人災はある日突然やってくる

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  嵐を起こせ 4  

 窪田君との間に冷えた空気が流れた。ただでさえ寒い12月、人気もなく空調の効いていない廊下は体に堪える。せめてコートがあったらよかったのに。その時間をくれなかった窪田君が恨めしい。
 その窪田君は何て言っていいのかわからず、考えてしまったようだった。それでも目はしっかりとこちらを向いていて、気を抜くわけにはいかないと思う。私は間違ったことは言ってない。そう言い切れる。ただ、窪田君が何を言ってくるのか。構えていた私に、彼は困ったような顔をした。
「浅間、そういう言い方はやめろよ」
「気に障った?ごめんね」
「それは浅間の方だろ」
「え?」
「ショック受けてるのに、それ以上自分で自分を傷つけるようなことはするな」
 何もかもわかったような言い方にプツンと糸が切れる。
 窪田君に何がわかるの?知ったような口を聞くのが気分が悪い。少なからず図星を突かれたのが、余計に腹が立つ原因になっていく。
 冗談じゃない。
 これ以上つきあってられるかと顔を背けて、この場を立ち去るべく足を一歩出した。
「浅間」
 かけられた声を無視して、階段を下りようとした時、そこにいるはずのない顔を見つけて息を飲んだ。
 なんで、どうして。
「浅間、どうした?」
 動きを止めたのを不審に思った窪田君が視線を動かす。そしてその先にいる人影を見つけると、低い声でその名を呼んだ。
「聡」
 いつからそこにいたのか。すぐ下の踊り場に立つ秋田君は無表情でこちらを見ていた。
 足音なんてしただろうか?音がよく響く場所でその存在を悟られずにいられるなんて。
「浅間さん、迎えにきたよ」
 くっきりとした発音が耳に届く。そこに滲んだ明らかな不快感にドキッとする。
 少し距離があるけどわかる。パッと見れば無表情――でも、あの瞳からは抑えきれない苛立ちが溢れている。
 戸惑って動けないでいると、秋田君は手を差し出して促した。
「浅間さん」
 そこにこめられた有無を言わせない力強さは一体なんだろう。ますます困惑する頭は、何も考えない内に階段を下り始める。
 いいんだろうか、これで。
 数日ぶりにまともに交わす視線は、これまで向けられたことがないもの。
 階段は反対側にもある。ここを絶対に通らなきゃいけないわけじゃない。それなのに。
 変だ。
 何が?
 秋田君が?
 私が?
 今の私達?
 今までの私達?
 自問している間に、気づいたら秋田君の前にきていた。この一段を下りたら、踊り場だ。秋田君と同じ場所に入るのを躊躇っていると、腕を捕まれ、引っ張られた。足が動く。あっという間に秋田君の前にいる自分に唖然とした。
「カズ、近藤さんがいるのに、浅間さんに近づくのはやめた方がいい」
「別に、やましいことはないしいいだろ」
「他の人だったらね」
 窪田君に向けられた声が冷たい。冗談のかけらもない、本気だ。
「でも、浅間さんはやめてもらうよ」
「何だよ。お前にそんなこと言える権利はないと思うけど」
「権利?知らないよ、そんなの。ただ、俺が気に入らない。それだけで充分な理由だ」
「何様だよ」
 窪田君が呆れたように吐き捨てる。
 流石の傲慢発言に、私も窪田君に共感する。でも、こんなふうに感情を露わにする秋田君の方が珍しくて、驚きだけが強くなっていく。
 フッと嘲笑するような声が聞こえたかと思うと、捕まれたままの腕を更に引き寄せられた。
「そうだね、俺もそう思う。でも俺は浅間さんを簡単に離すような馬鹿じゃない」
 それは一体どんな意味なのか――秋田君の言葉が頭の中でぐるぐる回っていくけれど、思考がついていかない。
 離す、離さないって、どうして。
「ここからは俺と浅間さんの時間だ。カズは帰ってくれ」
 窪田君が邪魔だと言わんばかりの発言。その勝手な内容を聞き流すことはできなかった。
「な、なんでそうなるの!?」
「俺達は話し合う必要がある。そうだよね」
「私は別に……っ」
 そんなこと望んでいない。
