃなかった。



 体育が終わって、茜と教室に戻る時、光二とすれ違った。ラケットに気づいた光二の顔に一瞬緊張が走る。そして、窺うように視線を送ってくる。それをわざと無視して、通り過ぎる。
 数歩行った先に良臣がいて、視線が合う。
 今のを見られていたんだろうか。
 何となく気まずい気分になりながら、「どうも」「ああ」と軽く挨拶を交わした。
 その後ろで光二が傷ついた顔をしていることなんて知らなかった。
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