人災はある日突然やってくる

モクジ

  どこで間違えた  

 一つだけ過去の過ちをなかったことにできるなら、私は「あの日」をなかったことにして下さいとお願いする。
 それくらい、私はあの時のことを後悔しているのだ。


「おはよう、浅間さん」
 朝、自分の席に座って単語帳を開いていると、上から穏やかな声が降ってきた。
 相手は秋田聡、顔を上げるまでもない。と言うか相手の顔を見たくなかったので、視線を単語帳に落としたまま、「おはよう」とぶっきらぼうな声で返した。しかし、秋田君はそれで通り過ぎてくれるような人間ではない。私が顔を合わせないとわかると、秋田君は私の手から単語帳を取り上げた。
「あ」
 単語帳が離されていくのを視線で追いかけると、にこにこと笑顔を浮かべた顔と目が合った。
「おはよう、浅間さん」
「……おはようって、言ったはずだけど」
 何でもう一度言うの、と眉を顰める。
「挨拶をする時は相手の顔を見るのが基本。じゃないと相手にされてないようで寂しいしね」
「思ってもいないことを言わないでよ」
 その証拠に、秋田君の瞳には何も浮かんでいない。あれはただの使い古された笑顔=無表情だ。
「単語帳、返して。まだ今日の範囲、全部見てないんだってば」
 手を伸ばすと、秋田君は仕方ないなとあっさり返してくれた。
「俺も見てないんだ。今日は2時間目だし、めんどくさいよね」
 俺も見ないとなー。
 そんなことを言って秋田君は自分の席に行った。私の隣の列の前から2番目。それを見届けて再び単語帳に視線を落とそうとすると、隣の席の友人・松井佐和子が「ねえねえ」と話しかけてきた。
「今日も仲いいじゃん」 
 にやにやと笑う佐和子の顔を見て、思わず溜息をつく。
「そんなんじゃないって」
「そんなことあるって。梢、秋田になんかすっごく好かれてるし」
 どうなっちゃってるんでしょうねえ。
 佐和子が単語帳を片手にちらちらと期待に満ちた視線を投げかけてくるけれど、生憎、彼女の好奇心を満足させるようなことは皆無だ。でも、佐和子の気持ちもわからないでもない。
 私と秋田君が放課後話したその翌日から、秋田君は私に話しかけるようになった。
 挨拶は勿論、休み時間もちらほら私のところにやってきては他愛のない話をしていく。毎日毎日、それの繰り返し。お陰で秋田君との距離が少し縮んでしまった。絶対に関りたくないと思ったのに。気づけば、さっきみたいなやりとりが普通になってしまっている。
 周囲にしてみれば、ある日突然秋田君がそれまでろくに話したことのない私に構うようになったのだから、興味を持つのはある意味当たり前のことで。
「すっかり噂になってるよ。秋田が梢のこと好きだって。既に梢達がつきあってるってのも聞くけどね。それは違うんでしょ?」
 佐和子の発言に、頭を抱える。
「うわーやめて。どっちも間違ってるから。秋田君の考えてることはわからないけど、絶対そういうのじゃないってば」
 まったく、なんでそんな噂になってるのよ。
 あの日から半月、私は秋田聡観察をしたことを激しく後悔していた。


