人災はある日突然やってくる

モクジ

  絶え間なく  

 最近、学校に行くのが酷く憂鬱だ。
 その原因は――。
「おはよう、浅間さん」
 これだ、毎朝教室で待ち受けている無表情笑顔。
 いや、れっきとした笑顔には変わりないが、私はこれを本物の笑顔だとは認めていない。
「……おはよう」
 取り敢えず、挨拶は返さないと。それでもできるだけその顔を見ていたくなくて、顔を逸らしながら机に鞄を置く。顔を上げると、嫌でも彼が視界に入ってくるのがこの席の悪いところ。――それも、この人が意図的にやったことだけどね。
 視力が悪いわけでも、特別な理由があるわけでもないのに、席を交換して隣に来た秋田聡。それより少し前から彼が私につきまとうようになった時からろくでもない噂が流れ出していたというのに。席替えで彼が余計なことをしてくれたお陰で、噂はますます酷くなった。
 2年3組の秋田聡と浅間梢は付き合っているとか。
 秋田は、学校でも彼女と離れたくなくて、席替えの時に浅間の隣を引き当てた生徒と席を交換してもらうほど彼女のことが好きらしいとか。
 でも、浅間はつれない態度をとってばかりで秋田が可哀そうとか。
 可哀そうなのは私の方なのに!!と言っても、今や誰も信じてくれない。友人の佐和子ですら、私達のやりとりを楽しんでいるくらいだ。
「ねえ、化学のプリントやってきた?」
 話しかけないでよ、と思っても、人目もある為、あまり邪険にできない。こういう時、隣の席であることがわずらわしい。もっとも、秋田君はその辺も考えてわざわざ隣にきたのかもしれないけど。……嫌がらせの天才じゃない?間違っても誉め言葉じゃないけど。
「やれるとこまでなら」
「へえ、偉いね。浅間さん、当たってたっけ?」
「違うけど。でも、今日提出でしょ。下手にチェック入れられたくないじゃない」
 化学の野口先生は、提出物に厳しい人だしね。
「で、なに?やってないとか言っても、見せないよ」
 誰がこの人にそんな親切をしてやるもんですか。
「俺も一応やってきてるから、ご心配なく」
 ……じゃあなんでいちいち聞いてくるのかなあ。あのさ、今だって周りが聞き耳立ててるんだよ。面白いネタはないかって、窺ってるの。秋田君だってわかってる筈なのに。でも、彼は噂なんて気にしない。寧ろ、噂が流れるのを楽しんでいる節がある。なんて悪趣味な人なんだろう。こっちの身にもなってみろっての。
 あーあ、本当に変な人に目つけられちゃったな。
 振り払っても振り払ってもしつこくくっついてくるものだから、こちらは既に諦めモードに入りかけている。
 向こうだって、その内飽きるでしょ。うん、きっとそうだ。2学期が終わる頃には、綺麗さっぱり何事もなかったかのようになっている……といいな。
 
 
 2時間目の授業が終わると、鞄から体育着の入った袋を取り出して「佐和子ー!」と友人の名前を呼んだ。
「早く更衣室行こう」
「はいよー、今行く」
 次の時間は体育だ。廊下に出て待っていると、佐和子が「お待たせ」と駆け寄ってきた。それを合図に二人で更衣室に向かう。
「梢さー、体育になると生き生きするよね」
「えーそんなことないよ」
 口では否定しながらも、零れる笑顔を止められなかった。
 運動は得意な方ではない。体育もそんなに好きではなかった。けれど、最近はこの時間が楽しみでたまらない。なんたって、無条件で彼から離れていられるんだから。これでうきうきしない方がおかしいじゃないか。
「そういや梢、今日の部活なんだけど」
「ハロウィンでしょ」
 部活は佐和子と一緒に英語部に入っている。週に1回、英語の歌を歌ったり、映画を見たりするお気楽な部活だ。そんな英語部の二大イベントと言えば、文化祭とハロウィンだ。文化祭は1学期に終えた。残すはハロウィンのみ。ハロウィンと言っても、みんなで仮装して手作りのお菓子を持ち寄ってゲームをするくらいのもので、これと言って大変なことはないはずなんだけど。
「うん、そうなんだけどさ。今日中に衣装合わせもしといてくれって」
「うわ、めんどくさ」
「だよねえ」
「大体、衣装って文化祭で着たやつでしょ?なんで合わせが必要になるわけ?」
 今年の文化祭では、ハロウィンの時に準備が楽になるようにわざわざテーマをハロウィンにして展示とお菓子販売を行ったのに。衣装だって思いっきり使いまわしだ。
「んー、あれじゃない?4ヶ月で急激に成長しちゃった人は、本番までにこっそり直しておいでよっていう仏心じゃない?」
「……そういうの仏心っていうの?」
 さりげに失礼だよ、佐和子。
「まあ、いいじゃん。それ終わったらさっさと帰っていいって話だし」
「そっかー」
 うん、それなら悪くないかも。