 秋田君から離れようと体をよじる。けれど、視線が合った瞬間、動けなくなってしまう。何も言えなくなってしまう。
 抵抗できなくなったのを確認すると、秋田君は再び窪田君に声を掛けた。
「行けよ、カズ」
「んなこと言われたって、お前がそんなんじゃ浅間をこのまま残していけない」
「俺が浅間さんを怖がらせるって?」
「現にそうだろ。怯えてるじゃないか」
 窪田君は階段を下りて秋田君の前で止まる。
「今のお前達がまともに話せるとは思えない。浅間を離せよ」
「嫌だね。俺と浅間さんの問題に首をつっこむな」
「俺の時にはつっこんできたくせに」
「近藤さんに頼まれたからね。でも、俺はごめんだ。それとも、浅間さん……カズに入って欲しい?」
 話を振られて困った。
 自分の選択で状況が少なからず変わる。
 秋田君とこの場に取り残されるのは不安だ。でも、窪田君がいたからといって、何か変わるだろうか。
 何がいいのか。そんなことすらわからない。何をしても、結局、ちょっと前の状態には戻れないような気がする。それなら何もしなくても同じだ。変ないざこざを増やすよりも、このまま放っておくのが一番いいのかもしれない。ただ、どうせ変わらないなら秋田君にそれをわからせることも必要じゃないだろうか。今の秋田君を見ているとそう思う。秋田君は納得していない。だったら、望むようにさせて、無駄だと自覚すればいい。
「いいよ、今日は秋田君の好きにさせてあげる」
「浅間」
「ごめんね、窪田君。でもきっと大丈夫だから。気持ちだけ受け取っておくよ」
 心配してくれるのは素直に嬉しい。それを伝えると、窪田君は腑に落ちない表情で肩を落とした。
「浅間がそう言うなら仕方ないけど。無理すんなよ」
「ありがとう」
 窪田君は気難しい顔で頷くと、秋田君を一睨みして去っていった。後に残された途端、妙な緊張感に襲われる。秋田君と話すのは三日ぶりだ。たった三日でも、疎遠になっていた人と二人きりになるにはまだ感覚がついていけない。何をどう切り出していいかわからずに秋田君に視線で救いを求める。それに気づいた秋田君は、視線をほんの少し和らげた。
「多分長話になるよ。場所を変えようか?」
「そうだね……」
 ここにずっといて随分体も冷えてしまった。できればもう少し暖かいところにいたい。でも、人目がある場所には行きたくない。かと言って、そんな場所は思いつかない。
「やっぱりいいや。でも、コートをとってきていい?寒いから」
「いいよ。じゃあ俺も飲み物を買ってくるから――」
 ちゃんと戻ってきてよ。
 視線で告げられ、頷き返す。
 そこでいったん解散し、コートを着るついでに荷物も持っていくことにした。先に元の場所に帰ってきたのはこっちで、自販機まで足を伸ばしていた秋田君はそれから三分後くらいに戻ってきた。見れば、秋田君も自分の荷物を持っている。コートは持たず、首に巻いたマフラーだけが防寒具だった。秋田君は二本あったコーヒーの内、片方を渡してくれた。熱いくらいの缶コーヒーが冷えた体には嬉しかった。それには素直にお礼を言う。けれど、すぐに言葉がなくなってしまう。二人で階段に座り込んで、しばらく無言の時間を過ごした後、秋田君がやっと口を開いた。
「理由を聞きたいんだ」
「理由?」
「この間、おかしかった日のこと」
 秋田君の反応や本音を引き出すべく、積極的に動いた日――あれを「おかしい」の一言で済ませられたことにやるせなさを感じる。確かに、間違ってはいない。でも、やっぱりちょっと酷くないだろうか。
「おかしいって、何が」
 わざと拗ねたように言ってみれば、秋田君は「何もかも」とばっさり切り捨てる。自分でもわかってはいるものの、流石に不快だ。
「なにそれ。いつにも増して親切だったでしょ?」
「親切?あれが?」
 秋田君の眉間に皺が寄る。
「浅間さんがああいう行動に出るとは思わなかったからさ。お陰でしばらく大混乱だったよ。浅間さんが何考えてるのか全然わからなかったしさ。積極的だけど、俺とどうこうなりたいってわけじゃなさそうだったし。もう何がなんだか」