 昼休み、私が佐和子とお弁当を食べていると、そこに秋田君がやってきた。どうやら秋田君はもう食べ終えたらしい。
「今日はサンドイッチなんだ」
 その辺の空いている席から椅子を失敬した秋田君は、そうするのが当然かのように私の横に席を陣取った。目の前で野菜ジュースを頬張っていた佐和子がにやりと笑った。
 ちょっと、そんな顔しないでよ。こっちは全然嬉しくないっての。
「あげないよ」
 これは私の大事なご飯なんだからと主張すると、秋田君は例の笑みを浮かべた。
「いらないよ。俺、満腹だし」
「……あっそ」
 返事をするのもめんどくさい。
 取り敢えずご飯だとサンドイッチにかぶりつく。秋田君はその様子を笑顔で見ている。そして、佐和子はそんな私達を含みのある笑顔で見ている。やだなあ、この構図。
「ちょっと、梢。秋田ほっといてもくもく食べてるのってどうよ」
 失礼じゃない?ちゃんと相手しなさいよ。
 そんなこと言われても、食事中にやってくる方もどうかと思うんだけど。反論しようとしたけど、それより先に秋田君が口を開いた。
「いや、いいよ。俺のせいで食べられなかったなんて後で言われるのも困るしね」
「そんなの秋田が気にすることじゃないって」
 佐和子に決め付けられるのも困るんだけどね。私が食事をしている間にも、二人の会話は続いていく。
「あ、もしかして私がいると秋田も喋りにくいとか」
「そんなことないよ。それに、そういう話は別の時にしないと」
「お。なになに、そういう話もしてんの?」
「それは松井さんには言えないなあ」
「えー、なに、私思いっきり邪魔なんじゃん。それじゃあ退散するとしますかねー」
 佐和子がお弁当を片付け始める。
「え、佐和子、そんなことしなくていいんだけど。むしろ、ものすごくここにいて欲しいんだけど」
 引き止めようとしても、佐和子には通じない。
「い・や。私、馬に蹴られて死にたくないもん。じゃねー、ごゆっくりー」
 ひらひらと手を振って、友人は行ってしまった。
 馬に蹴られてって、あれですか。人の恋路を邪魔するやつは何とやら。
 そういうのじゃないから。天に誓ってもいい。なんなら閻魔大王の前で高らかに宣言してもいい。私と秋田君は断じてそんな関係じゃない。
 けれど、残されてしまったからにはどうしようもない。さっさと食べて、私もここから姿を消そう。
 急いでサンドイッチを詰め込んでいると、勢い余って喉を詰まらせた。ゴホゴホむせて苦しんでいると、横からスッと紙パックのお茶が差し出される。それを受けとって飲むと、やっと落ち着いた。
「……ありがとう」
 取り敢えず、お礼は言っておこう。お茶を渡してくれた秋田君にペコリと頭を下げると、秋田君はやはりいつもの笑顔で受け止めた。
「どういたしまして」
 なんかなあ。この笑顔を見てると、感謝の気持ちがどんどん薄れていくんだけど。
 所詮は嘘笑顔。こんなの、笑ってないのと一緒。
「今日の5時間目、席替えなんだって」
「へえ、そうなんだ」
「うん、坂崎が言ってた。あいつ、今日の当番だから」
 5時間目はHR。昨日の段階では先生は何をするか考えていないと言っていたけど、結局席替えになったのか。多分、坂崎君あたりが騒いだんだろうなあ。
「まあ、もう1ヶ月くらい経つもんね」
「そうそう。ね、浅間さん、近くになれるといいね」
 突飛な発言に、お弁当箱を片付ける手がつい止まってしまった。
 秋田君は時々こういうことを言ってくる。できるだけ動揺したくないんだけど、慣れないものはしょうがない。いや、慣れたくもないんだけど。
「あのさあ、あまりそういうことばっかりしてるから、変な噂が立つんだって」
「噂?」
 にこにこと笑いながら、声だけはきょとんとしている。かと言って、それも本心じゃないのはこの1ヶ月でわかっている。とんだ役者だ、この秋田聡という男は。
「秋田君が私のこと好きだーとか。秋田君にとってもいいことじゃないでしょ。そろそろやめた方がいいよ」
「別に。俺は気にしてないよ」
 サラッと言ってのけるこの男が憎い。迷惑してるのはこっちなんだってば。
「秋田君が気にしなくても、私が気にする」
 わかってちょうだいよ。視線で訴える。
「諦めるんだね」
 心からの訴えをすっぱりと無視されて、溜息をつく。そこに、楽しげな声。
「ねえ、俺今どういう顔してる?」
 ここ1ヶ月ですっかり聞きなれた台詞に、顔を上げて秋田君の瞳をじっと見る。顔はやっぱりいつもの笑顔なんだけど。その瞳は。
「無表情。って言いたいとこだけど、なんだかすごく面白がってるみたいだね」
「うん、その通り」
 言い当てると、秋田君は満足げに頷いた。それも、表情を変えたわけではなくて、ただ雰囲気が満足げって、ただそれだけなんだけど。
「楽しみだね、席替え」
「んー、そだね」
 適当に返すと、秋田君が立ち上がった。
「きっと、面白いことになると思うよ」
 それだけ言って、秋田君は窪田君達のところに行ってしまった。
 面白いって……何が?
 まったく見当もつかない私は、首を傾げることしかできなかった。


