人災はある日突然やってくる

ススム | モクジ

  2月の猛威  

 二月に入ったというのに、冬にしては穏やかな日が続いていた。去年に比べると暖かいかもしれない。それでも冬は冬。寒いことに変わりはない。しかし、だからこそ電車の中はいつも暖房が効いている。効きすぎて気持ち悪いこともある。朝の通勤通学ラッシュの時間帯の熱気は夏だろうと冬だろうと同じ様相を見せていていっそ笑えるくらいだ。
 もちろん、満員電車は好きじゃない。それでもこの時間帯に乗り続けて二年近く。大分平気にはなっていた。しかし今日は久しぶりに辛いと思う。熱気がいつもより酷い。客がくらくらするくらい暑くするなんてどうかしている。周りの人は平気なんだろうかと目立たない程度に見回してみる。でも気難しい顔が並ぶだけで求めた答えは得られない。自然と視線は足下に落ちた。
 なんだか嫌な一日の始まりだ。
 朝から電車はこんなだし、身体はだるい。熱くて気持ち悪い。気分も憂鬱だ。
 あと二駅の我慢。
 そう自分に言い聞かせて瞳を閉じた。



 妙に嫌な日だという思いは学校に着く頃には最悪な日だという思いに変わっていた。
 電車はあんなに暑かったのに駅に降りたらとても寒かった。がらにもなく「うわ」と声を出してしまった。そこから歩くこと十五分。教室に入った時にはすっかり冷え切っていた。比喩ではなくぶるぶる震えながら歩いていたのに、今度はまた暖房の熱気で頭がぼうっとなる。
 温度差地獄。そんな言葉が浮かんできた。
 クラスメートと適当にあいさつを交わして自分の席に着く。どっしりと襲ってきた疲れに「嘘でしょ」と呟いた。
 なんだこれ。まだ学校が始まってもいないのに。
 かばんを開ける気にもならない。そのままぼんやりと座っているとスッと影が差した。
「浅間さん?」
「……秋田君?」
 秋田君が身を屈めて顔を覗き込んでいた。その距離が近いことよりもいつの間にか目の前にやってきていたことに驚いた。
「なんか調子悪そうだけど」
「電車が暑くて。でも外は寒いし。教室はなんか暑いし」
「暑い?今?」
 秋田君の目が大きくなる。
 あ、今普通だ。そんなことを考えながら頷いた。なんだかしゃべるのも億劫になってきた。まだ全然話していないけれど。
「ちょっと」
 何がちょっとなんだろう。秋田君の意図するところが全然わからないまま黙っていると、手を握られた。そしてもう片方の手が額に触れる。ちょっとひんやりしていて気持ちいい。少し安心して息を吐き出した。
 他のみんなは暑くないのかな。どうして誰も温度を下げてって言わないんだろう?秋田君も暑くないのかな。でも手がちょっと冷たいから、そうでもないのかな。
 ゆるやかな思考は秋田君に名前を呼ばれて止まる。額から手が離れていくのが惜しかった。気持ちよかったのに。普段だったらそう思うこと自体おかしいと気づけなかった。
「保健室行こう」
「え?」
「熱いから。結構高いと思う」
 ほら、と促されて立つ。そのまま背中に手を添えられて保健室まで連れて行かれた。そんなことしなくても転んだりしないと言っても秋田君は離してくれなかった。珍しくぶすっとした顔をしていたから余計にはねのけることなんてできなかった。