「それはこっちの台詞だよ。何がなんだかって。秋田君がやってることの方が意味不明じゃない。周りから勘違いされるようなことばかりして。しかも人目があるとこでだけ。私をからかうのがそんなに楽しい?でもやり方ってものがあるんじゃないの?いろいろ言われるこっちの身にもなってよ。秋田君はよくても私は迷惑なの!」
 聞き覚えのある――というよりは、大いに心当たりのある言葉の数々に思わず反論する。勢いづいてうっかりいつも思っていたことまで口から出てしまった。秋田君は一瞬、きょとんとして、けれども気分を害した様子もなく続けた。
「本当のことじゃないから?」
「そうだよ。彼氏じゃない人とつきあってるなんて噂されて嬉しいわけないよ。ただでさえ目立ちたくないのに、秋田君のせいで悪目立ちして、勝手なこと言われて。平気でいられるわけないじゃない」
 そもそも平和をこよなく愛する私が、あんな状況を嬉しがるはずないじゃない。多分、秋田君だってそれはわかってるはずだなのに。
 秋田君の中ではそこで一つに繋がったらしい。膝の上で頬杖をついてこっちを向いた。
「じゃあ、この間のあれは仕返し?」
「秋田君が何を考えてるか確かめたかったの。わかったことなんて、ほとんどなかったけどね」
「なんだ、それならそう言えばよかったのに」
 秋田君が言うほど簡単なことじゃないよ。人それぞれ考え方や感じ方が違うのはわかってるつもりだ。でも、こっちがすごく真剣に考えていたことに対してあまりに無頓着だからイライラしてくる。
 私が悩んでいたことはそんなにちっぽけなことだったの?
 怒りがこみ上げてくるのを缶コーヒーをぎゅっと握って自分を落ち着かせる。 
「俺が何を考えてるか知りたいなら教えてあげるよ。浅間さんのこと気に入ってるんだ。いつもいい反応してくれるから、構わずにいられない」
「ふざけないでよ!」
「ふざけてない」
 あんまりな言葉に怒りが頭を突き抜けた。反射的に立ち上がろうとすると、手首を捕まれて動きが取れなくなる。真剣な顔は内容に反してからかいなんて微塵もない。こめられた力も強くて、もう一度座らざるを得なかった。それでも言われたことが頭の中を埋め尽くしていく。
 気に入ってる?
 いい反応?
 構う?
 そんなの、おもちゃと変わらないじゃない。単なる秋田君の遊びであんなふうにされたらたまらない。こっちの意思を無視するような人なんて近づきたくもない。でも秋田君はそういう人じゃない、とも思う。ふざけてないと言うならもっとちゃんと説明して欲しい。訴えるように見ると、秋田君は頷き返してくれた。
「面白いってだけじゃなくて、ちゃんと一人の人としていいなって思ってるんだよ。俺の上辺だけの笑顔に気づいただけじゃなくて、俺がどんな気持ちでいるのかちゃんと見てくれるところとか。浅間さんがそういうのが嫌いなのはわかってるよ。でも俺はもうこれがしみついてるからさ、そう簡単には直せない。そういう厄介なところがあるから、俺のこと本当に理解してくれる友達だって少ない。そんなところに浅間さんが現れたから嬉しくなって」
 淡々と語りながら、手首を掴んでいた手が下に降りる。手に重ねられたそれは、私よりも温かかった。
「浅間さんは逃げ腰だったけど、俺は近づきたかった。周りが色々言うのもどうでも良かったんだ。俺にとっては、浅間さんと一緒にいることの方が大事だったし。浅間さんは困りながらも、俺のこと邪険にしながらも、なんだかんだでつきあってくれて。それでもって、こっちの感情までしっかりわかってるから、すごく安心できた」
 そうだろうか。
 確かに、他の人よりは秋田君の感情に敏感な方だと思う。でも、それは秋田君の瞳――わかりにくいけれど、浮かべている表情よりはよっぽど正直な部分から察していたに過ぎない。それにしたって、楽しんでいるだとか、怒っているだとか、退屈しているだとか、それくらいしかわからない。今の感情を知ることはできても、どんなふうに考えているかなんて理解の範疇を超えている。それを「しっかりわかってる」なんて言われても困る。それなのに口を挟んではいけないと思うのは、秋田君が初めてまともに自分の気持ちを話してくれるから。ちゃんと聞いておきたい。だから今はまだ我慢しないといけない。 