 5時間目は、秋田君が言う通り、席替えだった。
 いつも通り、代わりばえのないくじ引き。私が引いたのは14番だった。
「佐和子、何番?」
「19番。梢は?」
「14番。廊下側の真ん中。佐和子は真ん中の列の一番後ろか。離れちゃったね」
「うん。まあ、でもいい席で良かったよ。梢も美味しい場所だよね」
「うん」
 佐和子と話をしていると、秋田君がやってきた。
「浅間さん、何番?」
 それに答えたのは私ではなくて佐和子だった。
「お、秋田。梢は14番だよ。秋田は?」
 ちょっと、勝手に言わないでよ。佐和子を睨みつけるけれど、彼女には何の効果もなかった。仕方なく秋田君をチラリと見ると、彼は座席表の書かれた黒板をじっと見つめている。
「そっか、14番か……」
 そう呟くと、彼はくるりと佐和子を振り返った。
「松井さんは?」
「あたしは19番。で、秋田は?」
 再度佐和子が尋ねたのに、秋田君は返事をしないで窪田君達のところに行ってしまった。
「なに、あれ」
 佐和子が怪訝な顔をしている。流石に、二度も無視されれば誰だってムッとくる。でも、私は秋田君を庇おうなんて気はさらさらない。
「さあ」
 その時は、何も考えていなかったのだけど。


「なんで?」
 机を移動させて、自分の周りを確認して発した第一声がこれだった。
 私の隣には、秋田君が座っていた。
「隣だね、浅間さん」
 にこにこと嬉しそうに言ってのけるその顔から思いきり顔を逸らしたくなる衝動を抑えて、私は頭を抱えた。
「なんでよりによって、秋田君が隣なわけ?」
 こんな偶然、いらないんだけど。40分の1の確率で、どうしてこの人と隣同士にならなきゃいけないの?
「酷いな。俺、浅間さんの隣になりたくて、わざわざ席を替わってもらったのに」
 なんだって?
 信じられない一言に彼の顔を凝視する。
 相変わらず無表情笑顔を浮かべてはいるけれど、多分、嘘は言っていない。それでも言わずにはいられなかった。
「……嘘でしょ」
「残念、本当だよ」
 誰よ、こいつと席を替えた奴は!!余分なことをして――!!
 ああ、秋田君と机を並べているだけで周りの視線が集まってくる。私は次の席替えまで、この好奇の目に晒されなきゃいけないの?
 最悪、どうしようもないくらいに最悪!!
 がっくりとうな垂れる私に、隣から追い討ちをかけるような一言がやってきた。
「ね、面白いことになったでしょ」
 蘇るのは、昼休みに言われた言葉。
『きっと、面白いことになると思うよ』
 つまり、計画的だったわけね?
全然面白くないってば!
 秋田君にとっては面白いかもしれないけど、私にとってはこれ以上ないくらいの悪夢だ。
 登校拒否になりそう。いや、いっそそうしたいくらいだ。
 頼むから神様、仏様、閻魔様。
 私に平穏な日々を下さい。
モクジ
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