 38.5℃。
 体温計が示した数字に口が開いた。
「なにこれ。壊れてるんじゃない?」
「壊れてるのはあなたの頭ね」
 きつい一言を投げて寄越したのは保健室の先生だった。丁度母親世代の先生の辛辣な口調は結構こたえた。
「先生、浅間さん一応病人なんですよ」
 秋田君のフォローが眩しい。
 そうだそうだ。病人にそんなひどいこと言わなくてもいいじゃないか。胸の中で拳を突き上げる。けれど先生は怒りを抑えた笑顔を浮かべた。
 うわ。
 これには秋田君と一緒に閉口してしまう。
 向こうの機嫌は悪い。ものすごく。
「熱があるのにも気づかないでのらくら学校に来るような馬鹿じゃ困るのよ。高校生でしょ。自分の身体なんだから自分が一番わかってあげないと。学校に来るまでに酷くなってるかもしれないし、誰かにうつしてるかもしれないし。何より出勤したばかりの私に仕事させるとは大したものね。まだ勤務時間始まってないのよ。ああもう、考えれば考えるほど腹立つわ」
 そこですか。恐らく秋田君も同じことを思ったんだろう。二人視線で「なんかねえ」と会話しているとこれまた不機嫌そうな先生の声が割って入った。
「あーもう、あなた今日は帰りなさい。ちゃんと医者に行くのよ。もしかしたらインフルエンザの可能性もあるしね。だから少年、うかつにべたべたしたらだめよ。ほら、あなたもちゃんとマスクして。それから利用者記録書いて。私は担任の先生に連絡してくるから。いい?くれぐれもべたべたするんじゃないわよ」
 保健室で「べたべた」と言われるような行動した記憶なんてありませんが。
 そんなツッコミを先生の背に投げかけて渡されたマスクをかける。
 意外に高熱だった。朝起きた時はだるいぐらいにしか思わなかったから通学中に上がったんだと思う。馬鹿と言われても仕方ない。それにしてもやっぱり散々な言われようだったけれど。
「よくわかったね」
「え?」
「熱があるって」
 感心したと言うと、秋田君が渋い顔をした。
「いや、あれは流石にわかるって。現に八度五分もあるんだから。今日は医者で薬もらってゆっくり治しなよ」
「そうだね。……あ、もしインフルエンザだったら大変だから、もういいよ」
 すると秋田君の顔がいっそう渋くなる。納得できない。そう思ってるのがわかるくらいだ。
「なんで。俺がいたら落ち着かない?」
「そうじゃなくて。秋田君にうつしたら悪いから。秋田君が気づかなかったら今頃教室で佐和子にうつしてたかもしれない」
 感謝してる。
 素直に口にすると秋田君の不機嫌さはほとんどなくなった。
「浅間さんのことだよ。気づかないわけない」
「……そう言われても困るけど」
「かもね」
 秋田君が苦笑する。今ので傷ついたんだろうか。それとも困ったんだろうか。熱があるのも手伝っていつも以上に判断ができない。なんとなく悪いことをした気分になる。
「上に行くよ」
 さらりと言われて一瞬戸惑った。このタイミングでそう切り出したのは、やっぱり自分のせいなのか。
「浅間さんの荷物取ってくる。また三階まで上がるの辛いだろうから」
「……うん」
 また戻ってくるとわかって酷く安心する。安心しすぎて、目の辺りがじんわりと熱くなってくる。秋田君が保健室から出た後、目尻を擦ると確かに濡れていた。
 だめだ。気も弱くなってる。これだから嫌いだ。風邪なんて。