「俺、三人兄弟の末っ子でさ。普通、末っ子って我が儘言い放題みたいなイメージあるけど、うちは兄貴達が仲悪くてね。必然的に俺は真ん中に立たされるから、どっちも刺激しないようにしてた。そこからかな、取りあえず笑っとけ、ってなったのは。中学に入った時にはすっかり身についててさ、簡単に取れないんだよ。人からはやたら優しいだの穏やかだの言われるけど、実際そんなことないしね。それで悪く見られることが少ないのはよかったかな。でも、なかなかこっちの考えてることをわかってもらえない」
 秋田君はそれをずっと不満に思っていたのかもしれない。私にしてみればうさんくさくてしょうがない笑顔も、一般的には温厚なものに見えるようだから。同じクラスになってから、「秋田君は優しいしいい人だから」なんて聞いたのは一度や二度じゃない。少なくとも両手の指じゃ足りないくらい、秋田君はそんなふうに言われてきた。
 それは秋田君自身に原因があるんじゃない――なんて言うのは簡単だ。実際、そう思う。でもそんなふうにここまできた秋田君にとっては、不可抗力だったのかもしれない。自分から望んでこんなわけのわからない性格になったんじゃない。それがわかって、何故かホッとした。
 視線を上げると、秋田君の目が眩しそうに細められる。
「だから、浅間さんと出会えたことは俺にとってすごいことだったんだ。奇跡、ってのは流石に言い過ぎかもしれないけど」
 初めて見る微笑みだった。
 嘘じゃない、本物だ。そのことに驚いて、それがまたすごく優しげだったから目が離せなくなる。
 秋田君とはクラスメートでしかない。でも、少なくとも向こうは「ただのクラスメート」だとは思っていなかった。それを嬉しいと思うのはとても自然なことで、予定外にも感動してしまっているのだって、きっとおかしなことじゃない。
 それと同時に、困ったな、とほんのちょっとだけ思った。これじゃ切れるものも切れない。秋田君とはもう無関係でいようって決めたのに。それが非道なことに思えてきた。こんなふうに言われたら、そんなことできるわけない。
「……だからって、変な噂流されるのはやっぱり困る」
 やっと出た言葉は、恨めしさが混じったものだった。でも秋田君のすること全部に「いいよ」なんて言える程心も広くない。
 ここで秋田君が理解を示してくれればよかったのに、秋田君は急に真顔になった。
「浅間さんは大事な人だから。取られたくないんだ。俺との噂がある限り、浅間さんにそういう目で近づく男を排除できるだろう?」
「そういうのは、好きな人に言うことじゃない?」
 クラスメート――普通の友達よりも心理的な距離が近くても、ちょっと行き過ぎた言葉だと思う。しばらく恋愛には無縁だった身としては、突然こういうことを言われるとどぎまぎしてしまう。不本意にも、秋田君にドキッとさせられるようなことを言われ慣れてはいるけれど、今のはかなり度を超えていた。
 けれど、次の瞬間、秋田君に抱きすくめられる。ほんのさっきまで重ねられていた手が背中に回っていることにびっくりする。コート越しとはいえ、二人の距離がゼロになっているのを実感して、どうしていいかわからなくなる。
「好きだよ。だからこんなことも抵抗なくできる」
「な、な、……!」
 いきなり何を言い出すの、秋田君。
 頭の中が一気に活性化したような、思考が止まってしまったような。すっかり混乱してしまったところに言葉が重ねられる。
「でも、まだつきあいたいってところまではいってない。それは違う気がするんだ。今のところはね」
「いいから、もう全然いいから……!」
 自分でも何を言っているのかよくわからない。ああ、でも本当にそこまで好きになってもらわなくていいから。秋田君に好かれること自体、ちょっと大変なのに、そういう対象に見られるなんてたまったものじゃない。
 けれど、追い詰められた心境に秋田君が追い打ちをかける。
「女として好きになったら、ちゃんと言うから」
 もうだめだ。
 今度こそ、間違いなく頭が真っ白になった。
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