 
 体育が終わって教室に戻ってくると、自分の席の周りに男子が集まっていた。
 その中には秋田君もいて、皆の話に笑いながら相槌を打っている。――笑っていると言っても、全然楽しそうじゃないんだけど。
 まあ、どうせいつもの光景なんだから気にしたってしょうがない。
 そんなことよりも、彼らにどいてもらって席に戻るべきか、先生が来るまで佐和子のところに行くべきか。
 楽しそうに騒いでいる集団に声をかけるのは躊躇われる。そこまでして席に着きたいわけじゃない。だから迷わず佐和子を探したのだけれど、気づかない内に佐和子は教室から姿を消していた。トイレにでも行ったんだろうか。他の仲のいい子はまだ更衣室から戻ってきていない。困ってしまって、取り敢えず廊下に出ようかと方向変換しようとした時、急に呼び止められた。
「浅間さん」
 振り返ると、男子の集団が一斉にこちらを見ていた。その視線の数に、思わずうろたえる。その中で、にこにこと定番の笑顔を貼り付けている男。
 なに、用事じゃないの?なんでいちいち呼ぶわけ?
 戸惑っていると、秋田君と一番仲のいい窪田君が「あ」と声を上げた。
「ごめん、俺達がいたら通れないよな。悪い悪い」
 ほら、どけよー。窪田君が交通整理をするように私の席の近くに陣取っていた男子を反対側に誘導した。すると、他の男子もにやにやしてそれぞれに散っていく。
「あー、お邪魔だったか」
「悪いねー浅間さん」
「ごゆっくりー」
 そういう気遣いはいらないんだけど。顔が引き攣りそうになるのを何とか抑えて、自分の席に着く。
「ああいう言い方されるの嫌なんだけど」
 顔も見ないで言うと、「そう」とどうでも良さそうな声が返ってくる。
 その言い方はないんじゃない?睨みつけてやろうと椅子を弾いて身体ごと向けると、秋田君の笑顔の中に冷たい光を放つ瞳を見つけて息を呑んだ。
「ねえ、俺さっきどんな顔してた?」
「さっきって?」
「窪田達と話してた時」
「無表情」
 正直に答えると、瞳が少しだけ穏やかな色を帯びた。
「そっか」
 そう答える様子は、まるで。
「安心した、って顔してるよ」
 指摘すると、秋田君は視線を逸らした。無言で机の中から化学の教科書を引っ張り出す。
 ああそうですか、無視ですか。普段どうでもいい時につきまとってくるのに。自分から行くのはいいけれど、人から来られると迷惑ってやつ?
 いや、いいんだよ。秋田君とどうこうなりたいってわけじゃないもの。
 でもね、そういう接し方されると腹が立つんだよ。
 これからはもっと素っ気ない態度を取ってやる。そう心に決めて、ふてくされたように壁に上半身を寄り掛けたら。
「……安心したんだよ」
 隣からボソッと聞こえてきた声に思わず視線を戻したけれど、生憎資料集を眺めている秋田君は無表情で、何を考えているかわからなかった。
 それでも、無視されたわけではないとわかって。
 態度を変えるのは見送ってあげてもいいかな、なんて思った。