 この時期の病院には近寄るもんじゃない。
 地元の駅から一番近い内科の待合室を見回してそう思った。みんな揃えたかのようにマスクをして、不健康な顔色で辛そうに自分の順番を待っている。ただでさえ体調が悪いのに、見ていると人の分まで具合が悪くなったような感じがする。
 自然と視線が落ち、しばらくは乾燥した空気のせいで荒れ出した手を眺めていた。
 今頃、体育の授業中だろうか。今日は体育館で30分間走のはずだった。早退してきて正解だ。こんな状態で走ったら3分もしない内に倒れてしまう。
 佐和子は大丈夫かな。――秋田君も。
 ふと、視界に学生服のズボンが入ってきた。その足が目の前で止まる。
「あさこ?」
 顔を上げると、隣の高校の制服に身を包んだ短髪の男子がこちらを見ていた。マスクはしているものの、その顔が記憶にあるものと一致する。
「三沢」
 ややかすれた声で名前を呼ぶと、彼は目尻を下げて隣に座った。
「すげー久しぶり。まさかこんなところで会うなんてな」
「本当。なに、三沢も早退?」
「そう。熱測ったら三十八度超えててさー。そっか、あさこも早退か」
 懐かしい呼び名にどことなく気が明るくなる。
「あさこ」というのは中学の時のあだ名だ。同じ学年にもう一人同じ名前の子がいたから、名字と「こ」を足して「あさこ」「ひろこ」と呼び分けされていた。彼、三沢正敏は中学三年の時のクラスメートだ。修学旅行も同じ班だったからよく覚えている。
 随分背が伸びたな。
 ぼんやりした頭で考えられるのはせいぜいそれくらいだ。それでも、こういう場所で知り合いがいるというのは心強い。
「朝のホームルームが終わったところで先生に見つかって保健室に連行されてさー。両脇固められて、俺宇宙人みたいだった」
「なにそれ。私は学校に着いてすぐ保健室行き。ちょっと調子悪いくらいにしか思ってなかったら、それ以上に大変だったみたいで」
「見りゃわかるよ。あさこ、すげー顔赤いもん」
「三沢もね」
 でも自分では気づかなかったんだからどうしようもない。
 顔を見合わせて苦笑した。
 結局、二時間くらい話をしていた。それぞれの学校にいる知り合いの近況を中心に、あれこれと。お互いに辛いから、のんびりと話していたが、お陰で待ち時間はそれほど苦にならなかった。
 診察が終わり、憂鬱な気分で会計待ちをしていると三沢が戻ってきた。浮かない顔にもしかしてと眉間に皺を寄せる。
「どうだった?」
「インフルエンザだって。三沢は?」
「俺も。やべー。追試決定だ」
 頭を抱える三沢に意味もなく頷きながら、しばらく学校に行けないことを考える。学年末テストにはぎりぎり学校に戻れそうだ。こうなったらとことん養生させてもらおう。
 それ以上のことはもう考えられなかった。インフルエンザだとわかって気が重くなったのか、もうまともに頭が動かない。あまりにだるすぎて全てが億劫だ。
 早く家に帰って寝たい。
 その願望だけが頭の中を占めていた。
 なんとなくその場の雰囲気で三沢と連れ立って医者を後にする。身体が重くていつもより歩く速さがゆっくりなのに、三沢は歩調を合わせてくれる。同じ学区でも三沢の家は離れていて、毎朝自転車で駅まで通っているらしい。ぼんやりした顔で自転車を引いている。
「ついてねーな」
「うん」
「俺のクラスでもインフルエンザのやつ、何人かいたんだけど。まさか俺がなるなんてなあ」
「なっちゃったものはしょうがないよ」
「あさこは諦めいいのな」
「……そうかな」
 鈍った頭でも違和感を感じた。
 諦めがいい。そうだろうか。今の自分にその言葉は合わない気がする。ここ半年くらい秋田君のことでいろいろあった。そこでかなり抵抗して――今は丁度折り合いをつけてうまくやっているところだろうか。
 全ての状況を受け入れたわけじゃない。周りがあれこれ言ってくるのはいまだに嫌だし、秋田君がこちらの気を引こうと動く時は遠慮なく突っぱねている。流石に全部が全部ではないけれど、秋田君の、それから周りの思惑通りにはなるものか。
 でも三沢はそんなことは全く知らない。だからそう言えるんだろう。
 学校が違うというのはきっとこういうことだ。
「まー、インフルエンザにかかったのはなんかむかつくけど、そのお陰であさこと会えたもんな」
 仕方ないかな。
 ため息をつく三沢はどうしても学校に行けないことが悔しいらしい。確かに、もし自分が追試テストになったらと思うとその気持ちもわからなくはない。偶然の再会に意味を持たせようとする三沢に小さく笑って頷いた。
「冬休みでもないのに平日に家に何日もいるなんて普通できないよ。二三日は大変だけど、終わりの方はいろいろできそうで楽しみじゃない?」
 今は身体がだるくてどうしようもない。でも、治ってきたら溜め込んでいたドラマをまとめて見よう。最近読んでいないマンガも引っ張り出してみようか。見たかった映画を借りてきてもらうのもいいかもしれない。そんなふうに考えると、出席停止にも希望が持てる。
「そっか。苦しいのは最初だけだもんな」
 何をしようと三沢は指折り数え出すが、やがて「やべぇ、やりたいことが多すぎる」と呆れたように呟いた。それに相槌を打ちつつ、朝よりもずっと頭が重くなっているのを感じる。息をするのもなんとなく苦しくなってきた気がする。
 幸い、自分の家が見えてきたところだった。ここでいいと告げると、三沢が足を止めた。二言三言他愛のない会話を交わし、じゃあと手を振って背を向けようとした時。
「そういや、あさこって今彼氏いるの?」
 頭はぼんやりしているのに、妙にその声ははっきりと聞こえた。
 体が辛い時にそんなこと聞かないでよ。そう思いながらも、答えた。
「いないよ」
 脳裏に心配そうな秋田君が浮かんだ。その瞳が少し悲しげな色に変わる。
 たまらず、瞼を閉じた。
 こちらのそんな気も知らず三沢が「ふーん」と言いながら自転車の向きを変える。
「ちょっと調子良くなってきたらメールするよ。お互いいい暇つぶしにはなるだろ」
「そうだね」
 ほとんど反射的に返していた。とてもじゃないけれど、頭が重くてまともに考えられない。でも三沢の言うことは大したことじゃない。
 じゃあな。
 今度こそ三沢と別れ、歩き出す。家に入るまで一度も後ろを振り返らなかった。
 今はただ、温かい毛布にくるまれて眠りたかった。
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