 放課後、英語部の部室では部員達による衣装チェックが行われていた。と言っても、それぞれの衣装に着替えて問題がないことを確認するだけなので、部室はすっかり女子更衣室のような雰囲気になっている。男子部員がいないからこその光景だ。
「うん、ぴったし!やっぱりサイズの方は問題なかったね」
 佐和子が鏡の前でポーズを取りながら全身のチェックをしている。魔女をイメージした全身真っ黒の衣装だが、スカートがかなり短くなっている。当日のメイクも口裂け女みたいになっていて結構怖かった。そんなことを思い出しながら、佐和子の隣で衣装を身につけた自分の姿を眺める。うん、どこにも変なところはない。
「良かったー。ちょっと心配だったんだ」
「どこがー。梢も全然大丈夫じゃん」
 梢の衣装は黒がベースだが、紫や赤といった他の色もところどころに入っている。テーマは幽霊だったので衣装は適当に布を縫い合わせて作っただけだ。その代わり、メイクはかなり気合いを入れて、気味が悪いくらいに青白い顔を作ったのだけれど。
「ねえねえ、せっかくだからメイクも練習しようよ」
「はあ?別にいらなくない?顔に星書いたりするくらいでしょ?」
 文化祭当日、メイクに思いのほか時間がかかり、本当に大変だった。他の部員も同意見だったので、ハロウィンではそんなに凝らずに雰囲気だけ楽しもうということになっている。だからいちいち練習する必要もないはずだ。しかし、佐和子は逃がすものかと言わんばかりに梢の両肩をガシッと掴む。
「いや、だってやってみないとわかんないじゃん。ほら、座った座った」
「え?ええ?ちょっ、ちょっと佐和子!」
「はーい大人しくしようねー」
 佐和子に強制的に椅子に座らされ戸惑っている間に佐和子が化粧ポーチから道具を取り出し、化粧水を梢の顔に施していく。
「あのさー、自分でやればいいと思うんだけど」
「あたしはいいの。家でひっそりと練習するから」
「じゃあ、私も家でひっそりとやるからいいってば」
「はーい残念でしたー。もう遅いから、諦めようねー」
 そんなやりとりをしている間にも、佐和子の手は進んでいく。
 次々と現れるカラフルな色合いの化粧品達に不安はどんどん大きくなるばかり。次第に佐和子の顔がにやけていく。やがて他の部員がこちらを見てはプッとふき出して顔を背け出すのを見て確信した。
 きっと今、私の顔はとんでもなくおかしなことになっている。
「ねえ、佐和子。私、笑われてるんだけど」
「えーそう?気のせいじゃない?」
 笑いを堪えて否定されても、説得力がない。
 これ以上遊ばれてたまるか。
「あーもうやめ!」
 無理矢理佐和子を振り払って椅子から立ち上がり、鏡の前に立つ。そして、言葉を失った。
 右目の周りは不健康なくらいに黒く塗られていて、まるでパンダのよう。なのに左目の方はゴールド系のシャドウで目元を強調されている。口紅は顔から浮かび上がるような濃いピンク。オレンジのチークはどこかのキャラクターかと言いたくなるくらい見事にはっきりと円を描いている。その上に赤い口紅で描かれた×印。
 新手の羽子板でもやったのかと言いたくなるような自分の有様に、震える手を抑えきれない。
「ちょっ、何これー!!佐和子、どーしてくれんの!」
「いやー、我ながら傑作だわ!」
 半分涙目になりながら佐和子に掴みかかるが、佐和子はケラケラと笑って喜んでいるだけ。
 ああもう信じられない!どういう神経してるの!?
 これならピエロの方がまだマシだっての!
「もー最悪!!落としてくるー!!」
 机の上に出ていたクレンジングを持って部室を出る。幸いにも、廊下には人がいなかった。人に見られる前に移動しなければと部室棟の廊下を全速力で走り抜ける。一番近いトイレは校舎に入ってすぐ。このまま突っ切れば、何とか顔だけは見られないはず。衣装は目立つだろうがどうでもいい。とにかく、顔さえ死守すれば。
 お願い、誰もいないで!!
 心の底から強く願って校舎に入って廊下を曲がったが、丁度教室から出てくる人影に驚いて思わず足を止めた。驚きすぎて、一旦引き返すという選択肢も浮かばなかった。
 教室から出てきたのは、秋田聡だった。


 彼は突如目の前に現れた仮装したクラスメートに驚きを隠せないようで、目を大きく見開いていた。
 ああ、なんでよりにもよって秋田君と……!!
 しかも、この人がこんなに目を丸くしているところなんて、初めて見る。
「え、と……」
 何を言えばいいのかわからず、言葉に詰まる。冷や汗をかいているのに気づいて、緊張に拍車がかかる。
 この沈黙が気まずい。
 どうしよう。どうしよう。
 ただそればかりが頭の中をぐるぐると回っている。
 しかし、その空気を破ったのは目の前の人物の方だった。
「あはははははは!!!」
 は?
 何が起こったのかすぐには理解できなかった。
 笑っている。
 あの秋田君が、お腹を抱えて、前屈みになりながら大声で笑っている。
「何それ?浅間さん、すっごい変!いや、最高だけど」
 目尻に涙を溜めて、笑いながら失礼なことを言われてハッとする。
「ちょっと、いくら変でも爆笑って酷くない!?これは佐和子が勝手にやっただけで!ちょっと秋田君、聞いてる!?」
 声を上げて怒るが、秋田君の笑いは止まらない。
 多分何を言っても無駄だと思い、溜息をついて壁に寄りかかった。
 有り得ない。
 佐和子にいじられたこの顔も有り得ないけれど、目の前で秋田君が爆笑しているなんて、もっと有り得ない。
 初めて見るまともな表情がこれってどうなの?しかも原因は私の顔が変だからなんて。
 ああ、もういっそ一週間くらい不登校になってしまいたい。
 絶望的な気分に浸っていると、笑いが少し収まってきた秋田君が口を開いた。
「ねえ、俺今どう?」
 そう尋ねる声は、まだ震えている。
「……どうって、お腹捩りながら大爆笑している人間が何言ってんの」
 誰から見ても笑ってるよ、今の秋田君は。
「だよね。あー、やばい。これ以上は苦しい。見てらんない」
「落としてくる!」
 クレンジングを握り直してトイレに向かおうと足を踏み出すと、手を掴まれて引き止められる。
「ちょっと離してよ。顔洗いたいんだから!」
「駄目。俺一人で笑っていろっていうの?」
  手を振り払おうとしても、向こうの力の方が強くて敵わない。それどころか、もう片方の腕を背中に回されて、気がついたら目の前が真っ黒になった。自分が秋田君の腕の中に閉じ込められたことに気づくのに、少し時間がかかった。
「ほら、これなら見えない」
 確かに、これなら秋田君には私の顔が見えないんだろうけど。
 抱き寄せられてる方の身にもなってみてよ。
 思いがけない状況に緊張はするけれど、それでもときめいたりしないのは、秋田君の身体が笑いの為に震えているからだろう。ムードの欠片もあったもんじゃない。
「ちょっと!私は早く落としたいの!」
「だーめ」
「こっちの台詞だってば」
「はいはい、俺の笑いが収まるまで大人しくしてて」
 秋田君が私を閉じ込める腕に力を加えると、逃げ出そうと身体を動かすこともできなくなって。これは諦めるしかないのかと溜息をついた。
 本当に、人の顔を見て笑うなんて失礼な奴。
 諸悪の根源である佐和子のにやついた顔を思い浮かべて、いつか仕返しをしてやると心に決めた。


 結局、秋田君から解放されたのはそれから時計の長針が180度回った頃で。
 その間に二人の姿を目撃した数人の生徒達によって、梢と秋田が抱き合っていたという新たな噂が翌日学校中に広がることになるのを、この時はまだ知る由もなかった。
モクジ
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